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新シリーズ

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石の文化を探る

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【ツロテンとは何ぞや】

 「中村君、ツロテンとはわかるか」、旧師と雑談しているときに、突如出てきた質問で あった。何のことかわからず、しばらく黙っていた。「やっぱり、わからんよね」。
 このような問答をしたのは、三十年以上前だったような気がする。旧師の話だと、黎 明館で数年の企画展示の検討を進める会議で出てきた、一つのタイトル案が「ツロ展」 であつたという。そう聞いても、筆者には何の展示か、見当がつかなかった。
 旧師の話だと、ツロとは鹿児島語で「燈籠」のことだという。六月灯の祭りで、手作 りの華麗な灯籠が奉納されているのを、よく見かける。その灯籠や各所にある石製の 灯寵など、歴史的遺物を紹介して展示するのだといわれる。
 それにしても、「ツロ展」では一般の県民には通じないのではないかと、ようやく筆者は 返事をしたのであつた。
 そういえば、鹿児島市内には「石燈籠」と書いて「いづろ」と読ませる地名があること で、ようやく「ツロ」と結びつけることができた。この旧師との問答は、なぜかいまでも忘 れられずに、頭の隅に残っている。
 その後は、いづろ通りを歩くときは、角の石燈籠を一目見るようになった。また、石 燈籠が道路の向かい側にもあることにも気付いた。いままでも目にしていたのであろう が。
 連想作用というのは、どこで何と結びつくのか、ふと学生時代に見た石燈籠が頭に 浮かんできた。奈良東大寺の背後にある手向山八(むけやま)幡の境内にあった古い石燈籠の姿で あった。指導教官が、その古型の特色を説明されたのが、ふと想起されたのである。
 そういえば、旧島津氏玉里邸庭園には、さまざまの形の石燈籠がある。茶室の前の池 の回りを巡りながら、それぞれの場所に元からあったものか、それとも現在女子高に なっている校地の「亀の池」あたりから移されてきたのか、と思いめぐらせながら散策し たことがった。とりわけ、黒門を入ってすぐ目についた三重の燈籠は珍しいと思った。

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【巨大な清水磨崖仏群】

 鹿児島市街地から南西へ。南九州市川辺町に清水(きよみず)磨崖仏群と呼ばれている大磨崖仏 の一群がある。国道から横道に入った所にあるので、知る人ぞ知る、という感じの場所で ある。しかし、訪ねてみると、その巨大さに驚かされる。
 高さ約二〇メートル、横幅約四〇〇メートルにわたって、五輪塔・梵字(ぼんじ)・仏像などお よそ二〇〇基が彫刻されており、壮観である。接近して、真下から天を仰ぐように見 上げると、それぞれの彫刻像が上方から迫って来る観があったが、いまは倒壊の危険 があるとかで、手前に柵が設けられ、少し離れて見ることになっている。それでも十分見 応えがある。
 これらの彫刻の古いものは平安時代の末期であり、以後、各時代にわたっており、供 養のために造られたとみられるが、初期のものはこの地域に一大勢力を有していた川辺 氏に由来するようである。
 川辺氏は平氏一族で、源氏との戦いに敗れこの地に逃れて新天地を築いたとの伝承が あり、時期的にもほぼ合致している。それでも新しいものは明治時代の製作であり、そ れぞれの時期に、それぞれの意図をもつ人物が、仏教的聖地を継承して彫像したのであ ろう。
104  いずれにしても、その製作は容易ではなく、長期間かかっての作業であったはずであ り、その忍耐の背後にあった宗教的執念には頭が下がる思いがする。
 またこの巨大磨崖仏が、荒れ狂った廃仏殿釈の嵐からのがれ、現在まで残存している ことは、幸いなことであった。この貴重な文化財を何としてでも保護し、後世に伝える ことは、私どもの責務である。
 谷山の清泉寺は、伽藍は失われてしまったが、南側岩壁上部の磨崖仏が残存してい る。阿弥陀如来像などのほか、「建長三年」(一二五一)などの年紀があり、鎌倉時代の 銘も残されている。しかしながら、高所にあり、また時季によっては周辺に草が繁茂す るため、平地からは見えにくいのが残念である。
 ちなみに、寺跡には島津大和守久章(やまとのかみひさあき)とその家臣の墓がある。久章の墓は五輪塔で、周 辺の住民によって花が供えられ、清掃もなされて、よく守られているようすが感じら れる。
 また、薩摩半島には日羅(にちら)が建立したとの伝説をもつ寺院がいくつかあり、その一つが 清泉寺である。ほかにも、坊津の一乗院とか、谷山の慈眼寺などがある。しかしながら、筆 者がいくつかの史料から調べたところ、日羅の存在は認められても、南部九州に足を踏 み入れた痕跡は認められないので、すべて伝説の域を出ない。なお、日羅は肥後南部の葦 北(あしきた)の出身で、六世紀後半に朝鮮半島で活躍し、一時的に帰国していたことは認められる が、滞在期間も短く、その間に各地に寺院を建立することなどは不可能であった。

