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新シリーズ

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古代薩摩の福祉政策

【化外地域の住民隼人】

 大隅・薩摩の古代住民は隼人と呼ばれていたが、その隼人は天皇の徳化がおよびがた い化外(けがい)の民とされていた。
 そのような化外の民に福祉的政策が実施されていたのか、大いに疑問をいだく人が 少なくないであろう。いまでは「福祉」の語は一般的に流布し、国民の生活安定のための 政策として不可欠なものとなっている。ところが、高齢者にたずねると、太平洋戦争以前 には、あまり耳にしなかった語という。
 まして古代のこととなると、福祉的政策の存在については否定的である。そのような 傾向のなかで、一部の人びとの間では福祉的政策の存在を認め、学校で教わったという。
 そこで、学校でどんなことを教わったのかをたずねると、共通するのは仁徳(にんとく)天皇の話 である。そういわれてみると、筆者は教わった記憶はないが、兄や姉たちの教科書で挿 絵をのぞき見たことを思い出した。
 不確かな思い出をたよりに、図書館で古い教科書を探したところ、小学校六年用の 「小学国史」(上)に、「仁徳天皇」の項目があり、幼い頃に見た挿絵入りで、仁徳天皇が 人民の苦難をふびんに思い三年間税を免除する話がのっていた。その全文を引用してみ よう。

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【仁徳天皇の御恩】

 仁徳天皇のこの話は事実ではなく、多分に伝説的なものであろうが、仁徳という天 皇名からしてこのような伝説を生ぜしめる要因があったとも考えられよう。
 古代の天皇にとっては徳の有無は、天皇の資格に需要な要件であった。人民が天災 におびえたり、流行病に苦しめられたりするのは、天皇の徳が欠如していることに原因 がある、と見られていたからである。そのような見方からすると、仁徳天皇はその要件 を備えた有徳天皇の代表例とされていたのであろう。
 仁徳天皇の時代は五世紀で、いまだ国家の体制や機構が未熟であったが、これから 取りあげる隼人の時代は、大宝律令などの法制が成立し、政治機構が整えられた八世 紀のことである。
 ところが、法制や機構が整備されても、隼人ばかりでなく、蝦夷(えみし)や阿麻弥(あまみ=奄美)人 はそれらの枠外の存在とされており、天皇の徳化がおよばない化外の民であった。した がって、夷人・雑類(いにんぞうるい)などとも呼ばれていたから、これらの人びとに福祉的政策などあり 得ないとみなされるが、じつは隼人については福祉的政策が実施されていたのである。 そこで、その具体的内容について取りあげてみたい。
 隼人への福祉的政策の実態は、『薩摩国正税帳」が断片ながら残存していることによっ て知ることができる。この正税帳は偶然に東大寺の正倉院に保管されて伝存したもの であった。

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【正税帳が伝える福祉】

 『薩摩国正税帳』」は、薩摩国の一年間の税の収入(在庫)と支出を記録して朝廷に報告 したもので、天平八年(七三六)度分である。
 以下に述べることは、この一年分の断片的記録からの類推を多分に含んでいる。また、 大隅国については、正税帳が残存していないので、それも類推するしかない。
 まず、この正税帳が作成された時期が、政権の隼人統治においてどのような段階か を、おさえておく必要があろう。すでに八世紀初頭に薩摩国が成立し、つづいて大隅国 も成立していた。いずれも、日向国からの分立であった。
 それ以後、薩摩国の住民は薩摩隼人、大隅国の住民は大隅隼人と呼ばれるように なり、隼人はこの二国に限定された呼称となる。
 といっても、この二国の国府周辺には、隼人を領導するため、肥後や豊前などからの 移住民が居住していたので、これらの移住民は「非隼人」として、分けて考慮する必要が ある。
 正税帳が作成された時期には、二国にはいわゆる班田制がいまだ施行されていな かったので、正税帳の収入(在庫)の項に記されている稲や粟がどのような方法で集積 されたものかは明らかでない。その点について、筆者は推測を試みてはいるが、いまはそ れについては繁雑になるので触れないでおきたい。
 これらの点を前置きして、正税帳の支出の項をみると、まず「国司巡行部内」の項目 が目に付く。国司巡行は、国司が統治領域の状況を検分して巡ることで、統治者とし ては最も基本的、かつ重要な職務である。この巡行を薩摩国では年間に九度実施してい る。とはいえ、薩摩国の規模では、国司は守(かみ)以下、橡(じょう)・目(さかん)などで構成され、介はいないの で、それ以外の役職者も動員されているようである。とりわけ、医師がしばしば動員さ れている。
98  一度の巡行には、四人の例が目立つが、九人の例があるなど、その構成は巡行の目的に 応じて変動している。目的の多くは税の徴収にかかわるものであるが、なかには「賑給(しんごう)」の 必要度を判断するための状況視察がある。賑給は、困窮者を対象に行なう救済策であ る。その中には病人の場合も少なからずあったとみられるので、医師が同行し、病気の程 度を視る必要があったようである。
 賑給のための巡行は三度行われている。年間の巡行が合計九度であるから、三分2 を占めている。その内容を少し検討してみたい。

