詩「われは草なり」
登場人物は何人か?〜詩の学習「われは草なり」より〜 ◇ 国語で詩の学習をしました。 下の詩で,題名は「われは草なり」です。 | ||
われは草なり 高見 順 われは草なり あきぬなり 伸びんとす 伸びられるとき われは草なり 伸びんとする 緑なり 伸びられぬ日は 緑の深きを 伸びぬなり 願ふなり 伸びられる日は 伸びるなり ああ 生きる日の 美しき われは草なり ああ 生きる日の 緑なり 楽しさよ 全身すべて われは草なり 緑なり 生きんとす 毎年かはらず 草のいのちを 緑なり 生きんとす 緑のおのれに |
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◇ 言っていることは「単純」で,一見して何のことはない詩です。 ところが,これがなかなか「味わい深い」詩なのです。 この詩をどう「料理する」か,これで「味わい」が違ってきます。つまり,どのように 授業するかで,詩に対する「面白味」が違ってくるのです。 ◇ この「料理の仕方(授業の仕方)」についてです。 実は,「上のような状態」を可能にするのが,教師からの「問いかけ」なのです。私た ち教師の間では「発問」(はつもん)と呼んでいます。 この「発問」により,今まで「見えなかったもの」が「見えてくる」ようになります。 上の詩の場合で言うと,今まで気づきもしなかったことを詩の中に「発見する」ことに なります。「そんなこと考えてもみなかった・気づきもしなかった」ということを詩の中 に発見することになるのです。詩に対する新たな「解釈」が得られます。 ◇ ここに「発問する」意味があります。 |
教師からの「発問」によって考え,文章をもう1度「よく読み」「検討していく」と, 気づかされることがあります。例えば,「なるほど。なるほど。」「言われてみれば。」 というふうに,自分の「読み」の「不足」に気づかされます。 また,他の子どもたちの意見を聞いて,「そう言えばそうだなあ」と,自分の「読みの 誤り」に気づくことにもなります。 この結果,「何のことはなかった」詩に対して「味わい」というものが出てくるのです 「詩を授業にかける」意味は,ここに意味があります。 ◇ ずいぶん前置きが長くなりました。 今回は,上の「われは草なり」という詩の授業の様子をお伝えします。私の「問いかけ 」「子どもの意見・考え」を中心にお伝えします。 ◇ ◇ ◇ まず,次の発問をしました。 | ||
発問 この詩で,「われは草なり」と言っているのは,誰ですか。 語り手・話者は,誰ですか。 指示 ノ−トに誰と書きなさい。 |
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これは,すぐ出てきました。答えは,「草」です。 その証拠・理由を挙げさせると,次のような意見が出てきました。 | ||
1行目に「われは草なり」と書いてある。これは,「わたしは草です」という意味だ 「自分は草だ」と言っているから,語り手は草だと思う。 |
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これを受けて言いました。 | ||
説明 そうですね。 この詩でずうっとしゃべっているのは,「草」ですね。 「草」がずっと,詩に書いてあるようなことをしゃべっているのですね。 |
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すかさず次の質問。 | ||
発問 この詩には,何人登場人物が出てきますか。 指示 ノ−トに何人と書きなさい。 |
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仮に「草」や動物であっても,人間のようにしゃべったり,語っている場合には「登場 人物」の中に入れます。 子どもたちの意見は,次の三つに分かれました。 | ||
@ 一人 A 二人 B 四人 |
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(次号へ続く) |
このように分かれるのも,それぞれある「読み方」をしているからです。 詩の中の「ある部分」を「あるふうに」読んだからです。 さて,どれが正しいのか。どの「読み方」が正しいのか。これをはっきりさせる必要が あります。全体で検討する必要あります。 それぞれ,「どこを」「どのように」読んだのか,理由をノ−トに書かせました。 | ||||
発問 どこを見てそう考えましたか。 指示 ノ−トに理由を書きなさい。そう言える証拠を詩から挙げて理由を書きなさい。 |
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何行目に,こう書いてある。 これは,こういうことだ。 だから,何人と考えた。 |
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というふうに書いてみて。 | ||||
証拠とは,考えのもとになる「根拠」のことです。 その「根拠」は,「思いつき」ではいけません。何となくそう思うという「感じ」でも いけません。教科書の文章や原文の中からその根拠にあたる「文」や「言葉」を見つけ出 してこなければなりません。つまり,教科書の文や言葉を「引用」して意見を言うことが 大切です ◇ 子どもたちは,詩のどの部分を「証拠」に挙げて意見を言ったのでしょう。 まず,「四人」と考えた子どもの意見から。 | ||||
● この詩は大きく四つに分かれていて,それぞれで「私は草です」と言っています。 これは,四人の「草」が,それぞれのところで,「私は草だ」というふうに自分の ことを紹介しているのだと思います。 だから,四人と考えました。(米山哲史) ● もし一人の「草」が言っているだったら,「われは草なり」と同じことを何回も言 わないと思います。( ) だから,四人と考えました。 |
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これは,「詩が四つに分かれているのは,四人の違う『草』が登場しているからだ。」 という意見です。また,「一人の『草』が言っているのだったら,最初の方で『われは草 なり』と何度も言わない」という意見です。 正しいかどうかは別として,素晴らしい「見方」「考え方」をしています。 ◇ 続いて,「二人」と考えた子の意見です。 | ||||
● 15・16行目に「緑のおのれに あきぬなり」と書いています。 これは,「緑の自分に あきないです」と意味です。 自分で自分の緑を「あきない」です,と言っているはおかしいと思います。 誰かが見て,15・16 行目のように言っているのだと思います。 だから,一人ではなくて二人だと思います。(前田恵里) |
