■■■ 伊丹昭氏のこと 伊丹明氏は、アメリカのオークランド市に生まれ。 両親は加治木町出身のアメリカ移民。両親は薩摩伝統の子弟教育を学ばせるために、【加治木】の叔母の家に3歳の彼を預けます。 伊丹昭氏は鹿児島独特の郷中教育の中で育ちます。異なる年齢の男子が薩摩隼人の気風を重んじて勉学のほか武士道、精神の修練を行う「青雲舎」へ参加します。 この舎は、今で言うと小学校の低学年から、高校・大学生までの集団です。舎を指導するのは年長の高校生や大学生です。 優秀な伊丹昭氏はいわゆる「飛び級」で地元の加治木中学校に入学します。(旧制中学校だから勿論男子校だよ)。 夏休みに東大生の曽木隆輝氏が帰省します。彼は舎にやって来て、東京での生活や知的な話題を皆に披露します。話についていけなくても年少者はただその場の雰囲気に圧倒され、かしこまって耳を傾けるだけだったそうです。 伊丹昭氏の人間形成に大きな影響を与えたのが、この曽木隆輝氏だったと言われています。伊丹昭氏の「人間美学」が培われたんですね。 そして戦争(第二次世界大戦)です。 伊丹昭氏はアメリカで新聞記者になっていました。 曽木隆輝氏は外交官としてドイツの日本大使館に勤務。 日本の敗戦が濃くなっていく中で日本の外務省が使っている暗号は、敵側やアメリカ側に完全に解読されていました。 日本側は考え抜き、そこで奇抜な策が取られることになります。 難解な鹿児島弁を使って外務省とドイツの日本大使館の機密通話を行おうというのです。日本の外務省には鹿児島出身者が、そしてドイツにはあの曽木隆輝氏が・・・ 鹿児島弁による機密通話にアメリカ側はびっくりします。 アジアの言語らしいが、どこの言葉か解読不能! 結局、アメリカ情報局(いわばCIA)が「ははぁ、これは日本の方言かもしれない」と見当をつけてきます(敵もさる者!) アメリカ側で召集した日系二世の兵隊や軍属に録音したその会話を「誰か翻訳できないか」と聞かせたら、「あ、それは私の故郷の鹿児島弁です」といって翻訳の仕事をしたのが、かの伊丹昭氏です。運命の皮肉でしょうか・・・ 伊丹昭氏は会話を翻訳するうちに気づきます。 「この声は誰かの声に似ている・・・誰だろう・・・」 そして戦後まもなく、町長となった曽木隆輝氏と伊丹昭氏は再会します。 伊丹昭氏は曽木隆輝氏に質問します。 「戦時中ドイツにいませんでしたか」 「いましたよ」 「こんな内容の会話をしませんでしたか」。 曽木隆輝氏は頷きます。 「あれは、やっぱりあなたでしたか?」 勿論、この会話は全部鹿児島弁だったそうです。 東京裁判が終わります。 モニターの仕事をしていた伊丹昭氏の仕事も一段落。 加治木での再会を固く約束していた曽木隆輝氏たちに衝撃の連絡が入ります。 それは伊丹昭氏が自殺したという連絡でした。 以上、加治木高校の創立百周年記念誌「龍門」に収録されている【曽木・伊丹両先輩の偉業について〜「二つの祖国」より】と題して記念講演をされた新納教義氏(旧制加治木中学校の卒業生。伊丹昭氏の後輩に当たる。県立図書館長や歴史資料センター黎明館長等を歴任されました)のお話を参考にしました。 新納教義氏は「伊丹さんは、曽木さんに質問した時に人違いであって欲しいと心から願っていたと思います」と述べています。というのも、伊丹昭氏と曽木隆輝氏が再会した時、そこに新納教義氏もいたからです。舎の仲間だった三人で歓談したそうです。 →山崎豊子 →松元清張 →二つの祖国 →伊丹明 →郷中教育 →舎 →中村万里子先生 |