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新シリーズ

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島津墓地と廃仏毀釈

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【福昌寺跡の墓地】

 久しぶりに、福昌寺跡の墓地を訪ねてみた。福井県出身で、いまも実家に住んでおり、病気 をかかえながらも、気ままに旅をしている同窓生を同行して、島津氏の墓地を案内したの であった。
 かつて、筆者が福井県を尋ねたときは、越前一の宮の気比(けひ)神宮や鳥浜(とりはま)貝塚などに連れ て行ってもらったが、数えてみると、それから二十数年経っている。
 玉龍高校裏手の福昌寺墓地は、いつ行っても静かで、人と出会うことはほとんどない。島 津家六代師久(もろひさ)から二八代斉彬(なりあきら)までとその夫人たち、さらに斉彬の弟、久光など多くの墓が林 立しているが、なかでも久光の墓所が入口正面にあって、場所も広い。なお、最後の藩主忠義 と夫人らの墓だけは背後の常安(とこやす)峰にある。
 友人は、全国有数の石高を誇る島津氏の墓地を一度尋ねてみたい、と以前から思っていた という。その念願がかなって、感想を述ぺながら、島津氏は「神仏混交ですね」との一言が、ず ばり当たっている感じであった。
 それは、この墓地が福昌寺という仏教寺院の一角にありながら、入ロを入ったら正面に鳥 居があったことによく示されていた。そこで筆者は、あれは神仏混交ではなく、仏から神への 「変心」ですと応答し、その説明をしながら、つぎの見学場所は浄光明寺と決めて、福昌寺 跡からさほど遠くない南洲墓地へと歩を進めた。
 西郷隆盛以下の西南戦争の戦死者の墓地が南洲墓地であり、隣接して南洲神社がある。
 ところが、この一帯はもと浄光明寺(じょうこうみょうじ)のあった場所であり、この寺院は島津氏とのゆかりが深 かった。
 というのは、島津氏初代忠久から五代貞久までと、二一代吉貴(よしたか)の菩提寺であったからであ る。それは法号(法名)からも明らかであり、初代忠久は「得仏道阿弥陀仏浄光明寺殿」、二代 忠時は「道仏仁阿弥陀仏浄光明寺殿」、三代久経は「道忍義阿弥陀仏浄光明寺殿」、四代忠宗 は「道義仲阿弥陀仏浄光明寺殿」、五代貞久は「道鑑道阿弥陀仏明寺殿」と、それぞれ に浄光明寺の寺名がつけられている。
 さらには、阿弥陀仏の号がつけられているように、浄光明寺は時宗の寺院であって、島津氏 が曹洞宗の福昌寺を菩提寺とする以前の状況も知ることができる。なお、島津氏の歴代に は法号のほかに神号もつけられているが、それは明治時代以後に神道に改宗した後の追号で ある。
71gif  『三国名勝図会(えず)』によると、文治二年(一一八六)に初代忠久が、「薩隅日の地に封を 受て國に就き給ひし時、鎌倉より宣阿上入を從へて來、當寺を創建して、これに居らしむ」と あり、これが浄光明寺の始まりと記されている。
 この記事の真疑は一応置くとしても、島津氏とかかわる寺院としては古い代表である。
 浄光明寺は、いまは南洲墓地に近接して立地しているが、明治初年の廃仏殿釈以後、早い 時期に復興され、境内地には歴代住職の墓石の一部や石造物などが保存されている。また、 二一代吉貴の墓は昭和四五年に福昌寺墓地に移されている。
 なお、南洲墓地のある台地からは、中世の城下町の一帯が望まれ、桜島を眼前にして、その 間に錦江湾という、雄大な景観が見られる。
 また、浄光明寺と並んで古い寺院とされる東福寺がある。浄光明寺の北東に立地する多 賀山の奥に東福寺城跡があり、島津氏が鹿児島に入部した最初の拠城であった。文保三年 (一三一九)の安養院(東福寺の後身〉文書の禁制に「鹿児島東福寺」と名称が見えるという。 いまでは、その城跡に石碑が建てられているのみであるが、大隅国境にも近く、薩隅二国が臨 める要地である。高台でもあり、軍事的拠点としても恰好(かっこう)の場所であろう。
 このような古い寺院についで、福昌寺が建立される。応永元年(一三九四)、島津氏一族の伊 集院氏から出た石屋真梁(せきおくしんりょう)の開山という。その福昌寺については前述したが、さらにあとでも 述ぺたいと思う。
 福昌寺についで大寺とされたのは大乗院(だいじょういん)である。大乗院は現在の清水(しみず)中学校の敷地を中 心として、稲荷川をへだてた坊中道(参道)の両側に十坊(塔頭=たっちゅう)、その先に仁王堂が建てら れていた。島津氏の祈願所とされた真言密教の寺院で、現在も中学校の校門付近には寺院 跡の石造物が残存している。

