代理戦争〜その四〜






━━翻陽。資材集積所
「洛陽太守と大司農に伝えてくれ」
受け取りの書類に軍団長の印綬を押した吾玄は、輸送隊長―郭図公則配下の武官―に言った。
「これらの引き出物は、決して無駄にせぬ。吾四則は必ず抹陵を陥とす、とな」
対する輸送隊長は、恭しく拱手した。
「洛陽太守は、吾玄様の勝利を毛ほどもお疑いになってはおりません。『戦勝の報告などいらぬ。自分の関心は、いつ第二軍が第一軍と合流するか、その一点のみ』との仰せです」
輸送隊長の言葉に、吾玄はニヤリと笑った。

輜重車から積み降ろされたのは、高価な絹や綿、そして玉の類。
来るべき抹陵攻略戦の戦勝の際、武将や将校らに下与される引き出物だ。
通常なら、戦功は知行や金で評されることが多いが、今回に関しては別だ。
抹陵は揚州の拠点。雍州でいうなら長安、司隷なら洛陽、冀州なら業βといった位置づけの地。
呉と会稽に逃げ込んだ孫策は、潰すべき敵ではあるが、脅威と見なすべき敵ではない。

すなわち、この地を制したなら、もはや揚州は涼の支配下に収まったも同然なのだ。
普段なかなかお目にかかれない大量の引き出物は、それだけ重要な地に攻め入ることを、参加全将兵に知らしめるための道具だった。


本営へ向かう馬上の吾玄は、機嫌がいい。
護衛役の草に軽口を飛ばしては、一人で勝手に笑っている。
軍の再建もほぼ完了し、糧食も十分。恩賞の引き出物も大量に届いた。
ようやく悲願の抹陵攻めを発動できるとあって、吾玄の頬は珍しく緩んでいる。
一日の大半を吾玄の側で過ごす草にとって、ありがたい傾向ではある。
日ごろの吾玄は、いつ雷を落とすかわからない、気難しい上官でもあるのだ。
吾玄の笑みが消えたのは、引き出物を収めた官庫からさして離れていない場所でのこと。

道脇に、目立たぬ装束の男が立っていた。
男は吾玄に向かって拱手したが、それは目上の者に対する礼法ではなく、同等の立場同士で交わされる拱手だった。
いぶかしむ吾玄と草は、同時に「あっ」と小さく叫んだ。
男は、郭図公則だった。


「実を言うと、殿下からの許可は頂いてはおらんのだ」
驚いて駆け寄った吾玄に対し、郭図公則はぬけぬけと言った。
「そういうわけなので、目立たぬところで話がしたい。なに、時間は取らせんよ」
洛陽太守が、涼王の許可も得ずに、遥か翻陽までやってきた。
吾玄は呆れると同時に、おかしくもなった。
他の七同志としょっちゅう衝突していた郭図公則だが、吾玄と陰険な関係になったことはない。


草は、吾玄と郭図公則が入っていった路地裏に目をやった。
(まさか閣下に成りすまして会見に臨むとはな)
口元に苦笑が浮かぶ。
(あいつめ。間違いなく神経が……しかも肝心な神経が何本か抜けている)
郭図公則が指定した会見場は、すぐ近くの路地裏だった。
七同志が会見するには甚だ品位に欠けていたし、何やら生臭い臭いも漂う場所ではあったが、余人の目に触れるおそれはない。
いつになく機嫌の良かった上司。元同僚の意表を衝いた登場。
おかしくなるとともに、気が緩んだ。


