郭図公則、叛す〜その三〜





━━許昌近くの平原
俸仕は、細作だ。
所属は、希代之細作団。
任務は、洛陽太守の動向調査。
潜伏地は、洛陽。
そして今、馬丁の厩舎から盗み出した馬を叱咤しつつ、許昌へ向けて全力で駆けている。
速駆けに向きそうな馬ではなく、見るからに頑丈な馬を選択した自分を、俸仕は誉めてやりたい気分だった。
間もなく、許昌。
馬は荒い息をつきつつも、何とか走り続けている。
かなり無理な乗り方を続けてきたにもかかわらず、とりあえず許昌までは持ってくれそうだった。
「おまえ、本当に頑丈な奴だな」
心に余裕ができてきた俸仕は、馬に声をかけた。
「速いってのも名馬の条件なんだろうが、丈夫なことだって十分に大切なことさ。その意味じゃ、おまえだって名馬と呼ばれていい……そうだ、おまえに名をつけてやろう。心地飛龍、ってのはどうだい?」
馬は俸仕の呼びかけには一切応えず、黙々と許昌へと走り続けている。



━━許昌。軍師府
規模において郭図公則の細作団に劣るとはいえ、細作一人一人の質については、決して負けていない。
それが涼筆頭軍師にして漢鎮軍将軍・希代之の、自分の細作団に対する評価であり、そしてその評価は、正しかった。
帝都で突如起こった、郭図公則の叛乱。
洛陽の出入り口が速やかに封鎖されたことを考えるなら、叛乱の一報を携えた希代之の細作が洛陽からの脱出に成功したのは、奇跡に近い僥倖であるとともに、希代之細作団の細作の質の高さを示すものだった。
希代之の前に控えた細作――俸仕――は、緊張による固い声で告げた。
「洛陽太守・郭図公則、涼王に対し叛す」
「洛陽全域に戒厳令発令」
「涼王居邸を洛陽守備軍が制圧」
俸仕の報告は、その三点に集約されていたが、洛陽守備軍の兵が町費や公孫讚の邸宅にも突入したらしい、という情報もあった。
「守備軍の兵が、そう話しているところを耳に致しました」
土や埃で汚れた俸仕は、申し訳なさそうに言った。
「しかし、洛陽脱出を優先したため、確認には至っておりませぬ。」
もちろん希代之は、俸仕を叱責することはなかった。
俸仕が許昌に到着したのは、洛陽に戒厳令が発令されてから、わずか四日後のこと。
おそらく他のどの都市も、洛陽変事の事実を掴んでいないはずであり、その意味からも俸仕の働きは、おおいに称えるべきものだった。
ただ、肝心の情報が二つ、抜けていた。
呂砲の消息と、この叛乱に対する朝廷の反応だ。
聞き方を変えながら、何度も希代之はその二点に関する兆候がなかったかを問いただしたが、俸仕は申し訳なさそうに首を振るだけだった。
この段階で得られる全ての情報を把握したところで、希代之は共に報告を聞いていた腹心たちに、「解散」を命じた。
「一刻だけ、全員頭を冷やそう。混乱したまま出す方針は、後々破綻を招く」
希代之の言葉に、部下たちも頷いた。
正直なところ、全員が途方にくれていた。


希代之の部下たち――主席副官の伏幹、護衛隊長の呉嬰、長安軍師・郭嘉の元から参謀として出向中の翻武――は、別室に入った瞬間、ほぼ同時に大きな溜め息をついた。
余りに予想外にして、余りに急激な展開。
暫く、誰も口を開かない。
筆頭軍師の“懐刀”たちにも、気持ちを落ち着ける時間は確かに必要だった。
「それがしの責任だ」
そんな中、呉嬰がポツリとつぶやいた。
「洛陽に細作を送っていたというのに、叛乱の兆候すら掴めていなかった……それがしがもっと、洛陽太守の近辺に注意を払っていたなら、未然に阻止できたかもしれぬのに……」
洛陽には俸仕を含め、希代之の細作八人が送り込まれていた。
呉嬰は、その細作たちの総元締めの立場にある。
「そう自分を責めるなよ。あの洛陽太守のことだ。そう簡単に尻尾を見せるようなことはしないさ」
慰めるように、伏幹が言った。
叛乱の兆候を一切掴んでいなかったことは、確かに失態に属するもの、とは伏幹も思う。
だが、敵地でない都市にそれだけの細作を派遣していたこと自体が、呉嬰が郭図公則への警戒を怠っていなかった証左だし、そのおかげでこうして郭図公則の叛乱の情報をいち早く掴むことができたのだ。
そもそも、郭図公則が呂砲に対する叛乱の挙に出るなど、想定外にも程がある。
「それに、今は責任問題を論ずる時ではない」
伏幹は口調を強くした。
「帝都における叛乱という、極めて深刻な事態にどう対応するか。それを検討するのが先だ。その形がついてから、責任問題については殿の御判断を仰ごうじゃないか」
「君は、嫌になるほど合理的だな」
呉嬰は泣きそうな顔をしていた。
「正直な話、それがしは今すぐにでも、自分の首を刎ね飛ばしたい気分だ」
「君と私が自刎すれば、洛陽がどうにかなるというものでもないだろう? 殿がおっしゃるように、まずは落ち着こう。洛陽に残っている細作とどのようにして連絡を取るか、細作を増派するかどうか、増派するなら今、どれぐらいの人数を送れるのか。そういった質問に答えられるのは、君だけだよ」
本人は気づいていなかったが、実はこの時、伏幹は救われた立場にあった。
呉嬰を慰めることに懸命だった伏幹は、少なくともこの時点では、「これから一体どうなるのだ」という、やもすれば自分を押し潰しそうになる不安から解放されていたのだから。
一方、伏幹が呉嬰を元気付けている間、翻武は一切言葉を発しなかった。
意識して抑えていたわけではない。
何も言うことができなかった。


