抹陵攻略戦〜その二〜
━━翻陽東部、抹陵への途上。第二軍
吾玄の苛立ちは頂点に達している。
ようやく雨も小康状態となり、行軍が開始されたものの、その進軍速度は極めて遅い。
いや、遅いというより、無駄が多い。
森を抜けたと思ったら地図にない川が行く手を阻んでいたり、平地を進んでいるはずがいつの間にか沼地に踏み込んでいたり。
そのたびに全軍を止めて迂回路を捜し、時にはもと来た道を大きく引き返す。
用意していた兵員輸送船も、この大雨による濁流でその多くが傷つき、そして沈んでいた。
わずかに残った船によるピストン輸送も不可能ではないが、それは戦力を小出しで渡河させること。
そこを夏侯惇に衝かれたりしたら、それこそ目も当てられない状況となる。
「抹陵へ確実に到達できる進路を見つけ出せ!」
吾玄の怒声は、命令となって全軍に伝えられた。
「見つけた者には恩賞を授けるぞ!」
その命令によって、軍の前方に出されていた斥候の数は五倍に増えた。
草もまた、斥候の一人として、進路を捜している。
副官たる草が斥候となっているのは、命令によるものではない。志願したのだ。
出兵してからまだ一度も戦闘状態になっていない第二軍だが、連日の降雨のおかげで、精神的にかなり消耗している。
戦さは相手があるものであり、思い通りにはいかないもの。そして今回はそれに自然の猛威まで加わった。
思い通りにいかないことへの苛立ちは、吾玄ならずとも第二軍全将兵が等しく共有している感情だった。
草もまた、そんな感情を抱いている一人。
現況を打開するためなら、斥候だろうが何だろうがやってやるつもりだった。
進路を遮る細長い木の枝を剣でなぎ払いながら、愛馬を進ませる。
時折他の斥候と遭遇するが、色よい報告はなかった。
「何をしているのか! さっさと見つけて来い!」
兵に対する草の言葉にも、ストレートな感情が表に出るようになっている。
焦りや苛立ちとはまったく無縁な嬌声が聞こえてきたのは、草がこの日、十人目の斥候に怒鳴り散らした直後のことだった。
現れた三人組は、草の姿を認めると、子供のような笑顔で駆け寄って来た。
兵A「おお、蔡瑚!……じゃなかった、副官様ではございませんか!」
兵B「ちょうど良かった! 今から報告に参るところでした!」
兵C「恩賞だー恩賞だー」
三人組は、草が吾玄隊に潜入した時、何かと面倒を見てくれた吾玄隊の兵士たちだった。
兵A「ついに見つけましたぞ! 抹陵への入り口を!」
兵B「あの進路ならば、全軍無事に抹陵へとたどり着けます!」
兵C「出撃だー出撃だー」
抹陵への入り口。
その言葉を聞き、ネガティブな感情ばかりだった草の―蔡瑚の―心は、ようやく躍った。
「でかした!」
蔡瑚は膝を叩くと、馬の鼻面を三人組がやってきた方向へ向けた。
「まずはそこへ案内せよ! 確認した上で、吾玄様にお知らせする! ……ああ、もちろん」
蔡瑚は三人組に笑いかけた。
「恩賞はおぬしらのものだ!」
※「315番目の草」の名前:「315」→「さいご」→「蔡瑚」ってことで。
「侵攻路が確保された」
軍団長専用の天幕に集まった第二軍武将を見渡し、吾玄が言った。
「良道とはいえぬが、陸路なら問題はない。速やかに踏破し、魏領抹陵へと踏み込む」
逸る気持ちを押えての、最後の軍議。
この軍議の後は、戦闘が終わるまで全武将が集まることはない。
「軍師。状況を」
吾玄の言葉に、第二軍軍師の黄権が頷いた。
「魏の正規軍は、抹陵守備軍約8万。諸将も知っての通り、総大将は夏侯惇だ」
夏侯惇。
その名を聞き、将軍や校尉たちの間からため息が漏れる。
曹操の片腕として歴戦を重ねてきた武将ではあるが、今の第二軍幹部にとって、恐れるべき敵とは感じられなかった。
これまで、先を予測できない自然を相手に悪戦苦闘を続けてきたが、人間ならば何とでもできる。
たとえ勇猛を謳われる夏侯惇であったとしても。
「増援軍は」
幹部のどよめきを制して、黄権が続ける。