「久しぶりだな。赤壁以来か」
先に胡床に座った吾玄が最初に口を開き、次いで着座した郭図公則も対応する。
「二年振りだ。それにしても御辺、変わったな」
「そうか?」
「以前はどこかそわついた軍団長であったが……顔つきが全然違う」
「男子三日会わざれば刮目して見よ、というやつだ。引き出物が心配でついてきたのか?」
「輸送部隊には、腕利きの兵を回したつもりだ。盗賊程度では、近寄れもせんよ」
「では、なぜわざわざ翻陽に?」
「抹陵攻めに臨む御辺に、激励の言葉を贈りたくてな」
「私の勝利を毛ほども疑ってなかったのではないのか?」
「私の来訪が殿下に知られた時は、そういうことにしてほしい、ということだ」
吾玄は再び笑った。
「表向きの理由は承知した。では、真の目的は何だ? あの大都市の太守職が、そこまで暇とは知らなかったな」
「暇なものか。間もなく、陛下が御還行される。その準備で目の回る忙しさだ」
「では、なぜ?」
「御還行以上に深刻な問題が、御辺の周囲で起こっているからだ」
またあの話か、と吾玄は肩を竦めた。
しかし郭図公則は、目に真剣さを宿らせて吾玄を見据えた。
「抹陵にいるのは、敗走を続けてきた孫呉ではない。魏の夏侯惇だぞ。今の状態で勝てると、本気で思っているのか?」
「そのための引き出物ではないか。あれで軍の士気は上がる。それで十分だ」
「危ういな」
「そうかな」
「殿下は許昌の役で馬休を失い、自らも壊滅の一歩手前まで行った。馬参に至っては、業βで散々な敗北を喫した。魏軍は強い。そして、最近の涼軍はどうも流れが悪い」
「らしくない口上だ。御辺は常に、強気の言しか口にせぬ男と思っていたが」
「言いたくないことを口にすることも、時には大切なのだ」
「では、御辺が言いたいことは何だ?」
「言いたいというより、確認したいことがある」
「なんだ?」
「袁奉との仲を修繕することはできぬのか?」
「正直、わからん。できるかもしれないし、できないかもしれぬ」
「私が力になれることは?」
「ない。少なくとも、今はな。引き出物を届けてくれただけで十分だ……それより御辺、知っているか?」
「なんだ?」
「希代之の手の者が、私と到越殿の仲を裂いたのは、御辺であると告げてきたぞ」
「私が? どうして私がそんなことをしなければならんのだ?」
「希代之に聞け。私は知らない」
「そうか。希代之がな」
「私と到越殿の仲を心配する前に、自分の心配をしたらどうだ? 御辺、副軍師時代から希代之とは仲が悪かったが、まったく変わっていないな」
「私がヤツを嫌っているわけではない。ヤツが私を一方的に嫌っているのだ」
「嫌われる理由というやつを考えた方がいいぞ」
「肝に銘じておこう」
「他に聞きたいことは?」
「聞きたいことはないが、言いたいことがある」
「何だ?」
「もう少し私を頼れ」
「ん?」
「端から見ていると、どうも御辺は、自分だけで物事を解決しようとしている。そんな調子では、長続きせんぞ」
「なんだ。第四軍団長選挙に向けての票固めか?」
「そうではない。私が言いたいのは、私には御辺の力になる用意がいつでもできている、ということだ」
「お気持ちはありがたく頂戴しよう。私もできる範囲で御辺には協力する。だが、軍団長選挙に関しては、話は別だ」
「だから! そんな気はないと言っているだろう!」
ここで郭図公則は、つい声を荒げてしまった。
吾玄はその様を見逃さなかった。

何かを確信したように鼻を鳴らした吾玄は、口調をガラリと変えた。
「さっさと洛陽へ帰れ。そして、今の私の言を本物の郭図公則に伝えよ」
「…………え?」
思わぬ吾玄の言葉に、郭図公則に変装していた支援隊員は絶句した。
「突然何を言い出すのだ?」
動揺を悟られまいと強弁する支援隊員だったが、吾玄はまともに取り合おうとはしなかった。
「引き出物の礼だ。影武者で私をたぶらかそうとしたことは、きれいに忘れてやる」
胡床から立ち上がった吾玄は、余人にはできない表情で支援隊員を見下ろした。
「これで私と郭図公則の間に賃借関係はなくなったな……ああ、もうひとつ伝えよ。今度このようなことをしたら、影武者の首をそのまま殿下のもとへ送り付ける、とな」