【賑給を分析する】

 賑給は賑恤(しんじゅつ)とも表記している。その対象は、高齢者・鰥寡(かんか)孤独の者・病人・貧窮者な どであり、その程度に応じて稲・布その他の物品を支給する制度である。
 田畑の作物の不作などに対応する租税の減額や免除などは消極的施策であるが、賑 給には積極的施策といえる側面がある。
 まず、高齢者は八〇歳以上を主対象にしている。また、六一歳以上で妻のない者を 「鰥」、五〇歳以上で夫のない者を「寡」、十六歳以下で父のない者を「孤」(ときに 「惸(けい)」とも表記)、六一歳以上で子のない者を「独」としている。ただし、国によってはその 年齢区分に多少の変動を認めてもいるようである。
 賑給が実施される契機・起因は二つの場合に大別されそうである。その一つは、国家 的大事や慶事に際して行われるもので、天皇の即位・立太子・改元・祥瑞(しょうずい=め でたい前兆)の出現や、天皇・皇親(皇族)の病気平癒祈願などである。もう一つは、災 害・疫病などの発生や流行、凶作、キキンなどによって、鰥寡孤独の者を主にその影響 が顕著に見られる場合などである。
 これらのうち、前者のようにそれが国家的なものであれば、賑給が全国的に 実施されるが、後者の場合のようにしばしば地域的な現象であれば、地域が限定され て実施されることになる。
 しかしながら、いまだ天皇支配が十分に浸透していない隼人の地域に、天皇の恩恵 を賜与することには違和感をもつ読者も少なからずいるのではないかと思われる。それ もまた当然であろう。
99  冒頭に述べたように、隼人は一般人民とは区別されて、「夷人・雑類」などと呼ばれて 賎視されていたのであった。そのいっぽうで薩摩国には、他国からの一般良民が移住して もいたので、その一般良民に対しての天皇恩恵の賜与ではなかったのかという、疑問も生 じるであろう。その点についても検討してみる必要があろう。
 薩摩国では十三郡があったが、薩摩国北部の出水・高城(いずみ・たかき)二郡は、肥後国からの移民で 構成されていた。そのうちの最北の出水郡は早くから肥後勢力が進出していた。した がって、郡司なども肥後系の氏(うじ)名が占め、肥後型の高塚古墳などの分布も見られる。
 その南に位置する高城郡は薩摩国府の所在郡(現・薩摩川内市一帯)であり、大宰府 による計画的移民によって構成され、高城郡を構成する六郷のうちの四郷(約二〇〇 戸)は肥後国の郡名が用いられていることが明らかにされている。したがって、この二郡 だけは「非隼人郡」である。
 『薩摩国正税帳』には「隼人十一郡」との語句が見え、出水・高城二郡とは区別されてい た。したがって、非隼人二郡には良民としての律令的税負担も課せられていたが、隼人 十一郡には一部の負担のみであり、いまだ班田制も未実施の状況であった。
 ところが、『薩摩国正税帳』には、隼人十一郡の中の一郡である河邊(かわのへ)郡の項に、つぎのよ うな記載がある。