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【城下の大寺配置の妙】

 江戸時代の城下絵図を見ていると、大寺のいくつかが巧妙に配置されているのに感心さ せられてしまう。
 まず、鹿児島城下のメインストリート、すなわち幹線道路を頭に描いてみたい。出水筋か ら市来を経由して、城下への、関門西田橋を渡る。そこからまっすぐ北に進むと、中央公園の 南東の角、照国神社を正面に見る、天文館通りの入口に出てくる。
 その照国神社の敷地には、かつて南泉院(なんせんいん)という天台宗の大寺があった。外部から城下に入っ て来た人は、まずこの大寺と出会うことになる。この大寺は、徳川家康を祭神とする東照 宮の別当寺(神宮寺)で、神仏習合思想にもとづく神社と一体化した寺院であった。
 天台宗は幕府の信奉する宗派であり、南泉院の本山は江戸の寛永寺であった。すなわち 南泉院は鹿児島の東照宮を守護するために建てられていたのであった。そのような大寺が幹 線道路から最初に目に入る場所に建てられていたのであり、徳川家康に対する島津氏の配 慮をうかがうことができる。
 その幹線道路をさらに北に進む。左手の中央公園は藩校造士館跡であり、明治時代には 県庁があった。その先の右手には小松帯刀(たてわき)邸(現、東郵便局一帯)など重臣が住んでいた。さ らに進むと左手に琉球館(現、長田中学校)があったが、その手前の新橋は北からの部外者の 関門で、西田橋同様に通行人の検問が行われていた。
 琉球館を過ぎると、左に曲り竪馬場を山手 に進み、浄光明寺の参道に出ると、右(たてばば)に曲り、大龍寺(現、大龍小学校)門前に出る。大龍寺 はかつての内城(うちじょう)跡であり、寺院の開山は学問僧としても知られる南浦文之(なんぼぶんし)である。
 幹線道路は、大龍寺門前を過ぎた北の角から左に折れて鼓川(つづみがわ)方向に進む。この道は途中 から上り坂になって、吉野台地に抜ける。その坂道にさしかかった所の左手が福昌寺であり、 右手が大乗院である。薩摩藩第一の大寺と第二の大寺がその幹線の両側に立地しているこ とになる。
 ということは、重富方面から鹿児島城下に入ろうとすると、白銀坂(しろかねさか)を越えて吉野台地に 出て、実方(さねかた)太鼓橋を渡り、台地を下った所で左右に両大寺を目にすることになる。おそらく、 外部から入ってきた多くの人がその両大寺の規模に目を見張ることになったと思われる。
 その一方が島津氏の菩提寺であり、他方が島津氏の祈願寺と聞かされると、納得したであ ろう。
 このように、島津支配の拠点であった鹿児島城下の都市形成には、大寺を要所に配して、 仏教を支配理念にするが如き様相を表面では見せていた。
 ところが、幕末になって寺院の梵鐘や仏具などの銅製品を武器や贋造(がんぞう)銭貨(にせ金)に する要求が高まってくると、一転して廃仏の動きを見せるようになった。この傾向は年号が 変り、明治初年になると、さらに高まり、島津氏ゆかりの寺院や地方の大寺に波及し、明治 ニ年三月に、最後の藩主忠義の夫人暐子(てるこ)が死去すると、その葬儀を神式で執行したことに より、廃仏殿釈に最後の断が下されることになった。
 このようにして、薩摩藩では江戸時代までの大小の寺院すべてが姿を消したが、福昌 寺だけは墓所域だけが残存している。しかし十四世紀の創建以来仏教で配祀されてきた墓 石が並ぶなかで、墓所正面の鳥居を眼前にすると、やはり異様に映る。それを見た友人の感 想が、さきに述べた通りである。
 しかし、そこには神仏混交とか神仏習合とは違う実態が見られるようである。「混交(混 淆)」とか「習合」とかいうと、不純なものとか、混合したものの意で受けとめやすいが、日本の 宗教は古代から仏と神が習合して江戸時代に至っている。そこには少なくとも、千年以上の 歴史があり、その間に両者は調和して日本人の血肉となって一体化し、現代に継承されてい る。
 したがって、日本人は大晦日(おおみそか)に寺院の除夜の鐘を聞き、翌元日にはお宮に初詣出(もうで)するこ とに違和感をおぼえないのであろう。そのいっぽうで、仏と神が別の宗教だということも知っ ていて、時にそれを使い分けてもいる。それは、人生儀礼のそれぞれの行事や行動を想起すれ ば、だれでも思い当たることであろう。
 その点では、明治初年の神仏分離(判然)令は、それまでの日本人の信仰を無視した、きわ めて政策的な法令であったといえよう。その背景には、神道国教化をめざした維新直後の明 治政府の宗教政策があった。
 島津墓地の一部は、福昌寺背後の常安(とこやす)峰にあることを前述したが、そこには、明治以後に 死没した一族の人びとの墓石があり、いくつもの鳥居も建てられている。そして、個々の墓石 には、江戸時代まで銘記されていた仏教的法号(法名)はなく、神号が銘記されている。
 そのような神号は、福昌寺墓地の古い墓石にも明治以後になっ て、それぞれの墓石に追記 されたようで、その痕跡を読みとることができる。

