第三軍動揺〜その一〜
時は若干さかのぼる。
馬参率いる第三軍が、業βで大敗を喫した一ヶ月後。
吾玄率いる第二軍が、抹陵攻略のために進発する二ヶ月前。
敗戦の沙汰を奏上した呂砲が、ついでとばかりに皇帝に七同志の将軍位を無心し、さらに魏公曹操が馬参の正体を中華全土に喧伝した206年8月。
ここから、再開する。
━━洛陽。池田屋
「確かに董卓は憎い。何度殺しても殺したりんわい。じゃがのう」
きれいに頭の禿げ上がった長老が、静かに口を開いた。
「洛陽に火を付けるなどという大それた行為、誰が好んでやるものか……あの時、誰も董卓の横暴を止められなかったのじゃ。燕公様も、魏公様も、そして天子様も」
数十人の男女――いずれも「老人」と呼ばれる年代の者たち――が、民宿兼居酒屋兼寄合場の池田屋で話し込んでいる。
少しずつ夏の暑さも和らいでいる中、冷たい水をすすりながらの井戸端会議。
ちなみに、語られる内容はいわゆる政治もの。
「しかし今、洛陽はこうして元の姿を取り戻しつつある。それに、天子様がお帰りになる日も近い。それが救い、と思うべきではないかのう?」
「それでも、わしは悔しい」
別の老人がつぶやく。
「家を失い、住み慣れた故郷を灰にされ、家族まで殺された。一体わしらが何をしたというのじゃ……わしにはやはり、馬参様が許せぬ」
「まだ噂じゃ。魏公様が広めた話であって、馬参様の所業と決め付けるのは早計というもの」
長老はやんわりと制した。
「涼軍団長・馬参。その正体は是、楽驂なる者にて、逆賊董卓の下で帝都を灰燼に帰した大悪人なり」
そんな布告を発するに当たり、曹操は配下の細作団を存分に活用した。
おかげで現在、洛陽の民は誰かと顔を突き合わせるたびに、布告について語り合うようになっている。
「このような大事、涼王様のお耳には、わしらよりも先に入っているはず。じゃが、わしらが耳にしてからもう四日たったぞい」
老婆が言った。
「それなのに、涼王様は何もおっしゃらぬ。魏公様の布告が本当だから、何も言えぬのではないかのう」
「真偽を確認しなければ、肯定も否定もできぬでろう」
再び長老が制した。
「それに、じゃ。仮に馬参様が洛陽を焦土にした張本人だとして、馬参様を恨むのは筋違いであろう。あの頃、誰も董卓には逆らえなんだ。馬参様の心情も察してみい。おぬしら、あの董卓の命令を否じることなどできるか?」
「できぬよ、そんなこと。しかし、自分らの故郷を灰にされた事実は消えぬ。董卓が既に死んだ今となっては、この恨みは馬参様にぶつけるほかない」
「わしらは先の短い身。恨み辛みを言うても詮なきことではないか」
「先がないからこそ、全てを奪った男が許せぬ……わしの良人は……虫けらのように殺されたのじゃぞ」
低い声の中に、老婆は決して消えない怨恨の情を込めている。
その様をチラリと横目で見た長老は、そっとため息を吐き、話題を変えた。
「ふむ……ではおぬしら、もうひとつの布告についてはどう思う?」
曹操の布告は、馬参の正体暴露だけに留まらなかった。
「かような者を軍団長に据える呂砲。その漢朝復興宣言がまやかしであることは、言を待たず」
「呂砲、ただ至玉の地位を伺う。恐れ多くも今上陛下を廃し奉り、自ら帝位に昇るを望む」
曹操は呂砲を、「簒奪を謀る大悪人」と弾劾した。
呂砲は挙兵以来、「漢朝復興」と「漢朝を軽んじる三悪(曹操、孫策、劉備)の殲滅」を旗印に勢力を拡大してきた。
一時の中断を挟んで四百年に渡って続いてきた漢の王朝を、至高の存在とみなす風潮は依然強い。
呂砲が掲げた志に呼応したからこそ、今、涼の官、そして将として名を連ねている者も多いのだ。
曹操の布告は、そんな呂砲軍の存在意義を根底から否定するもの。
「漢朝の忠臣・呂砲」というイメージを否定する曹操の布告は、馬参の正体暴露を上回る悪影響を及ぼす可能性もあった。
ただし、洛陽の民に限定すれば、事情はやや異なる。
そもそもここ洛陽では、曹操の評判は余り良くない。
老人たちが生まれる遥か以前から、ここ洛陽は漢の都であり、皇帝のお膝元だった。
