郭図公則、叛す〜その一〜
━━洛陽。太守府
郭図公則は落ち着かなかった。
執務室の中を熊のように行き来し、時には外へ出ようとして、何とか踏みとどまる。そんな行動を延々繰り返していた。
間もなく、日が落ちる。
挙兵は、夜。
にもかかわらず、挙兵の後ろ盾となる大漢宮からの使いは、まだ来なかった。
「皇上への説得は、自分が行う」
去年、許昌にて行った、少府・丁秦との密議。
漢朝復興派の筆頭たるこの男は、郭図公則からの様々な提案・要求に「諾」の意を示したが、その一点だけは譲らなかった。
郭図公則と丁秦が、本心から信頼し合っているわけでない以上、丁秦がそう主張するのも当然だった。
何より丁秦には、長年に渡って皇帝を支えてきた、という自負がある。
郭図公則としても、それは認めざるを得ないと、その時は割り切った。
しかし、ひたすら待つだけのこの時間、皇帝の説得という、極めて重要な役回りを他人に委ねたことを、郭図公則は後悔していた。
呂砲を“逆臣”とし、呂砲への叛乱を起こす郭図公則を“忠臣”と定める、勅。
これがなければ、いくら郭図公則であっても、洛陽守備軍を動かすことはできない。
洛陽守備軍に所属する全ての将が、郭図公則に心酔しているわけではないし、見切り発車的に叛旗を掲げても、どれだけの将がついてくるかとなると、郭図公則にも自信がなかった。
そんな不安を一掃してくれるものこそが、勅だった。
この時代にあって、勅を無視するには、死を覚悟するほどの勇気がいる。
洛陽と同じく、郭図公則が叛乱へ向かうよう仕向けてきたのは、長安、弘農、襄陽、成都、長沙、武都の六都市だった。
郭図公則はこれらの都市それぞれに、それぞれの役割を考えていた。
郭嘉がいる長安は、西からの攻撃を防ぎ、場合によっては洛陽への参陣もできる頼もしい友軍。
陳蘭の弘農は、洛陽守備軍を動かす口実、及び洛陽―長安間の連絡を確実なものとする中継地。
洛陽から離れた地の太守たちは、“避雷針”。
郭図公則は以前から、「金10万の賠償金を集める過程で非協力的だった太守の処分を、大史農が検討している」という情報を、襄陽の蔡瑁らに密かに流していた(もちろん、情報の出所は隠しながら)。
そして、処分の内容は、「殺」とも。
細作の報告によると、名指しされた太守らは、十分すぎるほど恐怖に慄いているという。
郭図公則の挙兵は、その“避雷針”たちを動かす「きっかけ」という意味合いもあった。
漢都に反涼の旗が掲げられたら、蔡瑁らも「これ幸い」とばかりに同調する。
郭図公則の勢力に組するかどうかは別として、斬首を恐れたこれらの太守たちが叛乱に転ずれば、涼は著しい混乱に陥る。
そしてそれは、郭図公則が体制を落ち着かせるまでの貴重な時間を稼ぎ、涼軍の分散化にも繋がるだろう。
逆に、洛陽一都市の制圧にも手間取るようでは、蔡瑁らは挙兵に躊躇する恐れがあった。
最悪の場合、最大の友軍となるはずの燕ですら、謀事の関与に足踏みするかもしれない。
そうなれば、郭図公則はとんだ道化だ。
一人、漢都で孤立し、惨めな最期を迎えるほかなくなる。
そんな事態を防ぐためにも、洛陽の制圧は可及的速やかに完了させなければならない。
となれば、叛乱の決行は、夜しかなかった。
闇夜が謀事を隠している間に全ての段取りを終え、夜が明けた頃には完了している、そんな流れがもっとも望ましい。
さもないと、無用の戦闘を招き、制圧にも時間を要し、そして、郭図公則は“避雷針”からも見捨てられてしまう。
速やかに洛陽を制圧するには、あらかじめ洛陽内の要所に、相当数の兵を配備しておく必要があった。
しかし、いくら洛陽の守備を司る軍とはいえ、必要以上の兵が街中を闊歩していれば、必ず怪しまれる。