洛陽太守、謀叛。
もちろんそれは、翻武にとっても衝撃的な出来事だった。
だが、今の翻武には、それ以上に重大な関心事がある。
翻武の主君にして、長安軍師・郭嘉のことだ。
翻武は元々、魏の謀臣・郭嘉の参謀として、魏の禄を食んでいた者。
戦闘で涼の虜囚となった郭嘉が涼への帰順を決意した時、主君を信じてそれに従ったという経緯もあり、胸に抱く忠義は涼でも漢でもなく、郭嘉個人へと向けられている。
希代之の元に「出向」という形で派遣されてからも、ただひたすら、「郭嘉のため」の一念で働いてきた。
しかし、去年、翻武を巡る環境に変化が生じた。
希代之の副官・伏幹の意を受けて長安に戻った翻武は、そこで意外な人物と出会った。
すなわち、洛陽太守・郭図公則。
なぜ洛陽太守がここに、という驚きは、その直後に主君の口から告げられた任務で、簡単に吹き飛んだ。
目を爛々と輝かせた郭嘉は、第一軍に関する情報を郭図公則にも送るよう、翻武に命じたのだ。
この時から翻武は、郭嘉のみならず、郭図公則の“草”として、涼筆頭軍師府に潜伏することとなった。
そんな経緯を経てきた翻武が、「この叛乱に郭嘉も関わっている」という結論にたどり着かないわけがなかった。
一瞬だけ翻武は、このことを伏幹たちに伝えようか、とも思った。
希代之陣営に出向して一年余り、希代之の高潔で公平な人柄は、郭嘉とはまた違った魅力として翻武の目にも映るようになっていた。
また、“草”として筆頭軍師府に出入りしているとはいえ、伏幹や呉嬰に“仲間”としての感覚が芽生えていることも確かだった。
だが、翻武はそんな思いを寸でのところで封じ込めた。
自分は、郭嘉と約束していたではないか。
郭嘉の命令とあらば、何でも従う、と。
郭嘉が郭図公則に協力するにあたって、表に出るのか、裏方に徹するのかまではわからなかったが、郭嘉が“謀反人”の道を選んだのなら、それに従うのが自分の使命。
「洛陽太守の息のかかった者が御辺に近づいてこよう」
長安で郭嘉は、こう翻武に伝えていた。
「その者にも情報を渡し、かつ指示を受けるように」
翻武は、椅子の背もたれにさりげなく手を置き、体を支えた。
郭嘉が希代之の暗殺を命じてきたなら、自分は万難を排してその命令に応じなければならない立場にある。
その命令の主体が、郭図公則であっても、拒むことはできない。
(自分もまた、謀反人なのだ)
そんな思いが、翻武の顔を青白くさせ、鼓動を速めていた。
伏幹が呉嬰を慰めるのに手一杯だったことは、翻武にとっても幸運だった。


腹心たちが退出し、一人執務室に残った希代之は、天井の一点を見据えたまま、無言の時間を過ごした。
希代之は涼の筆頭軍師。
一方の郭図公則は、洛陽太守に就任する前は、副軍師の職にあった。
性格や物事の捉え方、他者との接し方はまったくの正反対ながら、知力同等と評された二人は、周囲からライバル関係にあると見做されていた。
積極的ではないにせよ、希代之もまた、そんな関係を否定することはなかった。
むしろ本音のところでは、郭図公則を意識していたと言ってもいい。
何か事が起こり、軍師としての力量が試される時、希代之は常に、「郭図公則ならどうするか」、「郭図公則ならどう考えるか」と思量し、その上で策を巡らすのが常だった。
同時に希代之は、「警戒すべき相手」として郭図公則を見ていた。
郭図公則は基本的に、他の七同志と同調することはなかったが、呂砲に対しては、その冷たい口調で接しつつも、まずは文句の付けようのない忠臣だった。
それでも、第二軍に対する工作や、江夏太守だった故・呉巨への策謀など、郭図公則の暗躍を察知していた希代之には、郭図公則はやはり、嫌疑の目で見るべき対象だった。
希代之はこれら郭図公則の策謀の動機を、七同志内における地位突出を狙ったのもの、と推測していた。
他の七同志間の対立を煽ってその地位を下げ、相対的に自分の地位を上げて、涼における自分の力を確保することを目指した、陰湿な謀略。
唾棄すべき策謀だが、郭図公則の普段の態度などから見る限り、その推測はさほど的を外したものとも思えなかった。
だが、違った。
郭図公則、叛す。
少なくともあの男は、呂砲の謀臣として権力を握ることなど、毛ほども考えてはいなかったらしい。


細作の報告を受けた時、最初に希代之が思ったのは、突発的事態が洛陽で発生したのではないか、ということだった。
何らかのすれ違い、あるいは不始末によって、呂砲の怒りを買った郭図公則が、自分の身を守るため、急遽叛乱の挙に出た――そういう見立てだ。
呂砲に対する郭図公則の忠勤振りを知っていた希代之には、郭図公則が叛乱に至る動機として、それぐらいしか思い浮かばなかった。
だが、すぐに打ち消す。
許昌へ戻ってきた細作は、洛陽の四門が完全に封鎖されていた、と話した。
突発的な叛乱ならば、いくら郭図公則とはいえ、そこまで用意周到にできるものではない。
それに、洛陽守備軍の兵たちは、町費や公孫讚の居邸にも突入したらしいというではないか。
正当防衛を理由とする叛乱なら、郭図公則が町費らを積極的に狙う理由も余り見出せない。
やはり、事前に練り上げられた叛乱劇と考えるのが自然だ。
ならば、この叛乱の目的は何なのか。
腕を組んだ希代之は、暫し瞑想するように目を閉じ、やがて首を振った。
駄目だ。
情報が少なすぎて、皆目見当がつかない。
叛乱の動機・目的の推測は、今はやめておいた方がいい、と希代之は思った。
こんな状況で相手の心理を読むなど、もはや「推測」と呼べるものではなく、単なる「妄想」に過ぎない。
確かに洛陽の叛乱は、余りに衝撃的な出来事だ。
そして、もし呂砲が既に鬼籍に入っているのなら、この騒動は洛陽一都市のみに収まらず、中華全域に波及するだろう。
それでも希代之は、落ち着かなければならなかった。
大変事であればあるほど、“軍師”としての力量が試される。
郭図公則の叛乱を基点に発生するであろう激流。
これに呑み込まれないためにも、希代之には落ち着くための時間が必要だった。