にもかかわらず、董卓暴政の余波が残る長安からようやく洛陽へと還行した皇帝を、曹操はあっさりと許昌へ移した。
(自らの御意志で御戻りになられた陛下を、洛陽から連れ去った)
曹操にとって十分に理由のあるその行為は、洛陽の民の間に存在する一種の「選民意識」を踏みにじった。
さらに曹操には、己の権勢を鼻にかけ、皇帝を軽んじたという噂もある。
洛陽の民にとって、皇帝は忠義の対象ではないが、敬意を抱くべき存在であることに違いはなかった。
「国の中枢」という矜持を失った淋しさと、「皇帝をいじめる」奸臣のイメージ。
涼軍が魏都・許昌を陥落させ、皇帝の身柄を保護したとの話が伝わった時、洛陽の民は歓声を上げたものだった。
さらに涼王は、洛陽を再び帝都と定める意志を示している。
皇帝を迎えるための宮殿建設も着々と進み、還行の際には自ら護衛となって守護するというではないか。
洛陽の民には、馬参はともかく、呂砲を積極的に憎む理由はなかった。
「天子様を虐げておったのは、魏公様の方ではないか。その魏公様がそんなことを言ってものう……眉唾と思われても仕方があるまい?」
馬参が洛陽を焼いたとの布告には敏感に反応した老人たちも、この話には食い付きが悪い。
呂砲の意を受けた長史が洛陽入りし、さらに七同志の一人である郭図公則が太守として洛陽に赴任したのは、昨年11月のこと。
当初、別々に仕事を進めていた両者だったが、どういう風の吹き回しか、今年の2月ごろから共同で洛陽復旧工事に当たるようになった。
おかげで董卓の暴政の色が強く残っていた洛陽も、急速に帝都としての面影を取り戻しつつある。
そのような中で、少なくとも洛陽の民の間では、呂砲の評判は悪いものではない。
とはいえ、猜疑の念を抱く者が皆無、というわけではない。
「しかしのう」
先程の老婆が、また暗い表情で言った。
「王位を天子様から授かる時、涼王様は不遜な態度を取られた、というではないかえ? 恐ろしや。まことなら天罰が降ろうというものじゃ」
「根も葉もない噂じゃ」
苛立ちを押さえつつ、そしてその心情を隠しつつ、長老が再び老婆を制した。
「涼王様の天子様への忠義は、明らかではないか。現に涼王様は、天子様をお迎えする荘厳な宮殿の建設を進めておられる。その宮殿の名は『大漢宮』じゃぞ。これだけでも、涼王様の赤心はよくわかるというものではないか」
ほかの老人たちが、得心したように頷く。
しかし、老婆だけは首を小さく横に振った。
━━洛陽。大司農府
一文官から涼全体の内政を管轄する長史へ。そして、九卿のひとつ、大司農へと異例の出世を果たした男が、報告に耳を傾けている。
報告者は、池田屋で井戸端会議を仕切っていた、頭の禿げた長老。
「真実であるか否かには、民は関心がございませぬ。馬参将軍への怨嗟を口にする者、日ごとに増えており、馬参将軍が洛陽焼き打ちの張本人であることは、民の間では確定事項のように語られておりまする」
大司農の私室には二人しかいなかったが、それでも長老の声は低い。
涼王直轄の大司農府ではあるが、洛陽太守・郭図公則の細作が潜伏していることは間違いなかった。
「故郷を焼野原とされ、家や家族を失った者たちにとって、董卓の洛陽焼き打ちは終わった出来事ではございませぬ。董卓が死に、怒りの矛先を無くしていた民からすれば、曹操の布告文は正に渡りに舟。馬参将軍に対する怨嗟の声は、今後益々大きくなりましょう」
そう告げる長老は、自分の声に張りが戻っていることには気付いていない。
張り。若かった頃の。
有能な文官として、将来を嘱望されていた頃の。
「どうすれば良いと思う?」
大司農は尋ねた。
その声は、本当に質問しているというよりは、長老を試しているようにも聞こえる。
大司農はまだ、この老人を完全には信用してはいない。
「まずは真偽を確認することが先決かと」
長老は即答した。
「如何様な手を打つにしろ、確認無しで行っては、すぐに綻ぶ恐れがございますれば」
「それはその通りだな」
特に感銘を受けた様子もなく、大司農は頷いた。
この老人、段取りの大切さは理解しているようだ。
とりあえず、最初の試験は合格。しかし、試験はまだ続く。