そんな疑念を解消させるためにも、「今夜、洛陽守備軍を出撃させる」という口実は、必要不可欠なものだった。
配下の細作を使い、「弘農謀叛」の知らせを大史農方の情報機関に流したのも、この策略の信用性を補強するため。
大史農が最初に謀叛の可能性を呂砲に知らせ、その直後、素知らぬ振りの郭図公則が、「弘農謀叛」の情報を伝える。
この段取りなら、呂砲も大史農も、弘農の愚挙を疑うことはない。
洛陽守備軍を鎮圧軍とする郭図公則の提案も簡単に認められるし、切れ者の大史農であっても、洛陽内を異様な数の守備軍兵士が駆け回る様を目撃しても、不審を抱くことはない。
これらの策は、すべて想定通りに実行され、現在、洛陽の四門すべてには、百を超える洛陽守備軍兵士が配備され、水も漏らさぬ構えを敷いている。
各主要道路や重要な官庁にも、多くの兵が目を光らせていた。
この状況に異常を感じた者は少なからずいたが、「謀叛を起こした弘農への出撃準備、かつ、涼王の許可を得ている」という回答は、それら問い合わせた者たちの疑念を解消させた。
あとは、決行するだけ。
ただし、郭図公則は、「今夜、弘農へ出撃する」という口実で、兵を展開している。
夜が明けても多くの兵がウロウロしているようでは、必ず大史農は不審を抱く。
この状態を、明日一日維持することは、いくらなんでも不可能だった。
かといって、太陽の下での挙兵となると、やはり不安がある。
その頃には、眠っていた町費や公孫讚の兵たちも、目を覚ましている。
そして、これらの軍勢が動けば、速やかなる洛陽鎮圧というシナリオには、大きな齟齬が生じる。
郭図公則が謀叛の兵を挙げ、かつそれを成功させるには、今夜しかなかった。
にもかかわらず、勅はまだ、下りない。
ジリジリしながら、郭図公則は胃のあたりを手で押さえた。
喉がカラカラに渇いていることにすら、郭図公則は気付かなかった。
それよりも、逆流しそうな胃液を抑えることに、精一杯だった。
(丁秦!)
郭図公則は、窓の先に見える大漢宮を睨みつけた。
あの巨大な建築物の主、そしてそれに仕える一人の人間が、郭図公則の運命を握っている。
(まだか!…………)
今の郭図公則には、心中でそう叫ぶことしかできなかった。
━━洛陽。大漢宮
郭図公則が緊張と不安で倒れそうな思いをしている頃。
大漢宮の皇帝の私室では、少府の丁秦と車騎将軍の董承が、怯える皇帝に決断を迫っていた。
「陛下、ご決断を」
あらかじめ作成しておいた勅書を差し出し、丁秦は言った。
「こちらに印綬を…………さすれば、洛陽太守はすぐに、呂砲の首を持って参ります。
そして陛下は、真の中華の覇者として、この大陸に君臨できるのです」
「しかし」
対する皇帝は、完全に血の気の引いた顔をしていた。
その顔色の理由は、丁秦が差し出す勅書の文面にあった。
皇帝の印が押されていないその紙面には、力強い文字で、「朕、洛陽太守に命ず。逆臣呂砲の首級を挙げ、天下に正義を示せ」と書かれてある。
夢にまで見た洛陽にようやく戻ってこれたのは、つい昨日のことだ。
その喜びを噛み締めているところで、いきなり告げられた呂砲の暗殺計画。
しかも、勅への印を促される。
冷静でいられるわけもない。
落ち着かず、目線を左右にちらつかせながら、皇帝は言った。
「なぜゆえ涼王を殺す必要があるのか? 曹操の暴虐から朕を解放したのは、涼王である。朕が漢都に還行できたのも、涼王の力あってこそ…………あの者を排する理由はない」
「陛下。臣の眼は、節穴ではございませぬぞ」
丁秦は、皇帝の両眼を見据えた。
「呂砲の不遜なる振る舞いで、恐れ多くも陛下がたびたび無念の情を抱かれしこと、臣が存じ上げぬとお思いですや? これまで折に触れて、あの者が示してきた大逆の念、このまま放置すれば、必ずや呂砲は帝位簒奪の暴挙に及びましょう。もはや、一刻の猶予もございませぬ」