しばらく時を置いてから、希代之は腹心たちを執務室に呼び戻した。
そして、細作の総元締めたる呉嬰に尋ねる。
「すぐに出せる細作の数は?」
「最大で三十人です」
人数については即答したものの、続く呉嬰の声は、歯切れが悪かった。
「ただ、この中には他方面に送る交代要員が含まれております。その数、二十人」
その回答に、希代之は喉の奥で呻き、宙を睨んだ。
敵方に忍び込んで活動する細作は、相手方に顔を知られたが最後、すぐ消される運命にある。
仮に、その場を脱出できたとしても、その容貌は広く手配され、細作としての活動は不可能となる。
活動期間が長引けば長引くほど、そのような危険性は高まり、そして、細作が失われる機会も増える。
このような事態を避ける手段として、希代之はこれまで、特定の任地で一定期間活動した細作は他の細作と交代させ、また別の任地に派遣させる、という手法を取っていた。
それは、活動の継続性という点においては確かに非効率ながら、一人の細作を長期間に渡って使える、という利点を有していた。
細作の数において、郭図公則細作団より劣勢にあるが故の、涙ぐましい運営方針とも言えた。
「最優先とすべきは、殿下の救出だ。交代は先延ばしとし、三十人全員を洛陽へ潜入させる」
希代之はあっさりと、これまで堅持してきたその方針の一時停止を宣言した。
冷静に考えるなら、何事にも周到な郭図公則が、呂砲を取り逃がすような事態は想像しにくい。
だが、呂砲の死が確定されていない以上、すぐにでも呂砲救出の段取りを講じなければならない。
呂砲が今、生きていたとしても、対応が遅れている間に郭図公則の虜にでもなったら、それこそ目も当てられない。
「呉嬰。おぬしはこの救出部隊の指揮官として、洛陽に入れ。そして、何としても殿下を救出せよ。合わせて、町費と公孫讚の消息確認。無論、それ以外のあらゆる情報収集もな」
希代之の命令に、呉嬰は緊張した表情のまま、神妙に頭を垂れた。
細作の取り纏め役自らが、細作として敵地に入る。
本来ならありえない任務だが、呉嬰は元々、細作として抜きん出た才能を発揮してきた男だ。
呂砲救出という極めて困難な任務を遂行するに、呉嬰以上の適役者はいない。
そうでなくても、情報がなければ、あらゆる対応が後手に回る。
希代之がその知力を存分に発揮するためにも、呉嬰にはもはや、失態は許されない。
「そして、軍を編成し、洛陽に送る。その目的の第一は、細作団がつつがなく洛陽に潜入するための陽動だ。そして、殿下救出が成功した暁には、殿下を護衛しつつ、許昌へ帰還させる」
「護衛軍の指揮は何方に委ねられるお考えで?」
伏幹が問うと、これにも希代之はすぐに、「関平」と答えた。
呂砲救出の実行部隊たる細作だけでなく、護衛軍もまた、神速で洛陽に到着しなければならない。
さもなくば、細作団潜入の陽動役は果たせない。
関平は皇帝の還行に際し、許昌の皇宮に据えられていた備品を洛陽へ搬送する任務に従事していた。
一度洛陽への行程を進んだことで、地理にも明るくなっているから、洛陽にも速やかに到達できるはずだった。
何より、関平なら将としての資質にも問題はない。


郭図公則叛乱の報が中華に広まれば、激震は如何ともしがたいにせよ、それでも、呂砲の救出に成功したなら、混乱は最低限の範囲で収まる。
旺盛なる野望を抱き、この叛乱に乗じる者も出るかもしれないが、盟主が生きているとわかれば、その数がさほど増えるとは考えにくいからであり、むしろ、他の大勢の太守らは、これまで通り呂砲を盟主として仰ぎ続ければいい、と安堵することだろう。
環境の変化を望む者と、望まぬ者。
どちらがより多いかといえば、一般的には後者だ。
これらの太守らは、自分の立場を明確にするために、そしてこれまでの“環境”を守るために、造反太守らと対峙することだろう。
このような涼内の状況に対処し、同時に魏や呉の出方を牽制した上で、郭図公則を叩き潰せばいい。
これまで順調に進んでいた涼の戦乱平定が、大きく遅れることは避けられないが、致命的なものとはならない――それが希代之の見立てだった。
だが、呂砲が死んでいた場合、事は一気に複雑化する。
事ここに至って初めて痛感するが、何だかんだ言っても、呂砲は涼の“要”だった。
軍事、政治、いずれにおいてもさしたる能力を有せぬとはいえ、挙兵以来の総大将たる呂砲は、一癖も二癖もある七同志や、戦闘を経て配下に加わった将たちが同じ旗印を仰ぐ上での、象徴的存在だった。
その“要”が外れたとなれば、涼は確実に分裂する。
呂砲は元々、朝廷に連なる者でも、名のある名士でもない。
そんな男でも、きっかけさえ掴めたなら、大兵を擁することもできるし、王の位にまで上りつめることだってできる。
そのような“お手本”を見てきた者たちを――特に野心盛んなる者たちを――、要を失った従来の枠組みで縛り続けることなど不可能だ。
また、七同志たちがどのように動くか、という問題もある。
涼では、盟主たる呂砲に次ぐ者、「七同志」として、希代之、吾玄、馬参、町費、廖衛、袁奉、そして今回叛乱の挙に出た郭図公則の七人が、軍内に大きな影響力を持っている。
この七同志の間に、序列はない。
強いて言うなら、最年長の馬参が人格・経験ともに頭ひとつ抜け出している感があるが、明確に定められたものではない。
郭図公則が叛乱を起こして涼から離脱し、町費は洛陽にて消息不明という状況で、残る馬参、吾玄、廖衛、袁奉、そして希代之自身が、どのような身の振り方を決するか――それが問題だと希代之は思っていた。
それぞれの決断如何によって、新しい中華の勢力図を塗り替える上での方向性はいくらでも変わりうるが、その方向性の中で希代之が堅持すべきは、やはり「漢朝の復興」だ。
つまり、呂砲の“後継者”となる者が、涼の国是たるそれをどのように扱うか、ということが肝要となる。
たとえば、廖衛が呂砲の後継者として軍を率いることになったとしたら、それは希代之にとっての悪夢だ。
気のいい男とはいえ、廖衛は朝廷を忌避すること甚だしい。
“裏切り者”郭図公則の抹殺を果たした後は、11年に渡って呂砲軍の背骨だった「漢朝復興」の理念をあっさりと捨て、兵たちを漢朝廃絶の戦いへ駆り立てていくだろうから、希代之としては、とても廖衛を呂砲の後継者として推すことはできない。
年齢、人格、経験から最適任者といえる馬参にしても、積極的に支持することは難しい。
馬参は廖衛のように、漢朝への敵意を示すことはないものの、さりとて積極的に朝廷への忠義を示したこともない。
それに馬参には、帝都に火を放ったという過去がある。
もちろん、当時一校尉だった馬参に、董卓の命令を拒めるわけがなかったという事情は、希代之も承知しているし、その事実でもって、馬参を「反漢朝派」と断ずるつもりは毛頭ない。
そうでなければ、国庫から10万もの金を朝廷に献上し、馬参の助命を図るようなことはしない。
ただ朝廷には、洛陽焼き討ちの咎でもって、馬参の処刑を呂砲に要求した、という経緯がある。
その事実が、馬参の心情にどのような影響を及ぼしているのかが、希代之には読めなかった。
そんな中で、新たに勢力の長となった馬参が朝廷の復興を志向したとしても、それはせいぜい、“旧主”呂砲への義理立て程度の理由に過ぎないのではないか――。
それが馬参を擁立した場合の、希代之の懸念だ。
見切り発車的に馬参を擁立した結果、馬参が朝廷の廃絶に動いたりしたら、希代之はそれを食い止める自信がなかった。
残る吾玄と袁奉についても、難しい。
この二人がいる場所は、揚州・抹稜。
漢朝への忠義以前の問題として、洛陽から離れすぎていて、この叛乱への迅速な対応は不可能だった。
仮に、大急ぎで取って返してきたとしても、その頃には中原の様相も、ほぼ固定化していて、つけ入る隙を見出せるかどうか、甚だ疑問だし、何よりこの二人は、郭図公則の策略によって深刻な不和関係にある。
これが解消されない以上、とても呂砲の後継者云々を語れる状況にない。
一人で執務室に残っている間、希代之はそれぞれの候補者の名を挙げ、それぞれの事情・状況に想いを巡らし、そしてそれぞれの名を消していった。
愕然としたのは、吾玄と袁奉の名を消し、次なる候補者の名を探し当てた時だった。
「希代英傑」
自分しか残っていなかった。