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【福昌寺と南林寺】

 江戸時代の末期、薩摩には一〇六六の寺院があったといわれている。ところが、そのすべて が明治の初年までに廃寺となり、現在の鹿児島県には江戸時代以前の寺院は、一寺も残存 していない。
 廃仏殿釈がもっとも徹底した薩摩藩域では、すべての寺院が破壊されたので、寺院が伝 えてきた文化の諸相を見出すことは容易ではない。
 したがって、江戸時代に記述された『三国名勝図会』(天保十四年(一八四三))などによっ て、その一端を知るのみである。この書には、しばしば当時の寺院の絵図が載せられているの で、諸寺の概要を知る手がかりを与えてくれている。
 また、ときには旅行者の見聞記などによって、藩域の寺院の状況を知ることができる。そ の一例をあげると、天明三年(一八七三)に薩摩を旅行した備中(現、岡山県)の薬種業古河古 松軒(ふるかわこしょうげん)は『西遊雑記』に、鹿児島城下の著名な二大寺を見物したときのようすを、つぎのよう に書きとめている。

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 寺院数多あり。中にも福昌禪寺と號するは石屋(せきおく)禪師の開基、國の守代々御墳墓 の地にして大守にて寺領千石寄附にて、普請等もあしからず、数百年もふりにし 古跡所と見へ御墓など御念のいりし事なり。禪堂諸堂何れも草ぶき也の額には獅子吼(ししく) と有、額字古く筆者みへず、見事に見へ侍りしなり。天井にはくわん龍を晝き、狩野 の探雪筆なり。客殿凡五百疊敷ほどに見へて、大額かけて覚皇(かくおう)寳殿と記し、本堂の 額には勅願所と斗(ばかり)り有り。租師堂には智日堂といふ額をかけ、側に石屋暉師の徳 を學し碑石建つ。大なる碑にて臺亀の細工ふるびて生るがことし。山の岩間より 龍を彫りて龍のロより水を吐出せる細工目を驚しぬ。二王門の前は大ひなる蓮池 にて橋かゝれり。傍に龍門橋の碑と記せし碑有り、文章至て古く分明ならず、古し へ此地に龍住て佛法帰依せし事跡を知るせし碑と云々。
 南林禪寺に詣に、此寺も石屋禪師の開基にて、國の守の御墳墓有りて大寺なり。 知行五百石、此寺は諸堂瓦ぶきにて殊勝には見へず。太一黄檗(おうばく)悦山の筆にて南 林寺と大文字の額か、る。一しほ見事なり。禪堂には華人の筆にて本牛窟と記し、 山門の額には松原山と有り、何れの寺の二王を見ても石佛にて、初に云石のやは らか成るゆへにきざむ事やすく、小寺にも二王あり。

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 この古河古松軒の見聞記は、『三国名勝図会』より七〇年前後古い記録であり、また一部 については細部にわたる観察の記述もあり興味深い。
 なかでも、福昌寺の「禪堂諸堂何れも草ぷき也」と、禪堂の屋根が草葺きであった、という記述 に筆者は注目している。福昌寺は大守・藩主の菩提寺で大寺であり、古松軒が拝観した時期 には藩域随一の伽藍が林立していたとみられる。にもかかわらず、草葺きの堂宇があったの である。古松軒自身、それを異様に感じたのであろう。そのことをわざわざ注記しているので ある。
 いっぽうの南林寺については、「國の守の御墳墓有りて大寺なり」と記し、「此寺は諸堂瓦 ぶき」とも述べている。ここは島津貴久(たかひさ)の墓所で、福昌寺についで菩提寺的寺院で、福昌寺と 同じ曹洞宗の大寺であった。
 なお、『三国名勝図会』で両寺の絵図を見ると、南林寺の諸堂はほとんどが瓦葺きである。
 ただし、客殿は明確ではない。いっぽう福昌寺は、瓦葺きの堂宇も認められるが、屋根の状況 が明確でない堂宇も少なくない。また、数回にわたる発掘調査報告でも、瓦の出土は少ない。
 いずれにしても、古松軒が記したように、福昌寺には草葺きの堂宇があったのであり、それが 一時的な状況であったのかどうかについては不明である。