さすがに支援隊員も、脇に汗をかいていた。
理由はわからないが、吾玄が自分を影武者と見抜いたことは間違いないらしい。
さあ、自分はどうすべきか。
あくまでも強弁を続けるか、それとも開き直るか。
支援隊員が選んだのは、後者だった。
「まこと、恐れ入りましてございます」
はいつくばった支援隊員は、生臭い臭いが染み付いた地面に額をこすり付けた。
「洛陽太守に変装いたしましたのは、あくまでもそれがしの勝手な判断にて、命令によるものではございません。吾玄様におかれましては、なにとぞその辺の事情を御理解願わしゅう」
「同じ事を二度言わせるな」
意外にも吾玄は、怒った様子はなかった。
「此度は放免してやる。しかし、次はないと思え」
「吾玄様」
立ち去ろうとする吾玄の背に、支援隊員は呼びかけた。
「私の変装はどこがいけなかったのでしょうか?」
この狼藉を吾玄が糾弾しないとわかった瞬間、支援隊員はいつもの図々しさを取り戻していた。
「自分では、けっこう自信があったのですが……どのあたりから、ばれてしまったのでしょう?」
吾玄は振り向いた。
「呆れたヤツだ」とでも言うように目を丸くしているが、口元には苦笑いを浮かべている。
こういう“変なヤツ”は嫌いではない。
「本物の郭図公則ならありえぬ言動が二つあった」
そんなことを教える義理などないのに、吾玄はわざわざ説明してやった。
「おぬし、私が胡床に座ったのを確認してから、自分も着座したな。郭図公則がそのようなしおらしいタマか」
「あ……なるほど」
「そしてもうひとつ。おぬし、怒気を見せたな」
「え? そうでございましたか?」
「影武者なら、もう少し自分の上司を観察することだな。郭図公則は己の感情を外に出すことはない」
「ははっ! 迂闊にございました!」
「良い返事だ。だが、二度と私の前に姿を現すな。もう一度だけ言うが、次はないぞ」

「ははっ! お言葉、肝に命じまする!」
支援隊員は、吾玄の足音が聞こえなくなるまで、土下座を続けていた。


参露がその場を通りかかったのは、まったくの偶然だった。
通りの傍らで、所在なげに立ってい吾玄の副官を見つけたのだ。
通りを歩いている最中だったなら、特に関心を抱かなかったかもしれないが、副官は明らかに誰かを待っていた。
(誰を待っているのだ? 軍団長殿? こんな薄汚いところで?)
参露は物陰に隠れ、その人物を見極めようとした。
路地裏の入り口に立ち、誰も入れないようにしている副官だったが、特に気を張っている様子もなく、参露が隠れていることにもまったく気付いていなかった。
やがて、路地裏から吾玄が現れた。
吾玄は馬にまたがると、副官とともに本営の方へと駆けていく。
(軍団長殿が、あんな汚い路地裏でいったい何を?)
吾玄らの姿が見えなくなったところで、参露もその路地裏に入ろうとした。
その一歩を踏み出した時、そこからもう一人の男が出てきた。
目立たぬ装束で、顔の大部分を大きめの頭巾で隠している。
何者なのかさっぱり検討がつかないが、こんな所でコソコソ会うなど、表沙汰にできない話を交わしたに違いない。


時折頭を掻きながら、男はさして急ぐ様子もなく、のんびりと通りを歩いている。
気取られぬよう、参露はその後を追った。
やがて男は、大きいが粗末な建物に到着し、“こっそり”という表現そのままに、裏口から入っていった。
通行人に「あの建物は何か」と聞いてみる。
「涼軍の校尉連中が寝泊まりしている官舎ですよ」
それを聞いた参露は、正門から官舎へ入り、庭を掃除していた管理人老夫婦を見つけた。