そのことに気付いた時の衝動を内に隠し、希代之は腹心たちに言った。
「もし、殿下身罷りしことが確認された場合、関平はすぐ許昌へ帰還させ、状況の推移を見守る」、と。
許昌は、曹魏の三都市と隣接する位置にある。
曹操にしてみれば、許昌は何としても奪い返したいかつての魏都であり、洛陽の叛乱は正にその好機と映ることだろう。
にもかかわらず、許昌を守る兵力は、関平の部隊を含めても、7万に届かない。
「守りを固めなければならん。そして、状況の推移を見極めることになるな」
そう告げた希代之は、頷きつつも、やや腑に落ちない目をしている伏幹を見ないようにした。
呂砲救出のための細作や軍を出すまではいいとして、呂砲の死が確認されたら守りに入るとは、消極的なのではないか。
主君が慎重な人となりであることは承知しつつも、これだけ深刻な事態において、希代之ともあろう者が能動的な手を最初から放棄していることに、この優秀な副官は違和感を抱いているらしい。
(伏幹には、後で伝えておくか)
希代之は思った。
確かに消極的かもしれないが、今のところはこうするほか、希代之には手がない。
自他共に認める呂砲の後継者がいたのなら、その者を補佐すべく、全力を上げればいいだけのことだったが、現実は違う。
漢朝復興という旗頭を堅持できる七同志が、自分以外にいないという現実が、希代之を慎重にしていた。
長きに渡り、軍師として呂砲を裏から支えてきた希代之には、勢力の長になりたいなどという願望はなかったし、想定したこともなかった。
むしろ、呂砲亡き後の涼でも漢朝復興の理念を堅持するに、適当な七同志がいないなら――そして、自分が君主となるくらいなら――、新野に駐屯している関羽を担ぎ出した方がいいとすら思った。
かといって、それら可能性を、この場で口にすることはできなかった。
ここには、翻武もいるからだ。


業β攻めにおける策の上程など、この男装の麗人が持つ立案能力には、希代之も一目を置いている。
勤務振りも熱心であり、さすがは郭嘉の参謀と唸ることもしばしばだった。
しかし、あくまでも翻武の立場は、「筆頭軍師府に出向している、長安軍師の部下」だ。
翻武にとって何よりも重視すべきは、郭嘉の意向に沿うことであり、希代之に忠義を向けるとしたら、それは「郭嘉の次」、かつ「可能ならば」という次元に過ぎない。
洛陽の叛乱に郭嘉がどのような判断を示すのかもわからない今、全幅の信頼を寄せるわけにはいかないし、ましてや自分が自立する可能性を口にすることなど、絶対にできない。
そんな“想定のひとつ”が郭嘉に伝わったが最後、どのような尾ひれがついて中華全土に広まってしまうか、わかったものではない。
「筆頭軍師は洛陽の叛乱に乗じて、自らの挙兵を画策している」
「筆頭軍師は関羽を傀儡とし、意のままに強権を振りかざそうとしている」
そんなデマに耐えられるほど、希代之の神経は太くはないし、それ以上にそんな噂が広まったら、まとまる策もまとまらなくなる。
だから希代之は、翻武がいるこの場で、自分の存念をぶちまけるつもりはなかった。
そうであるがゆえの消極的発言でもあったわけだが、そのことを理解しているのかしていないのか、一同が口を閉じたところを見計らって、この叛乱の核心部分に触れたのは、翻武だった。
「皇上は現在、洛陽に鎮座いたしております」
そう語る翻武の表情は、硬い。
「洛陽太守なら、当然朝廷への工作も謀った上で、この挙に出ているものと推察されますが、朝廷が洛陽守備軍を官軍と認定する事態となったなら、筆頭軍師様は如何なさるお考えでしょうか?」
これに対し、希代之は即答を控え、人差し指で額をなぞった。
翻武に指摘されるまでもなく、「郭図公則、叛す」の報に接した時から、希代之はその問題を極めて重要なものとして認識していた。
呂砲を主君と仰ぐ涼軍から見れば、呂砲を殺した郭図公則は、間違いなく仇敵だ。
そんな仇敵を、朝廷が官軍と認定してしまったら、どのように対応すべきなのか――。
希代之のみならず、許昌に残る第一軍にとっても、そしてそれ以外の都市の太守たちにとっても、それは自分達の未来を決する大きな分岐点となる。
簡単に朝廷を無視するわけにもいかない。
涼は当初から「漢朝復興」の旗印を掲げてきた、という経緯もあるし、そうでなくても皇帝の威光を軽んじることは、負の影響の方が大きい。
「賊軍」認定は、周り中が敵だらけになることと、ほぼ同義だ。
そのような事態を覚悟してまでも、郭図公則討伐に力を注ぐのか。
それとも、敬愛すべき皇帝の意向に従い、主君を殺した仇敵と轡を並べるのか。
翻武の懸念通りに事が進んだなら、希代之たちはそんな難しい選択に直面することになる。
三十近い涼の都市には、同数の太守がいて、そしてそれに数倍する数の官や将がいる。
二者択一を迫られた彼らを、ひとつの方向にまとめる。
そんなことが可能と断じるほど、希代之は自分の能力に自惚れてはいない。
一方、洛陽一都市からの始まりとなる郭図公則は、全員を味方に付けることなど、最初から考えもしないだろう。
皇帝の意向――おそらく、勅書が出されるはずだ――を錦の御旗に、“謀叛人”たる自分の敵を減らし、味方を増やすことができれば、それで十分なのだから。


