抹陵攻略戦〜その一〜
━━翻陽東部、抹陵への途上。第二軍
戦さ嫌いではあるものの、いざ戦闘が始まれば率先して先陣を切るのが、吾玄の吾玄たる所以でもある。
抹陵へ粛々と進軍する第二軍11万。
その先頭を総大将たる吾玄率いる部隊が進むのも、そんな彼の人となりが反映されている。
吾玄のやや後方で馬上にある草は、意識して背筋を伸ばしていた。
旧江夏軍の廬江侵攻の際、呉巨の部隊に従軍したことがあるので、軍に同行すること自体は、初めてではない。
ただ、廬江侵攻は随員の立場であり、さらには途中で抜け出すことを前提としたものだった。
しかし、今の草はこの大軍勢の一員。しかも軍団長付副官として、戦場へと向かっている。
纏うのは真新しい甲冑。またがるのは幹部だけに支給される良馬。
細作という決して日の当ることのない稼業に勤しんできた草にとって、人生最大の晴れ舞台だった。
緊張と誇らしさ。
それが草をして、背筋をピシッと伸ばしめている。
そんな草の横に、馬を進めてきた者がいる。
同じく甲冑姿の参露だった。
草はチラリと横目で参露を見ると、軽く目礼した。
同じ涼の録を食む者同士とはいえ、仰ぐ主君は違う。
そして二人の主君は、自他ともに認める“政敵”でもある。
これだけでも敬遠する理由となるのに、この軍察監は自分の正体を知ってしまっている。
できることなら会話など願い下げだったし、顔すら見たくもなかった。
自分の正体を証明できる物的証拠がない以上、参露が吾玄に真相を告げたとしても、吾玄は絶対に信じないだろう。
であるならば、これ以上尻尾を掴まれぬよう、注意すればよいだけのこと。
洛陽の上司が参露暗殺にストップをかけた現在、沈黙こそが自分の身を守る手段だった。
「いよいよ始まるな」
そんな草の心情にかまわず――いや、知っているからこそ――、参露は草に語りかけた。
「本来なら、抹陵攻めはとっくの昔に終わっているはずだったが……」
草は小さく肯くことで、軍察監を無視するという侮辱行為をとりあえず回避する。
一方の参露は、沈黙など最初から予想していたように、小声でささやき続ける。
「しかし、半年も延期となった。斬首となった旧江夏太守の独断専行が、その最大の原因だ」
参露は「斬首」という部分に力を込めた。
「ご存知かな? 旧江夏太守は、洛陽太守殿の家臣を名乗る者の調略によって、軍令違反の暴挙に及んだそうだ。そして、殿下に首討たれた」
「………」
「涼将として武功を挙げたい……旧江夏太守の存念は、ただその一点のみだったと聞く。刑台の露と消える時、さぞ無念だったことだろう」
草は無表情で正面を見ている。
しかし、心の中で渋面を作っていた。
第二軍を混乱させる一手として、草が立案し、実行した策は、吾玄と袁奉の離間を決定的なものにするという予想以上の効果を上げた。
しかし、その結果として発生した呉巨の斬首は、まったく予想外の出来事だった。
一人の勇将が、自分の陰謀によって不名誉な死を強いられたと知った時、体の震えが止まらなかった。
「旧江夏太守は、自らの行為が、軍団長殿と副将殿の離間を招くことになるとはこれっぽっちも考えてはいなかった。しかし、罪は罪として自らの命で償わされた」
草の沈黙にかまわず、参露は言った。
「一方で、旧江夏太守をそそのかした人物は、その罪を償うことなく、のうのうと生きている……許せぬ話とは思われぬか?」
「同意します」
堪えきれなくった草は、「黙れ」とでも言うように、参露を睨み付けた。
「旧江夏太守殿を調略したのは、洛陽太守殿の名を騙る魏の間者に違いありません。抹陵を攻略したら、まずは最初にその謀事を調べ上げ、旧江夏太守殿の名誉を少しでも回復させたいものです」