「寿春から満寵を司令官とする軍が出てきているはずだが、最低でも4万は下るまい」
「広陵からは?……まあ、念のための問いなのだが」
呉懿が尋ねる。
「形だけのものだろう」
質問の意味を承知しつつ、黄権は答える。
「夏侯惇は、広陵から抹陵へと侵攻してきたからな。今の広陵には、最低限の守備隊しかおらぬ。気にする必要はあるまい」
「すると、敵の総勢は約12万ということだな。承知」
肯いた呉懿と入れ替わりで、今後は呉蘭が質問する。
「敵の布陣状況はどうです?」
「物見の報告によると、砦におびただしい数の軍旗が立ち並んでいるそうだ。まあ、迎撃策であろうな」
特に気にする様子もない黄権の言葉、「迎撃策」。
それに対して、誰も注意を促すことはなかった。
常識的に考えて、夏侯惇が取りうる当然の策のはずだった。
抹陵の砦は、高い山間部の端にある。
第二軍は、その山々を乗り越えて砦に到達することになる。
砦の東側には多少の平地があるものの、多くは森林に覆われており、「突撃」や「乱撃」などは使いにくい。
「砦の周辺には侵入不可能な岩場もある。大軍が有機的に行動するには、何かと不便な地形だ。諸将には、各部隊との連携を密にしての行軍を求める」
そこまで言って、黄権は吾玄に拱手した。状況説明は終わりだ。
「それでは、抹陵攻略に向けての方針を言い渡す」
肯いた吾玄は、ゆっくりと将軍たちを見渡した。
「軍師、厳顔、孟達、雷銅!」
「はっ!」
名を呼ばれた四人が声を上げる。
「おぬしらは私とともに、北軍を編成する。北側より砦に接近し、場合によっては満寵の増援軍も相手にすることになる。気を引き締めてかかれ」
「応! お任せあれ!」
誰よりも早く、そして大きな声で応じたのは、第二軍全将兵の中でもっとも現状に欲求不満を抱いていた男・厳顔。
少し苦笑しながら、黄権らも続く。
吾玄は、今度は袁奉の方を向いた。
「副将」
「はっ!」
応答する袁奉の口調は、吾玄の部下としての節度を保ったものだった。
吾玄と袁奉。
七同志であり、同郷でもある。しかし、“元”親友。
「卿には張任、呉懿、呉蘭を率いる南軍司令官を任せる。南側より侵入せよ」
袁奉に向ける言葉、そして視線にも、吾玄は格別の感情を浮かべなかった。
「地図を見てもわかる通り、南側は砦への最短路だ。しかし、猪突は禁ずる。北軍の砦包囲が完了した後、北南軍一斉に砦に襲い掛かる。それまで、敵との距離に注意せよ」
「御意」
拱手しながら、袁奉も「それが最善だろうな」と思っている。
北軍の武将は、江夏軍の廬江侵攻の際、増援軍の派兵に反対した武将たち。それに黄権。
一方、南軍を構成するのは、増援軍派兵を強く主張した武将たち。
いわゆる吾玄派と反吾玄派に軍を分けた形だ。
張任らの吾玄に対するわだかまりは、まだ払拭されてはいない。
何より今回の戦場は、大軍を動かしにくい地形だ。
ならば思い切って軍を二つに分け、それぞれが能動的に動いた方が命令も浸透しやすい。
「南軍指揮官の任、確かに承り申した」
袁奉は応えた。
「軍団長の攻撃の合図とともに、魏軍への攻撃に転じましょう」
「よろしく頼む」
袁奉が素直に応じたためか、吾玄の表情がほんの少し緩んだ。
「それでは諸将よ」
随分と懐かしく感じる柔和な表情を、吾玄は慌てて引き締めた。
そこらへん、まだまだ吾玄は意地っ張りだった。
「かなり時を無駄に費やしたが、いよいよ本番だ。此度は特別に、洛陽より珍しい品々が引き出物として届いている。名誉と引き出物は卿らの働き如何。奮励し、己の働きで掴め」
武将や幹部ら一人一人の顔を見渡し、吾玄は告げる。
「出撃する。各将、散れ。砦にて会おう」
天幕の中に、じわっと熱気がこもった。
戦場特有の高揚感が天幕に満ち溢れている。
「お先に失礼する!」と絶叫し、天幕から飛び出していったのは、老将厳顔。
口をヘの字に曲げながら、張任は目だけは笑っている。
いつものおもしろくなさそうな顔ながらも、明らかにウズウズしているのは、孟達。