「それがしは第二軍軍察監である」
軍察監の印綬を示しながら、参露は居丈高に告げた。
「軍務査察の一環として、この官舎を検閲するものである。まずは、ここに住んでいる校尉たちの所属部隊と姓名を申せ」
涼軍のお偉いさんと聞き、老夫婦は恐れ入って校尉たちの名を告げた。
参露が眉をひそめたのは、その中に吾玄の副官の名もあったため。
「よろしい。それではこれより、官舎の立ち入り査察を行う」
参露は宣言した。


時刻は日暮れ近く。
まだ火の点されていない官舎内は薄暗い。
目が屋内の暗さに十分慣れたところで、参露は階段を上り始めた。
老夫婦によると、校尉たちは二階で寝泊まりしているという。
音を立てないよう注意しながら、参露は部屋ひとつひとつの前に立ち、気配を確認したが、ほどなく、気配を確認する必要もないことを知る。
奥から二番目の部屋で、盛大ないびきが発生したのだ。
いったん階下に下りた参露は、不安そうな顔で待っている老夫婦にその部屋の主を尋ねた。
「軍団長様の副官殿がお住まいにございます」
老夫の答えを聞いた参露は、懐から金を取り出すと、老夫婦に押し付けた。
「外で飯でも食べてくるがよい。今宵はどこぞの宿にでも泊れ……言うまでもないことだが、それがしがここで査察をしていることは、決して口外してはならぬ」
薄汚い路地裏でこっそり吾玄と会っていた男が、吾玄の副官の部屋にいる。
この男と副官の間には、間違いなく何かある。
例えば、涼に何らかの便宜を図ってもらおうとした男が、副官に金を渡して面談の段取りを取ってもらった、とか。
そうなれば贈収賄であり、それこそ軍察監たる参露の出番だ。
一番奥の部屋に忍び込む。
ここで副官が帰ってくるのを待ち、二人の会話を盗み聞きするのだ。
本当なら、手前の部屋の方が何かあった時に逃げ出したりするのに都合がいいのだが、その部屋は生理的にまずい。
恐ろしく散らかっているため、性格的に盗聴よりも部屋の掃除の方に神経がいってしまいかねない。
寝ている男を起こさぬよう、そっと部屋の入り口前を通りぬけ、参露は奥の部屋に潜んだ。
あとは、副官が帰ってくる前に、部屋の主が戻ってこないよう祈るだけだ。


ただひたすら待つという行為は、意外と忍耐がいる。
大きくなったり小さくなったりと、単調でない男のいびきが何とも癪に障る。
だからこそ、廊下に足音が響き、そして声が聞こえた時は、緊張するとともにホッとした気分でもあった。
「おぬし! まだいたのか!」
怒声は、吾玄の副官のものだった。
「……あ、おかえり」
「おかえり、じゃない! 細作同士の接触は厳禁という掟を何だと思っている!」
「そう怒るな。吾玄将軍が何と言っていたのか、どうしても知りたくてな」
「先ほどの会見のことなら、将軍は何もお話にならん。笑われるばかりでな」
「そうか。ならば、将軍が殿下に告発することはないな。ホッとした」
「告発?……どういうことだ?」
「それがな、変装だということがあっさりばれてしまったのだ」
「ブッ!」
「いやあ、参った」
「参った、じゃない!……おぬしのやったことは、閣下に対する疑念を将軍に持たせるようなものではないか! 閣下にどう申し開きするつもりだ!」
「正直に話すさ。とりあえず、閣下のご意向は将軍に伝えられたし、将軍が告発する気がないのなら、任務自体は失敗ではない」
「……それでは、将軍は軍団長選挙に協力すると言っておられたのか?」
「うーん。できる範囲で協力するとは言ってくれたが、選挙は別だとさ」
「それでは、ただの御用聞きではないか。実のある言質を取ってこその任務であろう」