希代之は、溜め息をついた。
何故、郭図公則がこのような暴挙に出たのか、それは希代之にもわからない。
だが、郭図公則がこの時期を叛乱のタイミングとして選んだ理由は、よくわかる。
郭図公則は、呂砲が洛陽入りする時を、そして皇帝が還行する時を待っていたのだ。
二年に渡って統治してきた、自分の“庭”とも言うべき洛陽内なら、呂砲の身柄を押さえることは容易い。
そして、自分の息がかかる洛陽内なら、朝廷への工作も簡単にできる。
呂砲と皇帝、この二人の身柄を同時に確保することで、郭図公則はこの叛乱を、単なる一都市の騒動では収まらない規模に拡大するとともに、自身に向けられる討伐軍の兵数を減ずることすらできるのだ。
郭図公則とは犬猿の仲と称される希代之ですら、自身の最大の信条たる勤皇の志に縛られ、軽々しく郭図公則討伐を口にできないことが、その何よりの証明だ。
(恐ろしく悪知恵の回るもの…………)
苦虫を噛み潰すような思いで、希代之は政敵の顔を思い浮かべた。
常に無表情で、同僚とも一線を画し、何を考えているのかまったくわからなかったあの男。
一体何が、あの男をこのような叛乱へと走らせたのか。
今はそんなことを考えている場合でないことは承知しつつも、それに想いを巡らせぬわけにはいかなかった。
「翻武の問いは、極めて重要な問題であり、かつ答えを出すことの極めて難しい問題でもある」
現実の方へと意識を呼び戻し、十分に頭の中を整理してから、希代之は言った。
「しかし、事態は余りに流動的であり、情報も限られている。そのような中で、早急な結論は避けるべきだろう。この件は、暫く私に預からせよ」
「結論は別として、方針は決めておいた方がよろしいのではございませんか?」
希代之の答えに満足しないように、翻武は食い下がる。
「朝廷が洛陽太守を支持した場合と、支持しなかった場合。それぞれの方針を決めておけば、いざという時の対処も早くなるものと存じます」
一見、突っかかるような翻武の態度。
彼女の性格を知っている伏幹が、希代之との間に割って入ろうとしたが、希代之はそれを制し、逆に尋ねた。
「おぬしなら、それぞれどのように対応すべきと考える?」
そう尋ねたのは、希代之が翻武の意見を「是」と捉えたからではなかった。
筆頭軍師職は、決してお飾りの名誉職などではない。
他者にない見識や判断力、分析力、そして嗅覚がなければ、絶対に勤まらない。
その嗅覚が、働いた。
翻武の態度からかすかに垣間見える、違和感として。
すなわち、「なぜこの女は、結論を急ごうとするのか」という違和感だ。
「はっ。それでは参考までにお聞きくださいませ」
希代之の疑念に気付く理由もない翻武は、姿勢を正して自説を述べた。
「もし朝廷が、洛陽太守を公認しなかったのなら、事は単純です。涼王殿下の敵討ちと称して…………ええ、もちろんまだ、殿下の死が確認されたわけではございませんが、とにかく涼内の意志を洛陽太守討伐へと早期にまとめ、皇上救出の名目も合わせ、軍を発するべきでしょう」
一気に喋る翻武を、希代之は穏やかな目で見つめた。
だが、その内心は決して穏やかではなかった。
一度嗅覚が働くと、色々なことに引っかかりをを感じるようになる。
明らかに緊張している、翻武の声色。
事態の重要性ゆえの、あるいは筆頭軍師に上程しているがゆえの緊張と取ることも可能だが、希代之は翻武の声質の理由をそのいずれにも認めなかった。
「しかし、官軍と認定された洛陽守備軍と戦闘を交えるようなことにでもなったら、筆頭軍師様は賊軍となってしまいます。その危険を回避するためにも、もし朝廷が洛陽太守を認める事態となったなら、関平将軍には使者として洛陽入りさせ、許昌の第一軍が朝廷に忠誠を誓うことを告げさせるべき、と存じます」
「おぬし、正気か?!」
堪りかねたように絶叫したのは、呉嬰だった。
「洛陽太守は、大恩ある涼王殿下を排する暴挙に出た謀叛人だぞ? おぬし、殿に謀叛人の幕下に降れと申すか?! そうでなくても、我らと洛陽太守の間に誼はない! いや、誼があったとしても、このような陰謀に加われるものか!」
「洛陽太守が謀叛人かどうか、それを決めるのは私たちではありません。朝廷です」
呉嬰を横目で見やりながら、翻武は言った。
「それに、皇上の勅が出される事態となれば、もはやそれを拒めぬことはわかりきっているはず。貴殿は勤皇の士として高名なる筆頭軍師様に、逆臣の汚名を着せるおつもりですか?」
「な……何をぉっ! 貴様、言うに事欠いて!」
「両名ともやめよ!」
とことん攻撃的な翻武と、今にも殴りかかりそうな呉嬰を制したのは、伏幹だった。
その目には、怒りの色が浮かんでいる。
「帝都にて大事が発生しているこの時、味方同士で罵り合ってどうする?! 二人とも少し頭を冷やせ!」
怒鳴られた二人はともに不満そうな表情だったが、普段怒声を発しない伏幹に押される形で、とりあえず口を閉じた。


押し黙った翻武は、そっと目を伏せた。
呉嬰の怒りが尤もであることは、十分に自覚している。
希代之と郭図公則のこれまでの軋轢を考えるなら、「郭図公則に降る」など問題外。
ましてや、そう献策した翻武自身もまた、郭図公則を嫌っているとなれば、呉嬰の怒りも自分のことのようによくわかる。
にもかかわらず、翻武は希代之とその腹心たちに、楔を打ち込まなければならなかった。
翻武の主君・郭嘉は、郭図公則と同盟関係にある。
すなわち、許昌の第一軍が洛陽の傘下に収まることは、この叛乱の成功と、この叛乱に同調している郭嘉の栄達にも繋がるのだ。
ならば翻武は、自分の好悪の感情を殺してでも、事態が郭図公則陣営に有利な方向へと動くよう、画策しなければならない。
それが、これまで“同僚”として接してきた伏幹や呉嬰を欺き、“上司”として敬愛の念を持ちつつある希代之を失墜させる結果になろうとも。