詰め寄られた皇帝は、救いを求めるように、国舅の董承を見た。
しかし、董承もまた、決断を迫るように言った。
「少府の申すことは、真にございますぞ。確かに呂砲は、還行の功労者。しかしそれは、陛下のためを思ってのことではございませぬ。ただ、自らの名声を高めるためだけに行ったに過ぎません。許田の巻狩りにおける、傲岸不遜なる呂砲の態度をお忘れではございますまい。機が熟したと判断すれば、呂砲は陛下の殺逆にも躊躇は抱きませぬ」
「だが…………だが、あの者は…………」
なおも皇帝は、抗するように首を振った。
「自分の働きさえ認められるなら、非礼に転ずることはない。それは、朕がよく知っている」
「あるいはそうなのかもしれません。しかし、陛下。そうであるなら尚のこと、御一考くださいませ」
丁秦が言った。
「涼がこのまま中原を平定していったなら、陛下はあの者の働きとやらを、どのように認めますや? いや、これは、陛下がどのように嘉するか、という次元の話ではございませぬ。呂砲が陛下の御温情に満足するかどうか、ということにございます」
「涼王は、さほど物欲がない。朕が心よりその働きを称えたなら、それで満足するはずだ」
「恐れながらその御認識は、いささか甘うございますぞ」
丁秦は首を振った。
「呂砲は、王の位にある身。次に望む地位は、恐れ多くも一天万乗の位のみとなっているのです。呂砲は今でこそ、魏と呉を主敵と見定めておりますが、これらの勢力を殲滅した後、新たな敵を求めるようになるは必定。そして、騒乱が平定されし後、敵を“失った”呂砲が次に何を敵と見定めるか、どうかお考えくださいませ」
「大漢です」
董承が後を継いだ。
「高祖が樹立し、四百年に渡って中華の礎として君臨してきた大漢が、百万以上の兵を有する男の敵となるのです。そうなったら、もはや手は打てませぬ。想像するだけでも身の毛がよだちますが、もし最悪の事態となったなら、陛下はどのようなお顔で、歴代皇帝と相対されますや?」
もっとも信頼する二人の重臣に言い寄られ、皇帝は震えていた。
彼らの指摘は、皇帝とて認識はしている。
しかし、いざ決断を迫られると、何か別の手段を見出したくなるのも、致し方なかった。
皇帝は、漢朝の崩壊を、将来あるかもしれないかすかな兆候、と受け止めていた。
だが、今ここで勅書に印を押したら、それはすぐ先の、確実な未来となるように思えた。
「そうは言うが、よしんばうまく涼王を殺すことができたとしても、残った涼の軍は多く、強い。盟主を失った軍勢が、怒りに任せて帝都に攻め寄せてきたらどうするつもりか。そうなれば、黄巾の乱以上の災厄となろう。洛陽は再び戦禍に見舞われ、大漢もまた、滅亡は避けられぬ」
「此度の策は、慎重に慎重を期して練られたものにございます」
皇帝の不安を察した丁秦は、皇帝を安心させるように、穏やかな口調に転じた。
「董卓や曹操など、逆臣を排するための策はこれまで幾多もございましたが、今回の策は、それらとは根本的に違います。お聞きくださいませ」
丁秦は説明を続けた。
「第一に、今回陛下には、自由に使える軍がある、という点にございます。これまでの策は、宮中の策謀の域を越えるものではありませんでした。しかし此度の壮挙は、洛陽守備軍7万が中心となって動きます。加えて、車騎将軍率いる近衛軍1万5000が、陛下の身辺を完璧に警護いたします。これだけの兵がいる以上、逆臣の刃が陛下の御身に及ぶことはありえませぬ」
「だが、洛陽太守は涼王の腹心中の腹心。そして、策多き者というではないか」
皇帝は応えた。