「魏の間者! 謀事! さらには旧江夏太守の名誉回復と来たか!」
ことさら声を強めて、参露は嘲笑った。
「確かに貴公なら、魏の悪事を示す証拠などいくらでも上げることができよう。魏の雑兵の首を二、三付けてな」
その声に、二人の少し前を進んでいた吾玄が振り返った。
声の主が参露と知るや、吾玄の顔はあからさまに不機嫌そうになる。
そんな吾玄に目礼した参露は、再び小声になった。
「だが、それがしはさようなものに関心を持たぬ……なぜなら、それがしは事の真相を知る者であり、そして真相を世に示すことに全力を傾ける決意だからだ」
「真相と来たか」
早くなった鼓動を悟られぬよう、草はことさら居丈高に対応する。
「貴公の意図になど、私は興味ない。だが、忠告だけはしておく。月光が道を照らさぬ夜もある。重々気を付けることだ」
「クックック……今度は脅迫か」
「注意を促した、と受け取ってもらおう」
「くだらぬな。官舎にて貴公と対面してから、もう幾日経過したと思っているのだ? それがしはまだ、こうして生きているわけだが?」
「…………」
「それがしが死んだなら、たとえ本当の事故や病気による死だったとしても、英傑様はそうは解釈されぬ。ある者の手筈によるもの、と断定されるであろう。そうなったらどうなるか、考えたこともないのか?」
「…………」
「此度の戦さでは、それがしの動きに注意しておくことだ。もしもそれがしが戦死でもしたら……英傑様は動くぞ。必ずな」
草は、グッと唇を噛み締めた。
実際のところ、軍察監一人を亡き者とすることなどたやすい。
だが、そんなことをしてしまえば、希代之陣営は必ず報復に出てくる。
その過程で、これまでに郭図公則が為してきた謀略が明らかになる可能性がある。
そうなったら、終わりだ。
参露は、黙り込んだ草に優越感を隠そうともせず、再び低い声で笑った。
その笑い声が途絶えたのは、遠くから雷鳴が聞こえてきたため。
「雨雲?……抹陵の方角だな」
参露が目をやった方角には、巨大な雨雲がかかっていた。
その雨雲は、かなりの速さでこちらの方にも広がってきている。
揚州ではしばしば大雨が降り続き、長江の流れすら捻じ曲げる。
長江の氾濫は、民衆の生命や財産を飲み込む代償として、彼の地に肥沃な土壌をもたらす。
長江の流れとともに生き、そして死んでいくのが、揚州の民。
長江と民の間には、そんなgive&takeの関係が横たわっているわけだが、抹陵へと進軍する涼第二軍には、少なくとも「give」は期待できそうになかった。
「抹陵」攻略戦(第二軍。進軍地、翻陽)
武将(兵科) 兵数/武/知(戦法)
吾玄(蛮兵)14000/81/71(撹乱極、乱撃3、槍衾2、突撃1)
袁奉(蛮兵)15500/97/67(撹乱極、濁流4)
呉懿(蛮兵)14000/73/71(乱撃3、突撃1)
厳顔(蛮兵)14000/86/78(乱撃5)
張任(蛮兵)15500/92/80(撹乱極、突撃5)
黄権(蛮兵)11000/70/85(撹乱5)
孟達(蛮兵)11000/75/80(撹乱5、乱撃1)
呉蘭(蛮兵)11000/81/42(突撃2)
雷銅(蛮兵)・9500/78/40(突撃3)
9部隊・111500
猛烈な雨が、天幕を叩き付けている。
外を覗き込んだ吾玄は、歯ぎしりをひとつして、再び中に引きこもった。
抹陵を目前にしながらの足踏み状態は、既に四日目に突入している。
最初は我慢していた吾玄も、さすがにいらつき始めている。
人間は天を動かすことできない、とはわかっているが、だからといって沸き上がる苛立ちはどうしようもない。
充血した目で、台に広げられた大地図を見る。