呉懿は族弟の呉蘭の肩を叩き、雷銅は鼻の穴を膨らませて部下の校尉を叱咤する。
彼らが出て行き、天幕の中には吾玄、袁奉、黄権と彼らの校尉たち、そして軍察監の参露だけが残った。
急に人口密度が低くなり、何とも言えない寂寥感が漂う。それもまた、戦場特有の感慨。
「それでは、軍団長」
黄権が吾玄を促した。
「よし……参ろうか」
長い間お預けを食らっていた吾玄の顔に、ようやく笑顔が戻っている。
「それでは到越殿。南軍は任せるぞ」
天幕から出る間際、吾玄は久しぶりに袁奉を字で読んだ。
「任せてくれ。四則殿」
何の抵抗もなく、袁奉も字で呼び返す。
外はまだ小雨が降り続いているが、この瞬間だけはカラッとしたさわやかな空気が流れた。
(それがしがあれだけ動いても駄目だったのに……)
その模様を見詰めていた参露に、ほんのわずかなやるせなさと、それを大きく上回る嬉しさがこみ上げてきた。
同時に、羨望の念も浮かぶ。
その命を戦場で燃焼させる男たちに、謀略など無縁。
本気でそう思いたくなる。
吾玄と袁奉の離間を為した張本人である蔡瑚もまた、まったく同じ心情だった。
元々その策謀は、蔡瑚が望んで為したものではない。
根がまっすぐな男たちが、そのまっすぐな気持ちだけで接する様は、見ていて気持ちがいい。たとえそれが、自分に与えられた使命とは正反対の形であったとしても。
(この戦さが終われば、あるいは)
吾玄の後を追いながら、蔡瑚は思った。
(殿と後将軍の仲も修復されるかもしれんな……そうなったら、洛陽の細作頭に何と釈明しよう)
そう考えて、まずはこの戦さに勝ってから、と思い直す。
結果的にいえば、釈明する必要などまったくなかったわけだが、この時は参露も、そして蔡瑚も、吾玄と袁奉の仲違いが終結することを確信していた。
「魏」や「夏侯」など、おびただしい数の軍旗がはためいている砦を視界に収め、袁奉は南軍全部隊に「行軍停止」を伝えた。
すぐにでも「突撃!」と叫びたくなる自分を宥める。
南軍単独で攻撃しても、損害の割に戦果は上がらない。
北軍と南軍、同時に襲い掛かってこそ攻撃効果は大きくなるが、吾玄率いる北軍はまだ山中を進んでいるはず。今は待つ時だった。
「しかし、副将殿」
馬を進めてきた張任が、袁奉に語り掛けてくる。
「おかしいとは思われぬか? うまく言えないのだが……殺気が感じられぬ」
張任から指摘されるまでもなく、袁奉もそれは感じていた。
軍旗だけは激しくたなびいているが、普段なら感じられるはずの戦意、そして殺気が、あの砦からはまったく感じられない。
「確かに妙だな」
砦を見やりつつ、袁奉も同意した。
とはいえ、事ここに至っては打つべき手もない。
斥候を出しても、砦の守備軍によって瞬殺されてしまうだけだ。
「夏侯惇も何かたくらんでいるのかもしれぬ」
「伏兵……とか?」
「あり得る。あるいは、待つまでもなく、奇襲をかけようとしているのかも」
「即応できるよう、陣形に注意しておいた方がいいな」
今、第二軍は敷いている陣形は、“疾風”戦術に適した進軍用のもの。
意表を衝く形で魏軍が討って出てきたら、少なからぬ損害が出る。
「頼む」
砦の方を睨みながら、袁奉は張任に応えた。
雨でぬかるんだ山中を進んでいた北軍も、砦が目に見える所まで到着した。
砦を凝視していた吾玄もまた、袁奉らと同じ「不自然さ」を抱いている。
派手に軍旗がたなびいているものの、人の気配がまったく感じられない砦。
守備軍の「最重要拠点」としての雰囲気はまるでなかった。
「軍師。どう見る?」
吾玄の問いに、黄権も戸惑いを見せた。
「断定はできませんが……何か魏軍に意図があるのかもしれません。慎重な接敵を為すべきでしょう」
「また慎重に、か」
「時間はかかりますが、少しずつ接近しましょう。もはや、敵は目の前なのですから、焦って攻撃に転じる必要はありません」
「しょうがないな。ここまで来て、無駄な損害は出したくない」
そう言って吾玄は、控えている蔡瑚に声をかけた。