「むしろ、朕が涼王を殺そうとした、という口実を作らせようとしている、ということはないのか? つまり、こういうことだ。朕を踊らせることで、涼王に大漢討伐の軍を向けさせる口実を作り、転じて涼の世を作ろうという深謀…………その恐れはないのか?」
何気ない、むしろ“ささやかな”抵抗の部類に入る皇帝の指摘だった。
だが、丁秦は一瞬、背筋が凍る思いがした。
呂砲の“刃”を、朝廷に向けさせるための、策謀。
その可能性がない、とは、丁秦にも断言はできなかった。
去年、許昌で郭図公則からこの策を告げられた時、丁秦は「この策なら、大漢の世を再び取り戻せる」と狂喜した。
郭図公則の策には、呂砲暗殺のみならず、その後に起こるであろう騒乱への処方箋も講じられていたのだ。
すなわち、洛陽守備軍の“官軍”化だ。
その点が、過去に立案されては消えていった、宮廷の者たちの策とは根本的に違っていた。
しかし、冷静に考えるなら、“あの”郭図公則をそこまで信用していいのかという点は、もう少し考慮すべきだった。
郭図公則が梯子を外してしまえば、もはや丁秦には手の打ちようがないのだ。
とはいえ、今さら郭図公則の真意を確認する暇は、丁秦にもなかった。
「挙兵は、今夜。今夜を逃したら、挙兵の機会は永遠に失われる」
丁秦は郭図公則から、何度もそう念押しを受けている。
同時に、皇帝の指摘は逆に、開き直りともいえる感情を、丁秦の心に芽生えさせた。
此度の策が、郭図公則による朝廷陥れの陰謀という可能性は、確かに皆無ではない。
だが、この機会を逃せば、いずれ漢が涼に取って代わられることは確実ではないか。
定かならぬ策謀を恐れて、目の前の好機を逃すこと。その結果として、確実に訪れる滅亡の時を待つこと。
いずれも、丁秦の性格上、できることではなかった。
「そのご懸念は無用にございます」
自分に言い聞かせるように、丁秦は言った。
「陛下に向けられる洛陽太守の忠義は、臣が確認しております。洛陽太守はひたすら、陛下への赤心から、この義挙を練り上げた者。どうか陛下、忠臣をお疑いなさいますな」
丁秦の説得に、皇帝は口を閉じ、下を向いた。
皇帝とて、何か根拠があって郭図公則を疑ったわけではない。
加えて、「忠臣を疑うな」という議論封じの言葉をぶつけられたら、何も言えなくなる。
「陛下をお守りする兵は、洛陽守備軍と近衛軍だけではございませぬ」
不機嫌そうな顔になった皇帝を宥めるように、丁秦は話題を元に戻した。
「洛陽には今、町右将軍がおります。あの者の赤心は、陛下もご承知のことと存じます。
陛下の勅を賜るなら、必ずや町費もこの壮挙に加わりましょう。さすれば、10万もの兵が、陛下をお守りするために動くことになります」
「町費が…………」
皇帝の顔に、わずかではあったが、赤みが射した。
町費。そして、許昌にいる希代之。
涼七同志に名を連ねるこの二人が、常日頃から漢朝の復興を声高に叫んでいることは、皇帝の耳にも入っている。
何より町費は、堅城・業βを攻め陥とすという輝かしい実績を持つ男。
そんな勇将が、幕下に加わる。
壮挙に後ろ向きだった皇帝の心が、今の説明で揺り動いていることを、丁秦は敏感に察した。
「従来の策と異なる点は、それだけではございません」
丁秦は、畳み掛けるように言った。
「それは、この策に呼応する者が、涼の勢力地内にも数多くいる、という点にございます。今や、呂砲の不敬を知らぬ者はなく、義憤を抱きし者たちは、義挙の時を待ちかねているのです。陛下の勅が発せられたなら、この者たちも一斉に立ち上がります。そして、壮挙は洛陽一都市に留まらず、中華全土に広がります。その大半は、陛下への赤心に溢れた者たち。陛下がご懸念されるような賊徒と化す涼兵は、限られたものとなりましょう」