二人を黙らせた伏幹に視線で頷いた希代之は、宥めるように言った。
「翻武の申すことは、理としてわかる。しかし、呉嬰の申すことも然り。よって、もう一度言っておく。この件は暫く、私に預からせよ」
「暫くとは、如何ほどのこととなりましょうか?」
いったんは引き下がったかに見えた翻武だったが、それはあくまでも、見えた“だけ”。
追求とも取れる翻武の態度に、さすがに伏幹が目を吊り上げた。
「翻武! いい加減にしないか!」
珍しく怒鳴り声を上げる伏幹は、同時に呆れてもいた。
伏幹は以前、翻武とともに洛陽へ行き、大史農の公孫師と会談したことがある。
大史農職は、三公に次ぐ九卿の一。
にもかかわらず、この時も翻武は、公孫師に対してとことん攻撃的だった。
「少しは言葉を控えることも覚えろ! 慎重に慎重を期して扱うべき問題に、そう簡単に期限など付けられるものか!」
相手の位に関係なく、直言でもって相対する翻武の気骨は、確かに評価すべきものなのだろう。
ただ、それも時と場合によるはず。
しかし、怒鳴られた翻武は、今度は怯まなかった。
副官殿こそ、現状を把握しておられるのですか?!」
翻武は体の向きを変え、その矛先を伏幹に向けた。
「仮に勅が出たとして、その際の取るべき方針が定まっていなければ、混乱するのは現場の者たちなのですよ! 方針を聞かされぬまま滞陣した関平将軍が、洛陽守備軍と戦端を開いてしまったらどうなるのか、少しでもお考えになりましたか?! その一件でもって、筆頭軍師様が逆臣扱いされる可能性、貴殿ほどの御仁でもお考え及びませぬか!」
素早く、そして鋭く切り返され、伏幹は言葉に詰まった。
それは、翻武の勢いに押されたからではない。
翻武の指摘が至極正論であることを、伏幹も認めざるを得なかったからだった。
(今、上司の心情に配慮したがために、後の災禍を回避する術を失ったらどうするのか)
言外に込められたそんな翻武の叫びは、伏幹にも察せられた。
伏幹らの知るところではなかったが、翻武は主君たる郭嘉にすら強い口調で相対する女であり、その点において、伏幹や呉嬰らの遥か上を行っている。
伏幹は、結論先延ばしという希代之の判断を受け入れることで、繊細な主君に配慮したつもりだったが、家臣としてそのような対応は、その場しのぎに過ぎなかったり、あるいは主君を甘やかせたり、阿るだけのものなのではないか?
上司に“甘い”部下であることは、決して上司のためにならず、そして忠義の表れともならないのではないか?
伏幹は言い返すことはせず、腕を組んで唸り声を上げた。
物言いのあり方で頭に血が昇った結果、頷くべき指摘に逆上することは、この男の好しとするところではなかった。
伏幹が言いくるめられるところを見られるとは思わなかった」
黙り込んでしまった伏幹に助け舟を出したのは、希代之だった。
「まあそれも、翻武の指摘がもっともなものだからだな。私も、目から鱗が落ちた思いがする」
「恐れ入ります」
意識的に朗らかな口調の希代之に、翻武は頭を下げた。
しかし、その目には、依然として“好戦”的な色が浮かんでいる。
翻武が再度口火を切る前に、素早く希代之は存念を告げた。
「勅が出た場合の対応については、関平には特に申し付けておこう。洛陽守備軍との交戦は禁ずる、と。関平の軍は、我が細作が洛陽にへ入るにあたり、郭図公則の目を引き付けておくための囮だ。そもそも、洛陽守備軍と戦えるだけの兵を与えることもできぬし、関平なら郭図公則が軍を出してきたとしても、速やかに後退するぐらいの術は心得ておるだろうよ」
一気にそれだけ言ってから、希代之は話題を変えた。
「ああ、そうだ。各地の太守たちには、迂闊な行動に出ぬよう、釘を刺しておく必要があるな…………翻武よ。郭嘉殿宛てにも書状を作るから、御辺の手の者を長安にやってくれ」
「そのような任務でしたら、私が行って参りましょう」
「いや。今、御辺にここを離れてもらうのは困る。私の印を押した通交証を持たせるから、別の者を当てよ。今後も御辺には、何かと献策を期待したいからな」
翻武が不承不承頷くのを確認した希代之は、伏幹と翻武に、関平、甘寧、馬岱の三将を召集するよう命じた。
「連中にも洛陽の件を伝えておかねばならん。ああ、呉嬰は残れ。洛陽に送れる細作の状況、もう少し詳しく知りたい」
命令を受けた伏幹と翻武は、拱手して執務室から出て行った。
退出間際、翻武がチラリと希代之と呉嬰の方を見たが、希代之は気付かぬ振りをした。
希代之が呉嬰に、「翻武の屋敷を見張れ」と伝えたのは、翻武の姿が消え、十分に時間が経った頃だった。
「あの女の郭図公則嫌いは、決して我らに劣るものではない」
命令の意図がわからず言葉に詰まる呉嬰に、希代之は説明した。
「にもかかわらず、条件付きながら、我らに郭図公則の下に付くよう進言した。あるいはあれなりの献策なのかもしれぬが、どうも腑に落ちぬ」
「言われてみれば、そうですな。あの者、確かに頭の回転は速いが、感情を優先する傾向がまま見られますから」
声を潜めて、呉嬰も同意する。
呉嬰もまた、感情的行動に出やすい男ではるが、希代之はそれを一々指摘するようなことはしなかった。
「翻武の屋敷から許昌の外に出た者がいたら、捕らえて連れて来い。もちろん、人目につかぬように」
「ご懸念はつまり、こういうことでございましょうか?」
呉嬰は、ゴクリと唾を飲み込んだ。
洛陽太守を嫌っている翻武が、洛陽の叛乱に同調するよう進言したということは、つまり洛陽と翻武が…………いや、洛陽と長安が、繋がっている、と?」
筆頭軍師の耳目だけあって、呉嬰もまた、希代之の懸念にすぐたどり着いた。
だが、希代之は呉嬰の問いには答えなかった。
自分の予想が外れているなら、それに越したことは無い、と希代之は思う。
郭図公則が既に、長安まで味方につけているなど、楽しい想像であるわけがない。


直筆の書状を郭嘉に届けるよう翻武に命じたのは、翻武の正体を探るための罠だった。
すなわち、郭図公則と郭嘉が繋がっている、という希代之の予想が正しければ――つまり、翻武が“洛陽の草”ならば――、翻武は希代之の方針や許昌の状況を、洛陽と長安に伝えようとするだろう。
その報告を行うにあたって、「希代之の書状を郭嘉に送れ」という任務は、翻武にとってまさに渡りに船だ。
隠密を要すべき密使の派遣を、「公務」の名目で、しかも「筆頭軍師の通行証」まで持って、堂々と出すことができるのだから。
希代之はその使者を途中で捕らえて携帯品を改め、洛陽と長安の繋がりの有無を確認すればよい。
ただ、後々の面倒を考えるなら、使者が翻武であることは望ましくなかった。
もしも翻武が携えていたものが希代之の書状だけだったなら、「洛陽と長安の連合」という希代之の懸念は杞憂ということになり、それはそれで喜ばしい。
しかし、自分が疑われていたことを知った翻武は、その性格から考えて、確実に希代之から離れてしまうだろう。
そしてそれは、希代之と郭嘉の関係悪化にも繋がる。
その結果、郭嘉が洛陽側に付いてしまったりしたら、薮蛇ここに極まる。
希代之の予測通り、翻武が“洛陽の草”であった場合でも、不都合が生じる。
敵方の草であることが判明した草は、もはや脅威ではない。
むしろ、偽の情報を流して相手を混乱させるという、策師なら誰もが夢見る一手を放つ貴重な“道具”となる。
その計略を実施するためにも、“印が付けられた”ことを翻武に悟られてはならない。
だからこそ希代之は、翻武の使者役志願をやんわりと退け、「筆頭軍師の通行証」というお膳立てまで用意させたのだ。
そして、事態は希代之の思惑通りに展開した。
その日の夜。
洛陽へ向けて出撃する関平隊が、慌ただしく準備を進める中、一台の馬車がひっそりと筆頭軍師府に入っていった。
その中には、目隠しと耳栓と猿轡をされた男が、両腕を縛られて転がされていた。