「ヘコむようなこと言うない。洛陽に帰るのが怖くなる」
「知ったことか。さっさと帰れ。おぬしのおかげで、俺の寿命まで縮みそうだ」
「将軍の態度がわかれば、もう用はない……じゃ、世話になったな」
「あばよ。頭(かしら)にたっぷり絞られるがいい」
「あぁ、気が重い……」


細作。閣下。軍団長選挙。洛陽。
鼓動すら大きく響いているような気がして、参露は自分の胸を押えた。
あの男と副官は、郭図公則が放った細作。落ち着けという方が無理だった。
同時に、廬江太守・呉班の言葉を思い出す。
参露の心の中で、呉巨に独断出兵をそそのかした“都尉”の身体的特徴と、副官の容貌が一致した。
(あいつだ!……あいつこそが、吾袁両将軍の離間を成した張本人なのだ!)
怒気が湧き起こったが、ここは気取られぬよう、速やかに抜け出さなければ。
今後は副官を徹底的に押さえればよい。そうすれば、いつか尻尾を掴めるはず……。

だが、そういうわけにもいかなかった。
「おや、今日は早かったんだな」
誰かの声が聞こえる。
参露が潜んでいる部屋に住む校尉が、帰ってきたのだ。


「誰だ! 盗人か!」
校尉の絶叫を聞き、草は部屋を飛び出した。
そして、校尉の部屋に立つ男の顔を見極めるや否や、顔面を蒼白にして立ち尽くした。

「第二軍軍察監の参露である」
参露は覚悟を決め、背筋を伸ばして言い放った。
「軍察監任務遂行のため、この官舎を視察している。これは筆頭軍師の命令と知るがよい」
「視察だって?! いったいそれがしが何の罪を犯したというのです!」
「御辺の部屋だけを調べたわけではない。また、校尉だけを調べるわけではない。そして、第二軍将兵だけを調べるわけでもない」
そう言って参露は、剣の把に手をやっている草を睨み付けた。
「まあ、不満を抱く気持ちもわかるが、これも任務と承知してほしい。御辺らには御辺らの仕事があるように、それがしにも仕事がある、ということだ」
参露は、一歩前に踏み出した。
思わず草は、一歩下がった。

とんでもないところに、軍察監がいた。
第二軍分裂の黒幕を知っている男に、自分が郭図公則配下であることがばれてしまった。

(斬る……か?)
そう考えたが、今ここには、無関係の校尉もいる。
軍団長付副官が、筆頭軍師の派遣した軍察監を斬ったとなれば、大問題になる。
そんな草の心情を見透かしてか、参露はことさらゆっくりと、草の肩に手を置いた。
「任務に忠実であり過ぎると、時として自分のやっていることを見失ったりもする」
参露は、ジロリと草の目を見据えた。
「お互い、気を付けねばならんな」


「何がお互い、だ!」
参露が去った後、校尉は憤慨したように怒鳴った。
「勝手に人の部屋に忍び込んだりしやがって……いったい何様のつもりだ! おぬしもそうは思わんか!」
校尉に振られても、草は何も答えることができなかった。
動揺していた。



━━洛陽。太守府
「首を刎ねますか?」
平伏している支援隊員を前に、細作頭が冷然と尋ねる。
恐れ入った支援隊員が、更に額を床に押し付けたのを見て、郭図公則は鼻を鳴らした。

「必要ない。とりあえず、私の意向を吾玄に伝えられただけでも良しとしよう」
「しかし、この者は勝手に閣下に変装し、挙げ句、吾玄将軍にそれを見破られております。閣下を窮地に立たせたこと、死をもって償わせるべきかと」
「こやつの言い分、そして什長の書状。これらを鑑みるに、吾玄は別に怒ってはいない。此度だけは、よい」
「それでは、不問にございますか?」
「伍長」
「は……ははっ」
「伍長の位を剥奪する。再び下級細作として、どぶさらいからやってもらおう」
「ははっ! 閣下の御慈悲、しかと胸に刻んで精励いたします!」
支援隊員は、飛び跳ねるように執務室から出ていった。