抹陵攻めの指針を設定するための重要な地図だが、今やその価値は半減している。
大雨に伴う長江の氾濫は、無数に存在するいくつもの支流の姿を変えてしまっており、地図上の流れと合致する川など、もはやひとつも存在しない。
流れが変わっただけなら、あるいは何とかなったかもしれないが、現在の揚州の川は獰猛な獣だ。
しゃにむに行軍しても、無駄に兵の命を失わせるだけとなれば、さすがの吾玄も待つしかなかった。
猛烈な雨は、人の声もかき消す。
「ただ今戻りましてございます!」
外から大声で叫ぶのは、草。
それでも天幕内で誰かが話でもしていたのなら、絶対に聞き取れないほどの雨音だ。
吾玄の「入れ」という言葉を受けて、ずぶ濡れになった草は天幕に入り、報告した。
「確認いたしました。六人が死体で発見されております。また、七人が行方不明です」
「兵糧は?」
「概略ではございますが、軍全体の一日分が泥に浸かりましてございます」
「一日分か……」
舌打ちをする吾玄。イライラの材料が、またひとつ増えた。
十分な訓練を受けた第二軍だけに、この雨の中でも行軍することは不可能ではない。
だが、視界の利かない中での11万の行軍ともなれば、目の届かない部隊が必ず出てくる。
無理に進んだ結果、本隊からはぐれたり、方向を見失って濁流に飲み込まれたりする兵がかなり出るであろうことは、容易に想像できた。
だからこその行軍停止だったが、気の向くままに流れを変える川は、時として思いもよらぬ方向から、大量の水と泥を第二軍に浴びせかけてくる。
草は、つい先ほど発生した土砂崩れの現場から戻ったところだった。
二十数人の兵が土砂崩れに遭ったという報告が為されていたが、さらに悪いことに、天幕の中に保管されていた多くの兵糧もまた、食用に耐えない状態となっていた。
「もう一度、兵糧の保全を徹底するよう通達を出せ」
苛立ちを必死で押えながら、吾玄は言った。
「抹陵を目前に、兵糧を肥料代わりに蒔いただけとなれば、中華の笑い者だ。言うまでもないが、湿気には十分留意しろ。ああ、それと」
拱手しようとする草に、吾玄は付け加えた。
「失われた兵糧の管理責任者の首を早急に刎ねよ」
それに対し、草はやや疲れた表情で首を横に振った。
「殿、それは無理でございます」
「なに? 私の命令が聞けぬと申すか!」
目を剥く吾玄だったが、草はむしろ沈痛な表情だった。
「そうではございません。管理責任者の校尉もまた、土砂崩れの被害に遭った一人でございました……既に死体となっておりますが」
防衛側の魏軍は十分な兵糧を貯蔵しているが、涼軍は携帯分と軍政官の萠リ越が輸送する分を合わせても、せいぜい一月分。
さらに、兵糧を床の高い倉庫に保管しているはずの魏軍に対し、こちらが為し得るのは、せいぜい天幕の中に入れて雨から守ることぐらいだ。
そんな努力を怠らなくても、この長雨が続けば、いずれ腐ってしまうかもしれなかった。
草は将軍たちの天幕をひとつひとつ訪ねては、兵糧の保全を徹底するよう伝えた。
素直に肯く将軍もいる一方で、「そんなことわかっている」と邪険になる将軍もいる。
中には、この大雨とは何の因果関係もない草に対して、不満をぶつけてくる者もいた。
「軍団長は、いったいいつまでここに留まる考えなのだ!」
まるで「この長雨はおまえの責任だ」とでも言わんばかりの勢いで指を突きつけてくるのは、反吾玄派の一人、雷銅。
「我らは抹陵を攻略するために出陣したのだぞ! こんな所で時を過ごして、その大任が果たせると思うてか!」
吾玄派のはずの将軍の中にも、草を怒鳴りつける者がいた。老将・厳顔だ。
「もう飽きたわ!」
雷銅の言葉に吾玄への反感が含まれていたのに対し、厳顔は単純に行軍の遅滞を怒っている。