一通りの取調べを終えた呉嬰が、希代之と伏幹の待つ執務室へと戻ってきた。
「使者役を務めていたのは、翻武の屋敷で働く下男です。細作ではありません。翻武には、自由に使える細作がいないようですな」
続けて発せられた呉嬰の口調は、暗かった。
「それと書状ですが…………三通持っておりました」
呉嬰の声色の理由は、希代之の机に置かれた三通の書状の宛名にあった。
一通は、希代之が郭嘉宛てに書いたものだった。
これはいい。
問題は、残る二通。
いずれも翻武の筆跡で、それぞれ「長安軍師宛」、そして「洛陽太守宛」、となっていた。
希代之は何も言わずに「洛陽太守宛」と書かれた封を開け、中身を確認した。
そこには、書き手の攻撃的な性格そのままの、強い筆による文字が並んでいた。

  筆頭軍師、洛陽に細作三十人を放ち、涼王救出及び情報収集を図らんとす
  なお、細作潜入時の囮として、関平隊に洛陽郊外の布陣を命ずるものなり
  関平隊の洛陽守備軍への対応は、とりあえず「不戦」
  第一軍が洛陽政権に帰順するか、または敵対するか、筆頭軍師は方針定めず

しばらく、文面に視線を落としていた希代之は、黙ってその書状を伏幹と呉嬰にも手渡した。
文面を覗き込み、伏幹は呻き声を上げ、呉嬰は歯軋りをした。
その間に、希代之は「長安宛」の封も開き、中の書状を取り出した。
そして、思わず口元を緩める。
書面には、郭図公則宛ての書状とはまったく正反対の、女性らしい繊細な文字が躍っていた。
内容にしても、その大半を占めているのは、許昌の状況ではなく、郭嘉の体調を案じる文。
「洛陽太守への過度の肩入れは危険」という一文まで盛り込まれてある。
郭図公則の叛乱に対する翻武の本音が表れているようで、希代之は少し、胸が痛くなった。
主君への忠義の結果、郭図公則の草と成り果てたこの女参謀を、自分は利用するつもりでいるのだから。
「こんなものもございました」
書状の確認を終えたところで、呉嬰は割符と見られる木片を差し出した。
「洛陽についたら、洛陽太守副官・糜統に取次ぎを求め、この割符を示せ、と…………翻武からそう指示されたそうです」
「前々から洛陽太守は準備を進めていた、というわけですね」
伏幹の指摘に、希代之は重苦しく頷いた。
背中に冷たいものが走っている。
まったくあの男、どこまで策を巡らしていることやら……。
「伏幹。御辺は筆跡を真似る術を心得ておったな」
恐怖に近い感情を振り払いながら、希代之は伏幹に目を向けた。
「郭図公則宛ての封を書き直し、この書状をそのまま入れておけ」
「えっ?! 細作潜入について、削除しなくてもよろしいので?」
「かまわんさ。郭図公則なら、私が細作を送ることぐらい、先刻織り込み済みだろう。それに彼奴のこと、間違いなく許昌にも細作を配しているはずだ。当然、関平隊の出撃も筒抜けとなるのだから、むしろ正確な情報を送りつけることで、郭図公則には翻武が、草として機能していると誤信させた方が良い」
「誤信、ということは…………翻武はそのまま泳がせ、いざという時に?」
「わかっているではないか」
ここでようやく笑みを見せた希代之は、呉嬰にも指示を出した。
「郭図公則陣営に確実に顔が割れていない細作を一人、用意せよ。その者にこの書状を託し、洛陽へ向かわせろ」
「承知致しました。ところで、捕らえましたる翻武の下男ですが、あれは如何いたしましょうか?」
「あの下男は、確かに洛陽に到着し、郭図公則に報告書を手渡した。しかしその後、体調を崩し、許昌へ戻ることが叶わなくなったため、“郭図公則の手の者”が、そのことを翻武に伝えに行くのだ」
希代之は一転、平易な声で言った。
「しかし、病が治ったとしても、どうであろうかな…………叛乱で治安が悪化し、洛陽と許昌の間にも賊の類が頻発するだろう。身一つで許昌まで戻ってくるというのも、なかなか難しいのではないか?」
「それでは、郭嘉軍師への書状についても?」
「そうだな。洛陽と長安の間だけ賊が出ない、ということも考えにくい。この書状は伏幹が保管しておくように」
希代之は伏幹に書状を手渡した。
受け取った伏幹は、じっとその文面に目を落とした。
いずれ時が来た時、自分はこの書状を元にして、偽の報告書を作ることになる。
そう思うと、伏幹は気が重くなった。
偽の報告書を作ることに、ではない。
偽の報告書を作った後、翻武に待ち受ける運命に思い至ったのだ。
だがその前に、伏幹の同僚もまた、気の重い仕事をこなさなければならなかった。
「それでは、始末して参ります」
明らかに意識的とわかる、呉嬰の無機質な声。
顔を上げると、希代之が仕事をする上で常に汚れ役を担ってきた男が、執務室から出て行こうとしていた。
呉嬰がこれからどこへ行くのか、考えるまでもない。
翻武の下男が――何の罪もない男が――怯えながら待つ、地下牢だ。



━━許昌。大通り
折からの大雨に見舞われる中、第一軍部将・関平率いる軍勢が、許昌の大通りを進む。
その数、一万余。
叩きつけるような激しい豪雨によって、兵たちはまだ城から出てもいないというのに、その足を泥まみれにしている。
軍馬のいななきと、兵卒たちの足音。
雨の音に、雨粒が甲冑に跳ね返る音。
これらの音に一糸乱れぬ行軍が相まって、許昌の大通りは不思議な光景となっていた。
許昌に残る希代之たち第一軍首脳は、天幕付きの櫓から、その出撃を見守っていた。
櫓の前を粛々と進む軍勢の中段あたりに、鹿毛の馬にまたがった将が現れた。
関平だ。
その甲冑は、雨に濡れて鈍い輝きを放っている。
関平はこちらに顔を向け、馬上礼を送った。
希代之、甘寧、馬岱、そして各将の副官らは、拱手でもってそれに応える。
その時、強い横風が吹き、櫓の側面から雨が降り込んできた。
舌打ちがする。
皆が振り向くと、そこには御自慢の水鳥の羽根を濡らされた甘寧が、忌々しそうな顔で立っていた。
「不吉な天気ですなあ」
自分に注がれる視線に気付いた甘寧は、気配りとは無縁の言葉を口にした。
「出師だというのに、ほとんど前も見えぬ雨と来た……先が思いやられますな。出て行く関平も、残る我らも」
先が思いやられる。
その言葉は、天幕にいる全員に共通している思いだった。
郭図公則が叛乱を起こし、呂砲の消息は不明、朝廷の動向も不明。
郭図公則を敵とするのか、朝廷を敵とするのか、あるいは涼の軍勢を敵とするのか、それすらはっきりしない中での、出撃。
不安を感じぬ方が、どうかしている。
「焦れるな。心配せずとも、形は徐々に見えてくる」
不必要な甘寧の言葉を咎めるように、希代之は言った。
呂砲不在の今、希代之は涼第一軍領(仮)軍団長の立場にある。
組織の最高責任者として、締めるべきところは締めなければならない。
「軍師殿……いや、領軍団長殿の仰ることはわかりますがね」
甘寧は唇を捻じ曲げた。
「我らが目を向けるべき対象は、洛陽だけではない。曹操もここを狙っていることをお忘れなく」
その言葉に、馬岱が不安そうに首をすくめた。
許昌は、陳留、汝南、礁の三都市の間に突出した位置にある。
そしてその三都市は、いずれも曹操の勢力地。
一斉に攻め込まれたら、ただでは済まない。
「わかっておる」
進む軍勢を見つめたまま、希代之は素っ気無い口調で言った。
「だから私は、関平ではなく、御辺をここに残した」
どちらかというと、「生真面目」に類する性格の希代之だが、環境は人を変える。
人の上に立つ者には、時に部下を持ち上げる腹芸も必要だということを、希代之も知るようになっている。
一方の甘寧は、皮肉っぽい笑みを浮かべて見せた。
「心くすぐるお言葉だ」
そう言って川賊出身の武将は、水鳥の羽根を指先で弾いた。