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これは,「誰かが見て言っているから,このような書き方になっている」という意見で す。もし,自分が「自分の緑のことをあきないです」と言っているのだったら,「緑のお のれ」ではなく,「緑のわれにあきぬなり」と書いてあるはずだと言うことになるでしょ う。 これも素晴らしい「見方」「考え方」です。 ◇ 最後に,「一人」と考えた子の意見です。 | ||||
● さっき「四人」の考えの人が,「もし一人の『草』が言っているだったら,『われ は草なり』と同じことを何回も言わないと思う。」と言ったけど,それに反対です。 何回も「われは草なり」と言っているのは,「自分は草だ」ということを強く言い たかったからだと思います。 だから,一人だと思います。(恵孝成) |
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これは,「『自分は草だ』ということを強調したい,強く訴えたいから何度も言ってい る。だから一人と考えた方がよい」という意見です。 素晴らしい「考え方」「読み方」です。 また, | ||||
● 「自分は生きているんだ」そのことを一人の「草」が言いたかったから,こんな詩 を書いたのだと思います。 だから,一人だと思います。 |
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ということも続けて言いました。 ◇ さて,ここまできてみなさんはどの「考え」に賛成でしょうか。 「一人」でしょうか。「二人」でしょうか。それとも「四人」でしょうか。はたまた「 それ以外」でしょうか。 そして,その理由は何でしょうか。 もし,よければお聞かせください。 |
登場人物は何人か?〜詩の学習「われは草なり」より〜Part2 ◇ 子どもたちの意見は,次の三つに分かれました。 | ||||
@ 一人 A 二人 B 四人 |
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このように分かれるのも,それぞれある「読み方」をしているからです。 詩の中の「ある部分」を「あるふうに」読んだからです。 さて,どれが正しいのか。どの「読み方」が正しいのか。これをはっきりさせる必要が あります。全体で検討する必要あります。 それぞれ,「どこを」「どのように」読んだのか,理由をノ−トに書かせました。 | ||||
発問 どこを見てそう考えましたか。 指示 ノ−トに理由を書きなさい。そう言える証拠を詩から挙げて理由を書きなさい。 |
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何行目に,こう書いてある。 これは,こういうことだ。 だから,何人と考えた。 |
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というふうに書いてみて。 | ||||
証拠とは,考えのもとになる「根拠」のことです。 その「根拠」は,「思いつき」ではいけません。何となくそう思うという「感じ」でも いけません。教科書の文章や原文の中からその根拠にあたる「文」や「言葉」を見つけ出 してこなければなりません。つまり,教科書の文や言葉を「引用」して意見を言うことが 大切です ◇ 子どもたちは,詩のどの部分を「証拠」に挙げて意見を言ったのでしょう。 まず,「四人」と考えた子どもの意見から。 | ||||
● この詩は大きく四つに分かれていて,それぞれで「私は草です」と言っています。 これは,四人の「草」が,それぞれのところで,「私は草だ」というふうに自分の ことを紹介しているのだと思います。 だから,四人と考えました。(米山哲史) ● もし一人の「草」が言っているだったら,「われは草なり」と同じことを何回も言 わないと思います。( ) だから,四人と考えました。 |
これは,「詩が四つに分かれているのは,四人の違う『草』が登場しているからだ。」 という意見です。また,「一人の『草』が言っているのだったら,最初の方で『われは草 なり』と何度も言わない」という意見です。 正しいかどうかは別として,素晴らしい「見方」「考え方」をしています。 ◇ 続いて,「二人」と考えた子の意見です。 | ||
● 15・16行目に「緑のおのれに あきぬなり」と書いています。 これは,「緑の自分に あきないです」と意味です。 自分で自分の緑を「あきない」です,と言っているはおかしいと思います。 誰かが見て,15・16 行目のように言っているのだと思います。 だから,一人ではなくて二人だと思います。(前田恵里) |
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これは,「誰かが見て言っているから,このような書き方になっている」という意見で す。もし,自分が「自分の緑のことをあきないです」と言っているのだったら,「緑のお のれ」ではなく,「緑のわれにあきぬなり」と書いてあるはずだと言うことになるでしょ う。 これも素晴らしい「見方」「考え方」です。 ◇ 最後に,「一人」と考えた子の意見です。 | ||
● さっき「四人」の考えの人が,「もし一人の『草』が言っているだったら,『われ は草なり』と同じことを何回も言わないと思う。」と言ったけど,それに反対です。 何回も「われは草なり」と言っているのは,「自分は草だ」ということを強く言い たかったからだと思います。 だから,一人だと思います。(恵孝成) |
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これは,「『自分は草だ』ということを強調したい,強く訴えたいから何度も言ってい る。だから一人と考えた方がよい」という意見です。 素晴らしい「考え方」「読み方」です。 また, | ||
● 「自分は生きているんだ」そのことを一人の「草」が言いたかったから,こんな詩 を書いたのだと思います。 だから,一人だと思います。 |
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ということも続けて言いました。 ◇ さて,ここまできてみなさんはどの「考え」に賛成でしょうか。 「一人」でしょうか。「二人」でしょうか。それとも「四人」でしょうか。はたまた「 それ以外」でしょうか。そして,その理由は何でしょうか。 もし,よければお聞かせください。 |