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【重厚な宗功寺墓石群】

 さつま町宮之城の島津家墓地は、各地にある島津家墓地、本家、分家を通じてその 重厚さにおいて随一であろう。墓域もそれなりの広さを占め、おちついた雰囲気に墓石 を覆う家型の石造りの構えが三十数基配されているのは壮観である。
 敷地内の宗功寺の伽藍は、廃仏殿釈で破壊されていまはないが、この墓石群から推定 すると、伽藍はそれなりに壮麗であったと思われる。また、残存している墓石群からす ると、島津一族のなかでも、有力な血筋とみられるであろう。
 そこで、調べてみた。その一部をここに記しておきたい。宮之城島津家の初代は本家 十五代貴久(たかひさ)の弟尚久(なおひさ)である。したがって、十六世紀に始まる。以後、島津藩政下では 家老職を務めたので、一族の中では藩政の重職にあった家柄であった。
 宮之城は北薩の学問の中心でもあり、郷校盈進館(ごうこうえんしんかん)は多くの有能な人材を生み出して いる。また、江戸幕府学問所の林家とも親交があり、墓地内の世功(せこう)碑には林春斎の撰 文が刻まれている。

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【消えた巨石とんび像】

 江戸期の鹿児島城下、祇園神社の横に巨大な鳶(とび)の石像があったことが『三国名勝 図会』に絵入りで紹介されている。名づけて「鳶石」という。
 同書には、「当社の前、華表(鳥居)の右に一奇石あり、大きさ屋のごとし、勢ひ鳶の啄(ついぼ) むに似たり。山本正誼(まさよし)(造士館教授)、嘗(かつ)て此石の銘を作る」とあり、その文章を載せて いる。「鳶石銘」は漢文調であるから、訓(よ)み下し文を記してみたい。

城下、祇園洲(ぎおんのす)口に石有り、其の形頗(すこぶ)る鳶の止まった姿に似ている。名づけて 「鳶石」と称す。肩の高さ一丈五尺八寸(約四メートル七四センチ)頭は垂れて西に向かふ。嘴(くちばし) 地を去ること六尺六寸(約ニメートル)、尾は地に附(つ)く。うずくまる姿は地を占め、周り六丈二尺 (約十八メートル六〇センチ)。城下の奇観也。斯(ここ)に在ること、おそらく幾千万年かな。 時に文化改元の歳也。(一八〇四年)