「閣下、申し訳ございません」
細作頭が頭を下げた。
「彼奴の失態は、直接の上司たるそれがしの責任にございます。何なりと罰をお申し渡しください」
「あれぐらい図々しい方が、何かと任務に使える。もうよい」
煩わしそうに手を振ると、郭図公則は草から送られてきた書状に、再び目を落とした。

「軍察監を密かに殺するは如何、か……」
書状を読み上げると、細作頭はその酷薄な顔をさらに無表情なものにした。
「什長の言はもっともなことと存じます。放っておくと、危険です。刺客を出しましょう」
だが、郭図公則はそれにも肯かなかった。


今、軍察監を殺せば、例え証拠を残さなかったとしても、いや、本物の事故による死だったとしても、希代之は郭図公則の手によるものと断定するだろう。
そうなれば、あちらも報復に出てくる。そして、際限なく互いの細作が死ぬことになる。

その殺戮合戦の過程で、希代之が郭図公則の細作を捕らえ、拷問で口を割らせることに成功すれば、一気に郭図公則の立場は悪くなる。
以前郭図公則が、希代之の細作七人を洛陽で殺した時とは、状況が違うのだ。
「什長には、しばらく動かぬよう伝えておけ」
郭図公則は言った。
「軍察監がやつの身元を知った以上、全力でやつに探りを入れるであろう。下手に動いて、証拠となるものを捉まれてもつまらん」
「御意。吾玄将軍と袁奉将軍の離間も、もはやこちらから油を注ぐ必要もありませんでしょうし」
「ただ、第二軍への細作の増派だけはやっておけ。什長の身元が知れたとなれば、希代之もしゃかりきになって、細作を増やすかもしれぬ……何人回せる?」
「さようでございますな……腕利きでしたら、一人。それに中堅どころを三人ほど、といったところでございましょうか」
細作頭の返答に、郭図公則は渋面を作った。


細作を揃えるのには、時間と金がかかる。
呂砲とともに永安で挙兵して以来、郭図公則は少しずつ細作団を組織し、同じく自前の細作団を指揮する希代之と対抗していた。
ほぼ同規模だった希代之細作団との差を一気に広げたのは、洛陽太守となって以降のこと。
巨万の金を融通できる立場となるや否や、郭図公則はその財力の多くを情報収集面に充てたのだ。
その格差を更に広げたのが、洛陽事件。
この時希代之は、一朝一夕には揃えられない熟練の細作七人を、瞬時にして失った。
だが最近になって、両細作団の規模は接近する傾向にある。
郭図公則細作団の急速な拡大に危機感を抱いた希代之が、“量”の確保に力を入れ始めたのが、理由のひとつ。
全体的な質は当然落ちているが、細作それぞれが経験を積めば、再び両細作団が拮抗することも十分に予測できる状況となっている。
もうひとつの理由は、業βに派遣した郭図公則細作団の壊滅。
業β太守の曹丕は、第三軍を迎え撃つにあたり、徹底して領内に潜んでいる細作の駆除にあたった。
曹丕の細作狩りは徹底を極めた。
二十人近い細作が、ほんの一月足らずで音信不通となる事態は、いくら郭図公則でも対処しようがなかった。
郭図公則は舌打ちした。やはり、業βの損害が大きく響いている。
「四人か……仕方があるまい。すぐに派遣せよ」



━━許昌。筆頭軍師府
「大手柄にございますな!」
満面に笑みを浮かべているのは、希代之の護衛隊長。
「洛陽太守の細作を割り出すとは! 翻陽入りして日が浅いのに、たいしたものです!」