「この雨にしても、いつ止むかわかったものではない! 早急に行軍を再開すべきだ! 軍団長が出ぬというのであれば、わしだけでも抹陵に行くぞ!」
草は純粋に戦争が大好きな老人を説得することで、軍団長付副官としての使命を果たした。
「兵糧の保全には、もちろん全力を注いでいる」
吾玄の命令を伝える草に対し、袁奉は感情を一切表すことなく応じた。
「しかし、四則殿が重ねて指令を出してくる事情もわかる……承知した。さらに指示を徹底し、兵が弛緩せぬよう気を配ろう」
「指令の趣旨をご理解いただき、感謝いたします」
型通りの返礼をする草は、袁奉の落ち着き振りが意外だった。
大戦を前に足踏みが続き、さらには吾玄との対立を修復するきっかけもないという状況にありながら、袁奉からはそれらを憂慮する様子が少しも感じられなかった。
(自分が軍団長付副官ということで、感情を出すことを控えているのかもしれん)
草はそう推測した。
しかし、辞去する草を見送る袁奉と水兵隊長の目は、草の推測が的外れなものであることを示していた。
揚州の一大都市・抹陵は、かつて「金陵」と呼ばれていた。
めでたいその地名が、馬の飼い葉を意味する「抹」の字へと変わったのは、ある男の嫉妬心に由来する。
その男とは、秦の始皇帝。
金陵には、「この地に都した者は天下を治める」という伝説があった。
それを耳にした始皇帝は、この地の地脈をずたずたに切り裂かせた上で、「馬にでも食わせてしまえ」との怒りと皮肉を込め、地名を「金陵」から「抹陵」へと変えさせたのだ。
以来この場所は、この地に奉じられた諸侯にとって、城を営むことのできぬ土地となった。ここに住むだけで、国家にたてつく意図があるとみなされるのだ。
(「江森三国志」より概略抜粋)
そんな禁断の地に初めて城を建てたのは、呉公孫策。
かつて自分を飼い殺し状態に置いた袁術を降伏させた孫策は、この地を足がかりに、天下への雄飛を試みたのだ。
結果的に見れば、孫策の夢は、涼と魏によって阻まれた。
孫策は今、僻地である呉と会稽の二都市のみを拠り所とし、“最後の戦さ”の始まりを待っている。
孫策に代わって抹陵城に君臨しているのは、魏公曹操の片腕、夏侯惇。
広陵で揚州進出の機会を伺っていた夏侯惇は、涼の廬江侵攻に呼応するように抹陵へと攻め込み、この地を制圧していた。
意気上がる曹純ら若手武将は「機を逃さず、孫策追討を」と主張したが、夏侯惇は斜陽の孫策に興味はなかった。
「西から吾玄が来る」
いきり立つ曹純らに、夏侯惇は眼帯をかすかに動かして言った。
「呉の若造の首は、涼の若造の首を獲ってからでよい」
以来、可能な限りの防備準備を進めてきた夏侯惇は、涼軍の到来を待ち構る立場にある。
━━抹陵。魏軍
「それにしても、この雨!」
雨が屋根を叩く音は、抹陵城の中にも聞こえてくる。
将軍らが集う軍議の場で、体をかきむしりながら曹純が悲鳴を上げた。
「体中からカビが生えてきそうだ! さっさと止んでしまえばいいものを!」
「学問好き」と「思慮深さ」は、必ずしも両立するわけではない。
思ったことをすぐ口に出す曹純は、その生きた見本だ。
とはいえ、その癖でもって、曹純が他者から忌み嫌われることは少ない。
というのも、曹純がすぐ口に出す「思ったこと」とは、大抵の場合陽性だからだ。
「この雨は悪いことばかりではありませんぞ」
苦笑しながら徐晃が制する。
徐晃が穏やかな口調なのは、徐晃自身の性格と、曹純の人となりの両方に起因するものであり、曹純が魏公の従弟である事実とは関係ない。
「大雨のせいで、吾玄は進むこともできず、いたずらに時を浪しております。この状態で兵の士気を保つことは、相当な難事。我らにとって、歓迎してもよい事態でしょう」