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【隼人にも恩賜】

河邊郡
天李七年定正税穎稻凱任陸伯玖拾束疎

雑用壺伯捌拾漆束蝉把
酒漆斗薫升参合嚢毫署
依天竿七年潤十一月十七日恩勅、
賑給寡惇等徒人

 正税帳のこの部分は、残念ながら後続の部分が切断されていて読みとれない。それで も非隼人郡である「高城郡の酒者」七斗二升三合が河邊郡(のちの川辺郡)で賜与され てることが読みとれるが、その賜与の対象となったのは、おそらく病人であろう。とい うのは、同じ『薩摩国正税帳』の他の断簡部分(郡名不詳)に、「疾病人藍伯麗拾捌人給 藥酒漆斗参升戴合」とあり、酒七斗三升二合が病人一百四十八人に賜与されているこ とが記載されているからである。
 そこでは、三十人に各六合、八十人に各五合、三十八人に各四合とも記されているの で、年齢などによって、賜与量が区分されたと推定されよう。「酒は百薬の長」の諺(ことわざ)の原 典は、中国の「漢書』にあるというが、まさに酒は薬であった。
 では、この恩賜は隼人に限定されたものであろうか。そこで、先掲の河辺郡の記事に あった恩勅を諸史料で捜してみた。すると、同じ日付の詔勅を見出すことができた。す なわち、
「統日本紀」天平七年(七三五)閏(うるう)十一月戊戌(十七日)条には、つぎのようにある。

 詔(みことのり)したまはく、「災変数見(しばしばあらわれ)れ、疫癘巳(えきれいや)ま ぬを以て、天下に大赦せむ。天平七年閏十一月十七日昧爽(よあけ)より以前の大辟罪(だいびゃくざい)以 下、罪軽重と無く、巳発覚(いはっかく)も、巳結生(いけっしょう)も未(み) 結生も、八虐(はちぎゃく)を犯せるも、常赦の限に在らず。但し、鋳・盗の徒(ともかち)の死ぬる罪に入る べきは、各一等を降(くだ)せ。高年百歳以上には穀(こく)三石を賜へ。九十以上は穀二石、八十以 上は穀一石。孝子・順孫・義父・節妻は、その門閭に表して、身を終(を)ふるまで事勿(な)か らしむ。鰥寡惸独(くわんかけいどく)と篤疾(とくしつ)の徒(ともかち)との、自存 すること能(あた)はぬ者(ひと)には、所在の官司、量りて賑恤(しゅんじゅつ)を加へよ」とのたまふ。

 この史料は漢文体を訓み下し文にしたが、それでも特殊な語句があって読みづら い。そこで、その要旨のみを概説すると、つぎのようである。
 近ごろは災変や流行病が続くので、天下に大赦(たいしゃ)を行なうことにした(犯罪者の赦免 については省略)。高齢者には年齢に応じて稲穀を支給する。孝行者に対しては、各戸の 門に表彰碑を建てる。また、鰥寡惸独や重病者については所在の役所で、それぞれに応 じて賜物を与えよ、との詔勅があった。
 したがって、この時の賑給は全国的に実施され、それは隼人にも適用されたのであっ た。ただし、川辺郡の場合は稲穀ではなく、酒であった。おそらく賑給の物品やその分 量については、それぞれの国の事情に応じたものとみられる。それにしても、一般公民だ けではなく、隼人をもその対象にしていたことは注目すべきであろう。
 いまだ公民になりきれていない化外人の隼人にまで、天皇の恩勅はおよんでいたので ある。念のため記すと、『薩摩国正税帳』は、隼人が「夷人・雑類」とされていた時期とほ とんど同じ時期に作成されたものである。
 隼人への賑給の度数が、公民を主とする他の諸国と比較すると、少なかったのではな いかとの推察も可能であるが、それを裏付けるような史料は見出し得ない。したがっ て、さらに接近するために、国司巡行のなかで賑給を目的として行なわれた役人の人数 を比較することを試みることにしたい。といっても、正税帳は一部の国のものしか 伝存しておらず、伝存していても断簡であるから、国司巡行が部分的にでも判読でき るのは、薩摩国を含めて四か国のみである。薩摩国のほかでは、駿河(するが=静岡)・周防(すおうー山口)・豊後(大分) の三国が一応は比較の対象となるようである。
 その四力国で、国司巡行の役人数の総数と、そのうちで賑給を目的とした巡行の役 人数の比率を出してみた。その結果が別表の%の欄である。すなわち、豊後国と薩摩國 の比率が高いことがわかる。とりわけ、隼人の居住地薩摩国がもっとも高く、薩摩国に 対する賑給が重視されていたことが分る。