 この祇園神社は別名八坂神社ともいい、かつては鹿児島五社のうち、諏訪神社につい で二位に位置していた。いまでもこの神社の祭礼は「ギオンサー」と呼ばれ、七月には鹿 児島市の市街中心地を賑わしている。
   しかしながら、いまはその「鳶石」の像はない。山本正誼が、「幾千万年」前からここに あった、「一奇観」はどこに消えたのであろうか。調べてみると、文明の波に抗しがたく、 破壊されたのであった。
 じつは、この神社のすぐ横を鉄道が通ることになり、この鳶石が邪魔になった。そこ でこの鳶石はダイナマイトで爆破されたという。明治三二年(一八九九)九月のことであ る。
 この鉄道は鹿児島では最初の鉄道で、明治三四年に開通した鹿児島と国分の間を 結ぶもので、のちに延長されて、人吉・八代に通じることになるから、いまの肥薩線で ある。当時は、この路線が鹿児島(本)線であった。いまの中央駅を始発とする鹿児島 本線は昭和初年に開通した路線である。
 以前、先躍の方々と歓談したとき、上京するときには、国分(現在の隼人駅)から人 吉・八代を通る列車を利用した話を聞いたことがあったが、この路線はトンネルが多い ので、機関車の煙で難渋したようである。
 それにしても、「鳶石」を何とかして残せなかったものか、と残念な思いである。鹿児 島では、廃仏毀釈に見られるように、しばしば毀(こわ)す方向に力が注がれる。この「破壊エネ ルギー」はどこから来るのであろうか。

【残った磨崖仏】

 磨崖仏は、ご存知のように岩壁に彫られた仏像であり、九州では臼杵(うすき)の石仏などが 有名である。南部九州では、臼杵ほどみごとな石仏はないが、各地に古いものが現存して いる。
 廃仏毀釈が徹底していた鹿児島では、江戸期以前の寺院は一寺も残っていないが、磨 崖仏が残存していることに、筆者はときに奇異な感を覚える。しかし、その残存場所 が岩壁の高所にある例が多いことを考えると、毀すのも簡単ではないので、一応は納得 している。
 その所在が低い場合は、一部を除いて毀釈の対象になっている。たとえば、姶良市帖佐 の天福寺の場合は高所の石仏はわずかに残存しているが、手の届く位置の石仏は削(そ)ぎ 毀されている。この寺院の石仏の残骸は、空港への高速自動車道から見える位置にある ので、通過するバスの窓から望見しながら、歴史のひとこまを想起することがある。
 しかしながら、各地に残っている磨崖仏を見ると、"よく残った”との表現があた るように思われる。川辺の清水(きよみず)磨崖仏、谷山清泉寺の磨崖仏はその代表例であろう が、霧島市北部の旧横川町赤水(あかみず)の石堂磨崖仏は低地にありながら、ほとんど無傷のま まである。
107  赤水の磨崖仏は、JR霧島温泉駅からその場所にたどり着くまで、ややとまどった。
 友人の車で土地の人から教えられた方向の道を進みながらも、道がしだいに細くなり、 両側は木が茂り、しだいに暗くなってきた。
 もし先方から車が来たら進退きわまるような所を進める限り進んだが、ついに車は止 まらざるを得ない狭い場所になり、それよりは石の下りの坂道を歩くことになった。
 こんな所に、果たして石仏はあるのだろうか、と疑念を抱きながら足元の悪い細い 坂道を一歩一歩下っていたら、突如、磨崖仏が姿を現わした。「地獄(地極)に仏」を実感 したのであった。まさに、人に知られない極地の秘仏である。赤水の石堂磨崖仏が残存 した理由も、ここまでの道をたどり実見するとおのずからわかるようである。
 仏前に生花が供えられていることから、この石仏が地元の人ぴとから護られている ことに気づかされた。銘文が風化したのか、読みにくかったが、「建武二年」らしいとい う。とすると、一三三五年であり、この年に造られたのであろうか。もう七〇〇年近く前 であり、廃仏毀釈の難をのがれたばかりでなく、よく保護されて伝存してきたことに 感動してしまつた。
 各地の磨崖仏を巡りながら、廃仏毀釈の一因について考えさせられた。というのは、廃 仏毀釈の目的は寺院の梵鐘・仏具などの銅製品を入手して、武器の鋳造やニセ金を造 ること、寺の収入を没収して藩庫に繰り入れること、さらには寺領・寺地を没収して士 族に払い下げることなどであったから、おそらく岩壁の磨崖仏そのものへの関心はうす かったのではないか、ということである。