「難事なのは、こちらも同じではないか」
曹純は口を尖らせた。
「吾玄が軍を出したとの報が入ってから、もう何日経過したことか。校尉や兵たちも、早く涼賊を討ち払いたくてウズウズしているのだ。本当にもったいない。今の兵たちの士気を貯めておくことができたら、どれほど便利か」
「子和よ、己の願望を兵に転化するなど、将の為すべきことではないぞ」
やはり苦笑しながら、夏侯惇が曹純を字で読んだ。
「おぬしが耐えれば、おぬしの兵たちも耐える。少なくとも、兵たちの前では超然としておれ。さすれば、やつらは安心する」
「そりゃもちろん、兵の前ではちゃんとしてますよ、惇兄……じゃなかった、太守殿」
口をヘの字に曲げて、曹純は言った。
「ですが、この雨では地面がぬかるみます。虎豹騎にとってありがたい話じゃありません」
虎豹騎。
曹操の親衛隊として組織された騎馬隊だ。
精鋭の士ばかりで構成され、その機動力の高さは、魏が勢力を拡大する過程で何度も発揮されてきた。
本来なら川や森の多い揚州より、涼の圧力がかかっている司隷・キ州方面の方が活躍の余地はあるのだが、「我が軍勢の一翼に」という夏侯惇の強い要請が通り、その傘下に収まっている。
曹純は、この虎豹騎の指揮官だった。
「天候に逆らうことはできぬ。ならば天候を活かす方策を考えるべきだ」
夏侯惇は片方の目で、今度は曹純を睨み付けた。
恐れ入った曹純が一礼したのを確認すると、夏侯惇は抹陵軍の「軍師」の方を向いた。
「とは申せ、わしにはその有効な策が思い浮かばぬ。ここは抹陵の地理と風土に通じた知者の意見を聞きたいものだな」
夏侯惇の視線と言葉は、少し離れた所で控えめに立っている男に向けられている。
抹陵軍の軍師は――魯粛は――、軽く肯くことで夏侯惇の視線に応えた。
孫策を助け、孫策による天下平定を夢見た魯粛が魏の将となったのには、もちろん理由がある。
直接的な理由は、魏軍の抹陵攻めの渦中で捕虜になってしまったことに尽きる。
だが、捕虜となり、夏侯惇の前に引っ立てられた時の魯粛は、壊れた夢とともに自分の生涯も終わりにするつもりでいた。
3ヶ月前。
魏軍の攻撃の前に孫呉の拠点・抹陵は陥落し、虜囚となった魯粛は、夏侯惇の前に引っ立てられた。
「盲夏侯!」と罵られ、夏侯惇も一度は血管を膨れさせた。
しかし、夏侯惇は何とか自分を押えることに成功し、そして反撃に転じた。
「実はな、わしは徐州にいるおぬしの両親に会っているのだ。半年ほど前のことだが」
魯粛の両親は、曹魏の支配地である徐州臨淮郡にいる。
孫策が徐州を解放せぬ限り、二度と会うことはかなうまいと思っていた両親の話を持ち出され、魯粛は動揺した。
「おぬしの両親は、泣いてわしに言っていたぞ。『子敬を捕らえても、決して殺さないでほしい』とな」
魯粛の動揺を察した夏侯惇は、優越感を見せることも、かといって情に訴えることもせず、むしろ突き放すように言った。
「おぬし、富裕の家に生まれながら、家業そっちのけで人に施すことを好み、若者を集めては武術と兵法の訓練に没頭していたそうだな」
魯粛は下を向いた。
決して孝行息子とはいえなかった自分の過去を、夏侯惇が知っているという一種の恥ずかしさよりも、親に迷惑をかけてばかりだったことへの後悔の念が湧いてきたのだ。
魯粛の心情とはおかまいなしに、夏侯惇は言葉を続けた。
「乱世に生きる者として、わしはおぬしのような男を好む。だが、親に孝でない者は軽蔑する」
夏侯惇は十四歳のころ、師匠を侮った者を叩き殺した経歴を持つ。
そんな夏侯惇だけに、その言葉にある種の信念が含まれていることは、魯粛も感じ取ることができた。