【隼人への賑給重視】

 隼人は夷人・雑類であり、化外の民であった。その隼人への賑給を重視する政権の真 意を見極める必要があるようである。
 中央政権が列島南西部の隼人の地域へ、その勢力を本格的に伸張させてきたのは 七世紀の後半、天武朝から次代の持統朝であった。「日本書紀」によると、天武天皇十一 年(六八二)七月の記事に
 隼人多く来たる。方物を貢ぐ。
とあるのが、隼人が具体的に記録された最初である。そこではまず、来朝して貢物(みつぎもの)を 奉(たてまつ)る、いわゆる朝貢者であった。朝貢は、政権と来朝する者の間に上下関係があったこ とを示唆している。そうでなければ、片道およそ四〇日の遠路を貢物を担いで、政権の 所在地までやって来ないであろう。
 この朝貢は、その後八世紀の終末まで断続的に統けられている。しかし、その上下関 係はいまだ確固たるものではなく、不安定な要素をいくつか温存させていた。その代表 的なものが、律令国家の人民支配の基本となる班田制の未施行であった。
 中央政権は辺境支配にさまざまな施策を講じている。その一つが仏教による教化で あった。持統天皇六年(六九二)閏(うる)五月には、大宰府を通じて、大隅と阿多(あた=薩摩)に仏教 を伝えたことが、「日本書紀」に見えている。また、『薩摩国正税帳』には、僧十一人が常住 して、年間を通じて読経などの仏教行事を勤めていたことが記録されている。いずれも 国分寺建立以前のことである。
 また、同正税帳には儒教の祭典である釈奠(せきてん)も、春秋に定期的に行なわれていたこと も記されている。

101【日向神話による教化】

 仏教や儒教による教化は、武力による勢力伸張ばかりでなく、いわば精神的柔和策 であろう。そのような柔和策は、天武朝ごろに成立したとみられる南部九州を舞台とし た日向神話にも見出すことができる。
 天孫ニニギノミコトが、なぜ南部九州の高千穂峰に降臨したのか。そのニニギノミコト がなぜ阿多の笠沙(かささ)にやってくるのか、また、笠沙の美女(コノハナサクヤヒメ)と結婚す る話になるのか。さらには、海彦・山彦が誕生し、海彦が「阿多隼人の祖」として語られ るように展開していくのか。
 この神話は、山幸が天皇家の祖であり、隼人が天皇系譜につながる存在であるととも に、隼人の祖が天皇家の祖の山幸に服従する結末になっている。このような展開からみ ると、日向神話の構成と成立には、隼人への懐柔策がもくろまれていることが読みとれ るように思われる。
 日向神話の原話は、もともと阿多隼人の海神信仰をめぐる話であったとみられる。 阿多隼人の居住地域は、東シナ海に面しており、北上すれば北部九州や五島列島そし て朝鮮半島、南下すれば南島諸地域と結ばれる、その結節点に立地している。
 したがって、縄文時代以来これらの地域と交流があったことは、出土する土器や貝 製品、さらには墓制などの遺物・遺構などから明らかになっている。
 これらの遺物・遺構から見ても、日向神話の原話は、阿多隼人の海神信仰を基にし た「阿多神話」にあった、と筆者は考えている。
 その阿多神話に中央政権は造作を加え、阿多の美女とニニギノミコトは結婚し、その 子の山幸は海神の娘トヨタメヒメと結婚することによって、政権の勢力を伸張させ、つ いには阿多隼人を服従させる筋書を作りあげたのであった。
 日向神話は、記紀神話のなかでも末尾の部分であり、その細部には改作の痕跡も見 られるが、いまは繁雑になるので触れずにおきたい。
 この辺で話をもとに戻そう。天皇が隼人にも恩恵を与えて。賜物を与える。それも他 の公民諸国よりも、厚いもてなしである。その背景を考えるとき、日向神話の造作の筋 書は少なからず参考になろう。
 それは、天皇の支配下に入ることは、隼人の祖にあたる海幸以来、当然のことであり、 また、それによって、より多くの恩恵が与えられることを示唆するものであった。
 ふり返ると、天皇の恩恵である賑給は、仁徳天皇の説話を生み出した思考と、共通の 発想にもとつくものと思われるが、さらには、律令国家の賑給は、化外人にまでおよん でおり、そこには、天皇中心の国家として進展しつつある側面が見出せるようである。

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