「蔡瑚。慎重に進軍するよう、各部隊に伝令を送れ。特に厳顔にな」
「御意」
吹き出しそうになりながら、蔡瑚は拱手した。
この期に及んで、「慎重な行軍」。
厳顔が顔を真っ赤にして怒鳴る様が簡単に想像できた。
じわじわと砦へと接近していく、北軍と南軍。
魏軍も涼軍の接近は察しているはずだが、砦には何の動きもない。
「そろそろ、頭に血の登ったヤツが飛び出してきてもおかしくないのだが……」
砦をにらみつつ、吾玄がつぶやく。
さらに接近し、連弩の射程内に入った。
しかし、矢一本飛んでこない。
「蔡瑚」
「はっ」
「いくらなんでも、これはおかしい」
「はい。殿、あるいはこれは……」
「……おぬしもそう思うか?」
「すぐに斥候を出します」
「そうしろ……急げ!」
斥候に選ばれたのは、例の三人組だった。
兵A「何で俺たちが行くんだよぅ」
兵B「せっかく進路を見つけ出したってのに……恩賞もらう前に死ねってのか」
兵C「斥候だー斥候だー」
兵A「なんでおまえはそんなに元気なんだ?」
兵B「たった三人で砦に近づくなんて……死にに行くようなもんだぞ」
兵C「目立ってるー目立ってるー」
兵A、B「あ、納得」
しかし、砦まで十歩の所まで来ても、三人組に矢が降り注ぐことはなかった。
兵A「おい、どうなってんだよ一体?」
兵B「まさかとは思うが、俺たちを使者か何かと勘違いしているとか?」
兵C「たのもぉーたのもぉー」
兵A、B「いや、違うだろ」
トンチンカンな会話をしている内に、三人はいつの間にか砦の中に入っている自分たちに気付いた。
慌てて槍を構える三人組。
そしてその態勢のまま、たなびく秋風を感じていた。
「敵はいない?! 一兵もか?!」
砦が見えて以来、「あるいは」と感じていた想像が現実のものとなり、吾玄は顔を朱に染めた。
「夏侯惇!……おのれ、謀ったか!」
大雨による行軍の遅延は、吾玄の神経を苛立たせた。
そして、ようやく戦闘になると思われたところで受けた“うっちゃり”。
何もかも自分の思い通りにいかない不条理さに、吾玄は「切れた」。
散々悪路に悩まされ、ようやく戦場に到着したものの、敵は砦にいなかった。
いきり立つ将がいる一方で、拍子抜けして緊張感が切れてしまった将もいる。
前者が吾玄、後者が袁奉だった。
「これはまた……夏侯惇も思い切ったことを……」
涼兵だけが右往左往する砦の中を見渡し、袁奉は呆然とした。
夏侯惇は最初から砦を捨て、城門前で涼軍を迎え撃つ腹積もりだったのだ。
大雨で進軍が遅れ、異様な砦の雰囲気のため、接敵にも時間を労した。貴重な時間の多くが、その過程で無駄になった。
だが、まだ戦闘は始まらない。抹陵城へたどり着くには、もうひとつ山を越えなければならない。
(またあの悪路を行くのか……)
ウンザリした気分になる。
とにかく、この砦には何の価値もない。
再び南軍をまとめ、行軍を再開しなければならない。
ため息を吐きながら周囲を見回した袁奉は、ここで壁の一隅に黒く大書された文字に気付いた。
「なんだ?」
いぶかし気に壁に近寄った袁奉は、その文面を確認するに至り、目を剥いた。
――賊の大将吾四則。抹陵にて死す
吾玄は、この落書きを見たのだろうか?
もし、見てしまったのなら……。
水兵隊長が駆け寄ってきたのは、袁奉がいやな予感にさいなまれていた時だった。
「と、殿っ!」
叫ぶ水兵隊長の目は、大きく開かれていた。
「吾玄隊、それに厳顔隊! あと呉蘭隊も!……東進していきます!……すごい勢いで!」
「な、なに……?」
袁奉は急いで馬に乗ると、周囲がよく見える位置まで走らせた。
砦の東側に回った袁奉は、そこでうめき声を上げた。
第二軍の中で、何かと熱くなりやすい将軍たちの率いる部隊が、秩序だった動きとはまるで無関係に突っ走っていく。
落ちた戦意を上げることに躍起になっていた張任らは、それを呆然として見送るだけだ。
「いかん! 全軍に命令!」
慌てて袁奉は叫んだ。
「急ぎ東進せよ! このままでは、各個に撃破される……東進だ! 急げ!」