「殿下の親衛隊長が、使者として上党へ立った。真偽については、二、三日のうちに明らかになるであろうが、両方の可能性を考慮し、それぞれ如何ような処置を施すべきと思うか?」
「曹操の布告が流言の策だった場合」
長老は流暢に答えた。
「涼王殿下の御名でもってそれを明らかにし、逆に曹操がこれまでに為してきた陛下に対する不遜な行いを、天下にあまねく喧伝します。曹操の悪行は漢朝の廷臣たちが見ておりますし、彼らは涼王殿下がおわす許昌におりますれば、いくらでも話は集まりましょう」
「民はそれで納得するかな?」
「洛陽において、殿下の名声は確固たるものがございます。洛陽の民は、曹操ではなく、涼王殿下のお言葉を受け入れましょう」
「ふむ……それでは、曹操の言っていたことが事実だったら?」
「その場合、より慎重な対応が必要でしょう。一手を誤れば、厄介な事態になると存じます」
質問があることを予期していたのように、長老の対応には滞りがない。
「馬参将軍への怨嗟の声が、涼王殿下に飛び火すること。曹操は当然これを狙っておりましょう。涼都の民が動揺すれば、それは涼全土の治世に影響を及ぼします」
長老は“涼都”とはっきり言った。
「しかしより厄介なのは、宮中の反応にございましょう」
「宮中……?」
長老の口から出た単語に、大司農はわざと疑問符付きで応えた。
いくらこの老人がかつて宮中に仕える者だったとはいえ、洛陽から離れた許昌の宮中事情を知っているはずがない。
皇帝の身辺に控える廷臣の中に、呂砲を“簒奪者”と見なす者がいることは、まだ公にはなっていないのだ。
「宮廷に巣食う輩の権力への執念……これを軽く見てはなりません」
長老は言った。
「天子様に次ぐ地位におわす殿下も、廷臣たちから見ればやはり余所者。彼らが殿下を受け入れることはあり得ませぬ」
「余所者、とはおぬしも思い切ったことを言う」
大司農は答えた。
「殿下の漢朝への想いは、先の復興宣言でも明らかになったばかりではないか。今は陛下の御徳を全中華にあまねく広めるべく、漢涼が一致協力していく時。そんなこともわからぬ廷臣たちではあるまい」
「如何に殿下が真摯な赤心を抱かれているとしても、それは宮中の者には関係ございませぬ。強大な力を持つ部外者が自分の庭へやってくることなど、宮中という閉鎖的な空間で生きてきた廷臣たちに受け入れられるものではございませぬ」
「ほう……」
チラリと部屋の外を見て、気のない返事をする大司農。
しかし、興味なさそうな態度を取りつつも、大司農は次第にある考えを抱くようになっていた。
以前、この老人が提案してきた情報収集組織。
稼動させてみるのも良いかもしれない。
「曹操の下で逼迫感を抱いていた廷臣たちにとって、曹操が暴いた馬参将軍の過去は、格好の材料となり得まする」
大司農の態度に真剣さが伺えないことに憤慨したように、長老は語気を強めた。
「殿下が天子様を庇護して、まだ日が浅うございます。宮中を刺激するのは得策ではございませぬ。根回しは早い方がよろしいかと」
外を見ていた大司農は、真剣な表情でそう訴える長老に向き直った。
「なあ、おぬし」
「はい」
「おぬしは若き頃……大司農就任の沙汰を受けたこともあったそうだな」
さりげない口調で語られた自分の過去に、長老は電撃を受けたように震えた。
さして良い家柄に生まれたわけではなかった。
しかし、元々持っていた政治の才と勤勉さで、着々と出世の道を登っていた。
自分をそこまで引き上げてくれた重臣から、大司農内定の沙汰を受けた時が、この老人の人生における絶頂期だった。
そして、その重臣が宮廷内の権力争いに敗れた時、もろとも最下層まで転げ落ちる羽目になった。これまでコツコツと築き上げてきた名誉と財産、そして大きく開かれたはずの“未来”を盛大に撒き散らしながら。
官を剥奪され、一庶民に落とされた若き日の長老は、自分を引き立ててくれた大臣を失脚させ、自分の未来をも封じた廷臣たちを憎んだ。
そして、そんな理不尽がまかり通る漢朝そのものを憎んだ。
「ご存知でございましたか……」