【薩摩藩寺院の実相】

 薩摩藩域には一〇〇〇を越える寺院が存在したことは前に述ぺた。しかし、その個々の実 態を見ると、その規模においてかなりの隔差があったようである。また、その分布を見ると偏 りもあった。
 そこで、文政十一年(一八二八)の『薩藩政要録』によって寺禄の大きなものから十大寺を 列挙すると、つぎのようである。
77gif  以上であるが、他の史料によると、鹿児島の千眼寺(黄檗宗)が五〇〇石で、六位であった とする説もある。
 このように列記してみると、大寺が城下の鹿児島に多く、また禅宗系(黄檗宗も)が半分 を占めている。このような大寺も廃仏殿釈ですべて消滅し、現在は残っていない。
 それでも、これら大寺のほかに一千余寺があったはずである。しかし、その痕跡が分る例 は多くはない。一般的な例では、寺院跡は焼失してもその跡地には柱をすえた礎石が残り、 また瓦片が散乱しているので、寺院跡は見つけやすいといわれている。ところが、薩摩藩域で は、その痕跡が分りにくいのである。なぜであろうか。
 それを解くカギは、『三国名勝図会』の絵図の中にあった。寺院が描かれた絵図は、その多 くの場合、屋根は瓦葺きでなく、草葺きであったとみられるからである。「瓦葺き」の語は、寺 院の別称でもあったように、瓦と寺院は不即不離の関係であるが、薩摩藩域では、その常識 が通用しなかったようである。
 それでも、場所によっては寺院跡らしい手がかりが得られる。それは、五輪塔や墓石、ある いは仁王像などの石造物が、断片ながら残っていることがあるからである。それらは、元の場 所から多少は移されていることもあるが、その近くにかつては寺院があったことを示唆して いるからである。
 そのような石造物が残存していたら、近隣の住民に尋ねると、その場所がはっきりする ことが多い。ときには、小字名として残っていることもある。そのときには寺院名まで確認 できることがあり、かつて存在した場所まで分る。
 最近では、地域の文化財に関心をもつグループなどによって、それらの石造物が集めら れたり、復元されたりするいっぽうで、勉強会なども開かれているようである。しかし、その ような例は廃仏殿釈で破壊された寺院数からすると、まだ多いとはいえず、なかには推定地 付近が住宅地となって、立ち入ることもできない所もある。
 廃仏殿釈から一五〇年近く経過した現在となっては、かつての寺院跡がこのような変遷を 見せるのは当然でもあろうか。
76gif  それでも、筆者には気にかかっていることがある。それは、五輪塔などの石造物が断片にし ろ残存している寺院跡は、それなりに有力者とかかわりのあった寺院と推定できるからで ある。五輪塔はそれら有力者の供養塔か墓塔として用いられたものであろう。
 では、農民を主とした一般庶民、あるいはそれ以下の人びとは、寺院とどのようにかかわっ たのであろうか。そのことが筆者には気にかかるのである。
 薩摩藩がキリスト教に加えて、一向宗を禁制にしていたことは、よく知られている。もっと も庶民的宗派であった一向宗を禁じられた人びとは、寺院を支配者層の占有物としてとら えており、寺院に親近性をもつような心情からは遠ざけられていたと思われる。
 そのような一般庶民の抑圧された心情であったが、支配者層の身勝手な寺院破壊の動 員指令には、あえぎながらも力を貸し、その怒りが廃仏殿釈へのエネルギーに転換され、国内 ではもっとも激化した破壊運動を生ぜしめたのではないか、と筆者は考えている。
 その庶民のエネルギーは、やがて明治九年(一八七六)の一向宗解禁とともに、一挙に噴き 出し、その後は国内有数の浄土真宗王国を築きあげてきている。
   しかしながら、その王国を継承するはずの若年層の宗教への関心、とりわけ仏教へのその 度合は薄弱であり、今後の動向は見えにくい現状がある。


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