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【隼人前後の石の使用】

 南部九州に住んでいた人びとは、古くから石と親しんできたようである。それは縄 文時代と呼ばれている石器時代の文化が、全国でも高度に発達していたことから知る ことができよう。
 その石の文化の伝統は古墳時代になると、板石積(いたいしづみ)石室墓とうい特異な墓制を残し ている。この墓制は地表面より下に掘りくぼめて造られているので、名称の上に「地下 式」を冠して呼ばれ、地表面には標識を残すことが少ないことから発見することが困難 な場合が多い。
 しかし、一基発見されると、群在するのが一般的であるから、次々に発見される。その 構造は、板石状の石材で墓室の周囲や天井を覆うもので、遺体は板石で囲まれること になる。また、この墓制の分布は川内(せんだい)川流域を主にしている。
 したがって、かつては薩摩隼人の墓制といわれたこともあったが、時期的には隼人以 前の墓制である。また、その分布は、のちの薩摩国の一部の地域でしかないことも考慮 する必要がある。
109  遺体を安置する底部はほぼ円形であるが、その直径は遺体の身長より短いので、伸 展葬は困難であり、屈葬が一般的である。かつての墓地は、そのほとんどがいまは私有地 であり、畑などの耕作地である。
   ということは、調査が終了すると埋め戻して返還しなければならないので、この墓制 を現地で保存することは簡単なことではない。そのような状況の中で、さつま町永野の 別府原(びゅうばる)古墳は町の努力で現地保存に成功し、いまも見学することができる貴重な例 である。したがって県指定の文化財になっている。
 つぎに、古代の石造物となると、霧島市隼人町の「隼人塚」をとりあげねばならな い。
 隼人塚は、その名称からして隼人の時代の遺物と思われがちであるが、隼人は七~ 八世紀の存在であり、隼人塚は十二世紀であるから古代末期であり、隼人と結びつけ るには無理がある。
110  この隼人塚については、長年にわたり調査し、研究されてきた、現地在住の藤波三千 尋さんの著書『隼人塚の歴史』があるので、筆者が語る必要はないであろう。
 ただ、藤波さんの著作以後の状況について少しつけ加えると、その後の調査で石像の 埋没部分が出土し、新しい知見を得たことや、三基の石造層塔や四天王像が復元され、 全体が一新されたことであろう。また、近接して資料を展示した小博物館も建設されて いるので、隼人塚見学とともに、観覧をおすすめしたい。
 鹿児島の石造物は多様である。それらの石造物を見ると、つい永久に残り続けると 思ってしまうが、すでに消えてしまって目にすることができなくなっているものも、とり あげたら少なくない。その代表は、甲突川や稲荷川にかかっていた石橋である。
 一九九三年(平成五年)八月六日の水害は甲突川の五石橋や稲荷川のすべての石橋に 大打撃を与えた。加えて人工による破壊によって、その姿を消してしまった。いま紙園 之洲公園の一角に石橋の一部を復元している。
 しかし、川にかからない石橋は見るに耐えないし、現場での復元を期待していた筆者 には、まさに断腸の思いだったことがよみがえってくる。観光県が、事あるごとに標榜(ひょうぼう)し ている「史と景の町づくり」が単なる掛け声だったことを実感させられた時でもあった。
 石造りの建造物で、鹿児島県でときに見かけるのが倉庫である。あるいは倉庫様式 に類似した建物は各地に見出せる。その大きさは大小さまざまで、個人所有のものも ある。他の地域なら、土壁で漆喰塗りが一般的であろうが、鹿児島では石造りである。 同じ石造りでも二階建ての公共建築もある。照国神社大鳥居のすぐ近くにある旧興 業館である。一時は鹿児島市役所や県の商工奨励館としても利用されたが、その後は、 県立博物館の考古資料館として、発掘品の展示場になっていたので、ご存知の方も多い のではないだろうか。
 しかし、国分市上野原に縄文の森などの新しい展示施設ができたので、いまは利用さ れていない。一八八三年(明治十六年)の建造であるからすでに一三〇年以上経過してい るものの、二階の前面左右にバルコニーがあり、各所に種々の技巧が施されたその偉容 は、いまもかつての風格を伝えており、見応え十分である。


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