しばらくの沈黙の後、長老はようやく口を開いた。
「庶民となってから、ずっと黙っておりました……三十年も昔のことゆえ、もはや知る者はおらぬと思っておりましたが」
「我が諜報の力を甘く見るでないわ。それぐらいのこと、調べるなどたやすい」
もちろん、「洛陽太守の細作団にはまだまだ及ばぬが」という言葉は、口にはしない。
「年寄りどもが集う憩いの場を造り、もって情報収集の場にする。それがおぬしの提案であったな……採用しようではないか」
「え!……ほ、本当でございますか!」
「民の馬参将軍への怨恨が、殿下の方へ向けられるのはよろしくない。施設は殿下の御名のもと、大司農府から金を出して造ろう」
「あ、ありがたき幸せにございます!」
「ただし、その施設には我が人材からは一人たりとも出さぬ。おぬし一人で情報収集に励むのだ。決してその任、他の者に口外してはならぬ。年寄りは口が軽いからな……まあ、おぬしはそうではないと期待しておるが」
「もとより! 誰もが集える……老人ばかりでなく、旅人も集うような施設といたします! さすれば、洛陽外の情報も集まりましょう!」
「そうせよ。おぬしを施設の館長に任ずる。さすれば、ここや太守府に出入りすることも怪しまれなくなる」
「ははっ……大司農様の深謀、ただただ敬服いたすばかりにございます」
「ただし、条件がある」
「は?」
「殿下への猜疑を口にした老婆がおった、と先ほど申したな?」
「は……はあ……」
「近々、その者の家に盗人が入るかもしれぬ」
「は…………はぁ?!」
突然大司農の口から出た、意外な言葉。
長老は動揺したが、大司農は明日の天気についてでも話すかのように、何気ない口調で続ける。
「洛陽の治安もかなり回復してはおるが、まだ治まっていない場所もある。そして、残虐な輩も多い。気の毒ではあるがな」
「し、しばし、大司農様! その儀はしばらく!」
「その老婆の葬儀だが、おぬし、遅滞なく取り仕切ることができるか? その場で、『何と無慈悲な盗人よ。一刻も早く、涼王殿下に成敗してもらわなければ』と号泣することができるか?」
郭図公則を意識した冷たい目で、長老を見下ろす。
「洛陽の民は、すべからく殿下を支持しなければならん……条件とは、それだ」
最終試験だった。
「もしも……もしも、私めがその条件を飲まなかった場合は……如何なりましょうや?」
大きく肩で息を吐きながら、長老はようやく口を開いた。
対する大司農の返事は、あくまでも何気ない。
「何もない。老婆が死ぬこともないし、もちろんおぬしが何者かに襲われるようなこともない。ただし、おぬしは二度とこの大司農府の門をくぐることはできないし、情報収集施設が造られることもない」
「そのような非道なやり方で……私めを縛ろうという算段にございますか?」
「縛る気などない。おぬしが心から憎んでいる漢朝。それを潰す力をお持ちになっている涼王殿下への忠義……それを見定めたいだけだ」
しばらく耽っていた長老は、ゆっくりと大司農の顔を見据えた。
「老婆の葬儀……完璧に執り行いましょう」
「よろしい」
大司農は事務的に肯いた。
「その老婆とは、顔を合わさぬようにしておけ。辛くなる」
「大司農様は優しいお方にございますな」
長老の視線に、“睨む”という種類の光が灯ったが、それは意識的に消された。
「ひとつ、質問してもよろしゅうございますか?」
「何かな?」
「私は漢朝が憎い。だから涼王殿下に期待し、そして大司農様に協力いたす所存」
「それでよい」
「では、大司農様はどうなのでしょうか?」
「どうなのか、とは?」
「なぜ、漢朝を潰すおつもりなのか、是非この爺めに教えていただけませぬか? やはり漢朝への憎悪でしょうか? それとも……」
「長老よ」
大司農は、長老の話を鋭く遮った。
ただ、その顔には、むしろ柔和なものが浮かんでいた。
「確かにおぬしは、大司農就任の内示を受けたことのある身。しかし、大司農にはなれなかった男だ」
あやすように、大司農は言った。
「そして、私は正真正銘の大司農……此度は見逃してやるが、以後、口の利き方に気を付けよ」