「ここで死を選ぶのであれば、おぬしは結局、ただの親不孝者でしかなかったということだ。わしはおぬしを軽蔑し、そして忘れることにする」
平伏させられた魯粛を見下す夏侯惇は、ここで初めて、この男が持っている熱い感情を言葉に乗せた。
「魯粛。魏の臣となれ。生きて親に孝行せよ」
孫策と初めて会った時、当時最強勢力だった曹操に対抗する手段として「天下二分の計」を献策したこともある魯粛は、この瞬間、仮想敵と定めていた勢力に降った。
「太守殿、そして徐晃殿が申されるように、この雨は僥倖にござる」
そう言って魯粛は、軽く曹純に目礼した。
面白くなさそうな顔になりつつも、曹純は口をつぐんでいる。
「この雨のため、涼軍の抹陵到着は予定よりもかなり遅れたものとなっております。しかし、彼奴らが用意せし兵糧は、無限ではございません」
「軍師、しばし!」
黙っていた曹純が、慌てたように口を挟んだ。
沈黙を守ろうと思ってはいたが、魯粛の献策に「積極果敢」とは対極的な空気を感じ取ったのだ。
「おぬし、まさか涼の兵糧切れを待つ、とは言うまいな! 腹を空かせた吾玄が退却するまで、城の中に閉じこもるべし、とは言うまいな!」
「子和! おぬし、少し黙らぬか!」
ついに夏侯惇の雷が落ち、曹純は亀のように首をすくめた。
「軍師。続けよ」
夏侯惇に促され、魯粛は肯いた。
「吾玄と袁奉の間に溝らしきものができている、という細作からの報告ですが、その過程を見るに、吾玄は熱くなりやすい将と思われます。であるならば、この大雨による行軍の遅滞は、吾玄をかなり苛立たせていることでしょう」
魯粛の言葉に、夏侯惇は少し顔を歪めた。
猛将で通る夏侯惇だけに、似たような状況となったことは何度かある。
「それがし、赤壁や翻陽で涼軍と戦ったことがございますが、彼奴らの攻撃力はすさまじいものがございます」
顔を歪めただけで夏侯惇が何も言わなかったので、魯粛は続けた。
「ようやく戦場に到着した吾玄は、それこそ飢えた狼のように襲いかかってくるでしょう。一撃で我が軍が崩壊するとは思いませんが、相当の犠牲は覚悟しなければなりません」
ゴクリ、と唾を飲み込む音が響いた。音の主は、用兵のあまり得意でない閻象だった。
「しかし、溢れる戦意とともに振り上げた拳が空振りに終わったら……吾玄は如何なりましょうや?」
「空振り……とは?」
徐晃が問う。
「つまり、吾玄が想定していた場所に我らが存在せざれば如何、ということです」
「そんな状況になったら……拍子抜けする……かな」
首を捻りながら、徐晃。
「いや、余計いきり立つこともありえる……わしなら、多分そうなる」
夏侯惇から叱られたばかりの曹純が、人の好さをジワリと滲ませながら言う。
魯粛は、二人に対して肯いた。
「さよう。両方の可能性が考えられます。ですが、我らにしてみれば、どちらに転んでも損はない」
「どういうことだ?」
「吾玄が拍子抜けしたのなら――徐晃殿の言葉を借りますが――、吾玄は再び戦意を上げるのに難渋することでしょう。一度下がった士気を上げることは、如何なる名将でも難しい」
「余計いきり立ったなら?」
「冷静さを失った軍は、さほど怖くありません。吾玄が第二軍を完全には掌握していないという話が事実なら、なおのこと吾玄は効果的に軍を動かすことはできません」
魯粛の説明に、曹純と徐晃は顔を見合わせた。おもしろい、と曹純は笑っている。
「武将の心理を衝いた話だ。非常に興味深い」
夏侯惇が口を開いた。
「具体的な策を聞こう。吾玄をきりきり舞させる策を……当然あるのだろうな?」
「御意」
魯粛は笑みを浮かべることもなく、淡々と拱手した。