「参露殿は良くやりましたが、吾玄将軍の懐に細作を潜伏させているとは、洛陽太守もさすがです」
護衛隊長の熱気を制するように、副官。
「これなら、危険を冒すことなく第二軍の詳しい内情を知ることができる……正直、そこまでやるか、という思いもいたします」
「それよりも、参露殿の身に危険が及ぶのではありませんか?」
心配そうに口を挟むのは、最近希代之の側近に加わった参謀だった。
「書状では、参露殿が細作の正体を見破ったことを、細作にも知られてしまったとあります。口封じのため、参露殿の命を狙って刺客を放つ、ということも……」
「おお、それはまずい! 参露殿の身を守る手立てを講じませぬと」
参謀の指摘に護衛隊長が慌てたが、希代之はゆっくりと頭を振った。
「郭図公則が参露の命を狙うことはない。任務の邪魔をするぐらいはやるだろうが」
希代之は、その根拠を三人に聞かせた。
それは、郭図公則が参露暗殺を決行しなかった理由と、まったく同一のものだった。


「吾玄と袁奉の離間に郭図公則が関わっていたこと。これははっきりした」
希代之は言った。
「吾玄の副官とやらに、なるべく多くの細作を張り付けろ。さすれば、郭図公則はその者に指令を伝達することも困難になる」
「いいですな。たまにはこちらからも、そういう嫌がらせをしてやりませんと!」
護衛隊長が嬉しそうに同意した。
ここしばらく、希代之細作団は郭図公則細作団に押されっぱなしだったが、ようやく反撃開始というわけだ。
しかし、何人増派できるか?という希代之の問いに、護衛隊長は下を向いた。
「何とか融通したとして……二名……今はこれが精一杯です」
細作の人数を増やしつつあるとはいえ、限度というものは存在する。
「満足できる人数ではないが、可能な限りの便宜は尽くそう。参露の頑張りには応えてやらねばな……ああ、それと」
しばらく宙に目をやっていた希代之は、思いつめたように目を細めた。
「例の件だが……参露にも伝えようと思う」
希代之の言葉に、副官と護衛隊長は眼を剥き、参謀は何事かと首を傾げた。


例の件。
吾玄の愛妾を、希代之が世にも無残な方法で殺したことだ。
女を殺したこと自体には、希代之は今も後悔していない。
あの女を―呉の女細作を―消さなければ、第二軍はいつまでたっても呉攻略に踏み切ることはできなかったのだから。
しかしあの殺し方は、希代之の中で大きな染みに、そしてできることなら、これ以上知る人間を増やしたくない出来事となっている。
だが、参露からの書面を見るに、参露は第二軍内で極めて難しい立場に置かれているようだ。
言うまでもなくその原因は、愛妾を殺された吾玄の希代之への怒りだ。
そして、参露はその背景を知らない。
「自分の薄っぺらな名誉を守るため、私は何も知らせぬまま、参露を第二軍へ送り込んだ」
三人の腹心たちが見守る中、希代之は静かに言った。
「馬鹿だな、私は……結局のところ、自分のことしか考えていなかった。参露がこのことを知っていれば、他に身の施しようがあっただろうに」


「すぐに細作を翻陽へ送ります」
話題を変えるように副官が言った。
「ただ、間もなく第二軍は抹陵への進軍を開始するはずです。翻陽に着くや否や、すぐに抹陵へ向かわせることになるかもしれませんな」
ちょっとした冗談のつもりの一言だったが、希代之が笑うことはなかった。
「むしろ、そうなることを祈りたいものだ。第二軍が抹陵を制圧する、ということだからな」
希代之は宙を仰ぎ見た。
「結局、抹陵攻め前に、吾玄と袁奉の仲を修復することはできなかった。第二軍は分裂した状態のまま、夏侯惇と戦うことになる。つまり」
希代之はそれ以上口にしなかったが、考えていることは副官たちにもわかった。
すなわち、派遣した細作たちは、魏軍に撃破されて翻陽に逃げ戻った第二軍の姿を目撃することになるかもしれない、ということだ。






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