栄西禅師は備中(今の岡山県)の人で十四歳で出家し比叡山で修行されました。 後に二回中国(当時は宋)に渡り臨済禅を究めて建久二年(1191)に帰国、平戸の富春院を始め、 九州各地に七ヶ寺の日本最初の禅寺を創建され開山となられました。当寺もその一つです。 禅師は鎌倉幕府の庇護を受け、鎌倉寿福寺、京都建仁寺を創建し、日本臨済宗の祖となりました。 また禅師は帰国の際茶の実を持ち帰り我が国に茶を広められたので茶祖としても敬われています。 毎年当寺では茶業関係者による献茶法要が行われています。 感應寺はこのように日本の禅宗の草分けであると言えますが、内外の動乱で寺運開けず、 島津家四代忠宗公、五代貞久公に至って雲山和尚を請うことで大禅堂を完成させることになります。 雲山和尚は京都東福寺第二世圓鑑禅師の法嗣(ほっし)で、肥前(今の佐賀県)高城寺より 当寺に入山され七堂伽藍九社十景を創建された中興の祖であり、その徳力大いなることは 将軍足利尊氏公との以下の逸話を見ても明らかです。
明治二年廃仏毀釈の法難は県内全ての仏教寺院を襲い、当寺もついに廃寺となりましたが、 当時の住職梅嶺和尚は還俗しながらも道心堅固に忍ばれ、また本尊・脇立四天王、幾つかの 絵画は甕に入れて隠されたことで難を逃れました。 当時の野田郷士の力添えもあり、明治十三年に臨済宗相国寺末として再興されましたが、 それでも廃仏毀釈の崩壊は大きく寺院の護持は誠に多難でありました。 しかし三十五代真光和尚、三十六代恵徳和尚の徳化と熱意が実り、また檀信徒の外護により 昭和四十六年には本堂、昭和五十五年には鐘楼が再建され、また平成六年(1994)には 創建八百年の記念事業として仏像・仏画の修復、書院庫裏の再建が行われました。 江戸時代後期の感應寺 現在の伽藍
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