軍勢の最後列が、許昌の西門をくぐろうとしている。
閲兵を兼ねた出撃の儀も、間もなく終わる。
男装の麗人・翻武は、希代之らの背後に立ち、関平隊の出撃を見送っていた。
靄に包まれ、霞んで見える軍勢。
頭の中にまで響くような激しい雨音で、五感が飽和状態になりかけていた翻武には、その光景が非現実的なものとして映った。
いや、非現実的に見えたのは、軍勢だけではない。
手を伸ばせば届くところに立っている、涼筆頭軍師にして、漢鎮軍将軍、領第一軍軍団長・希代之。
許昌における政治・軍事のすべてを掌握しているこの男の後ろ姿もまた、ぼやけて見えた。
そして、伏幹の姿も同様に。
翻武は、彼らの姿が霞んで見える理由が、雨以外にも求められることを知っていた。
出向とはいえ、翻武は希代之陣営に属する者。
そんな人間が、細作の洛陽派遣や、関平隊の出撃、そして洛陽叛乱に対する第一軍の反応など、許昌の状況をまとめた報告書を郭図公則の元へと送った。
間違いなくそれは、裏切り行為。
翻武の真の主君が郭嘉であることは、その言い訳にはならない。
「裏切り者」
何と耳障りの悪い言葉だろう。
そんな後ろめたさが、翻武の知覚を麻痺させている。
だが、翻武にはまだ、ささやかながらも希望が残っていた。
それは、希代之が郭図公則を、明確に敵とは見定めていないことだ。
希代之が漢朝への忠義を優先した結果、郭図公則の傘下に加わる道を選んだなら、翻武の心に今、暗い影となって潜んでいる裏切りへの後ろめたさは一気に解消されるし、伏幹や呉嬰とも、これまで通りの“同僚”であり続けられる。
ただ、その可能性がどれほどあるのかとなると、翻武にも皆目見当がつかない。
希代之と郭図公則の確執を考えるなら、ほとんど見込みのない願望のような気もするし、 希代之の朝廷への忠義を考えるなら、すんなりと実現しそうな気もする。
とにかく最後は、希代之の胸一存で決まる。
ならば自分は、希代之がその結論に到達するまでに、可能な限り揺さぶりを続けていかなければならない。
それが郭嘉のためでもあるし、自分のためでもある。
強い雨の音に紛れて、銅鑼の音がかすかに響いた。
顔を上げると、ちょうど関平隊の最後の一兵が西門をくぐり、重厚な扉がゆっくりと閉じられるところだった。
(まだ、自分の運命が閉じられたわけではない)
翻武が自分にそう言い聞かせた時、門は閉じられた。
降りしきる豪雨が他のすべての音を封じ込めようとする中、扉がぶつかり合う音と、閂がかけられる音だけは、妙に明瞭に聞こえた。


先が思いやられる、とは、呉嬰もまた、思っていた。
彼の周囲にあるのは、黙々と進む関平隊の兵士たち。
大雨のため、その行き足は遅い。
呉嬰としては、一刻も早く洛陽に潜入し、与えられた任務にまい進したいところだったし、もちろん関平も、なるべく早く洛陽に到着するよう希代之からの念押しを受けてはいた。
とはいえ、天気ばかりはどうしようもない。
呉嬰は、他の三十人の細作たちとともに、関平隊の兵士に成りすまし、許昌を出発していた。
希代之が言うように、郭図公則は許昌から細作が増派されることぐらいは、先刻承知済みだろうが、可能な限りその出立を隠す努力は必要だった。
(洛陽は今、どうなっているのだろう)
歩みを進めながら、呉嬰は思った。
郭図公則の用心深さを考えるなら、細作の洛陽潜入だけでも大変だというのに、呂砲の消息確認、そして呂砲が生きていたならその救出、さらにその他諸々の情報収集と、頭が痛くなるような難事が、あの都市には待ち構えている。
だが、呉嬰は前向きだった。
この洛陽潜入は、希代之の護衛隊長としてではなく、一細作としての最高の晴れ舞台だ。
何としても任務を成功させ、これまで散々煮え湯を飲まされてきた郭図公則の細作頭に一泡吹かせてやる。
希代之にとって郭図公則がライバルであるように、呉嬰にとってのライバルは、糜統。
直接対決として、これ以上の場はない。
呉嬰の甲冑から、うっすらと湯気が上がっている。
これから自分に待ち受ける展開を想像し、呉嬰は興奮していた。


呉嬰からやや離れたところを歩く俸仕もまた、興奮している。
洛陽からの脱出に成功し、貴重な情報を許昌にもたらしたお陰で、希代之の覚えもめでたくなった。
「取り急ぎではあるが、おまえを伍長に任ずる。此度の潜入にも成功したら、什長だ。頑張れよ」
出立前、呉嬰から告げられた昇進の内示は、翻武のやる気を大いに刺激している。
そして、再び洛陽へ。
希代之や呉嬰にはとても言えたものではないが、俸仕は叛乱を起こした郭図公則に、感謝の言葉を述べたい気分だった。
安定した情勢においては、出世の糸口も限られたものとなり、俸仕のような下賎の者が昇進することは極めて難しい。
しかし、混乱した状況にあっては、好機はいくらでも転がっている。
それに、難局を打開できるのは、生まれ持った地位や血統ではない。
己の才覚だ。
事実、つい先日まで最下級の細作だった自分が、下士官へと昇進できたではないか。
うまく立ち回れば、将校の位だって夢ではない。
(手柄を立ててやる。偉くなってやる)
郭図公則の叛乱というまったく想定外の事態に、少なからず動揺している希代之陣営において、この男だけは唯一、希望に燃えていた。








>俸仕殿
こちらより顔グラ選択ヨロ。





 /
希代之

俸 仕
 
呉 嬰
 
伏 幹
 
翻 武



郭図公則、叛す(その二)       郭図公則、叛す(その四)


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