「具体的には、どの者が呼応するのか?」
「長安と弘農は確実です。これに、荊州の都・襄陽に蜀の要・成都の二大都市が加わる見込みでございます。それ以外にも、周辺の中小都市も動くことになりましょうが、それ以上に心強い味方も陛下の下に参陣することになっております」
「心強い味方……とは?」
「燕公袁譚」
丁秦は、微笑を浮かべた。
「四代に渡って三公を輩出した、漢の忠臣の後継者にございます。袁譚は領する四都市、そして隷下の軍兵10万でもって、陛下への忠義を明らかにすると申しております」
実際のところ、郭図公則はこれまで、挙兵に係る詳細を丁秦に伝えてはいなかった。
「密議は、知っている者が少なければ少ないほど、成功に近づくものにございますれば」
郭図公則はそう言って、策の中身を聞きたがる丁秦を煙に巻いた。
だから、丁秦が把握していた挙兵の内容は、「皇帝と呂砲が還行で洛陽入りを果たしたら、速やかに呂砲を、殺。洛陽守備軍はそのまま官軍として皇上と帝都の守りに就き、残された涼軍の分裂に努める」ということだけだった。
しかし、今日の午後。事態は動いた。
躍龍潭の神木が切り倒された後、怒りと失意が綯い交ぜとなった状態で邸宅に戻った丁秦は、それを見極めたかのように訪れた郭図公則から「今夜、決行する。付いては、呂砲討伐の勅を皇上から賜りたい」と告げられたのだ。
待ち侘びた、決行の知らせ。
だが、その時丁秦は、むしろ郭図公則の非礼を怒鳴りつけた。
勅は、そう簡単に作れるものではない。
皇帝が外に向けて自分の意志を発する唯一の手段である以上、その作成には様々な段取りが必要であり、「作れ」と言われてすぐ用意できる代物ではない。
「御辺、勅を軽く考えるにも程があるぞ!」
対する郭図公則は、怒鳴られたことなど意に介した様子もなく、丁秦を説き伏せにかかった。
「この策は、弘農謀叛をきっかけとして始まるのです。今夜を逃せば、洛陽守備軍といえども、速やかな洛陽制圧が困難となります。そうなれば、長安も襄陽も成都も、そしてそれ以外の都市も我らに呼応することはなくなります。挙兵の効果が、大幅に減じられるのです」
丁秦は驚いた。
丁秦はこの時初めて、郭図公則が洛陽以外の都市にも策を巡らせていたことを知ったのだ。
驚きは、それだけに留まらなかった。
「そんなに多くの都市が呼応するのか?」
丁秦の問いに、郭図公則はこの男にしては珍しく、やや得意気な表情を浮かべ、答えた。
「燕公も、しかり」
それを聞いた丁秦は、ほとんど郭図公則を置き去りにするように邸宅を飛び出し、大漢宮へ駆け込んだ。
そして、今。
皇帝の印を押すだけとなった勅書を携え、皇帝と相対している。
計画が呂砲一人の暗殺に留まらず、ここまで大きくなっているという説明に、皇帝のみならず、董承も目を丸くした。
「燕も加わるとな?!」
董承は、興奮したように白い自分の髯を握り締めた。
「陛下! もはや躊躇する理由はございませんぞ! 中華の勢力図は一気に変わります! この流れを断ち切ってはなりませぬ!」
董承の言う通りだった。
涼の旗で埋め尽くされつつある中華の勢力図は、この挙兵によって、一夜にして過去のものとなる。
これまで丁秦や董承が恐れていたことのひとつは、特定の勢力が力を付けすぎることによって、「禅譲」の空気が醸造されることだった。
しかし、この挙兵が成功したなら、突出した力を持つ勢力はなくなり、涼の残党も魏も、悠長に禅譲などを唱えている余裕はなくなる。
それだけではない。
盟主を失った涼は、無統治に近い状態となる。
兵力さえあれば、切り取り放題ではないか。
丁秦や董承に言わせれば、まさに至れり尽くせりの策だった。
だが、それでも皇帝は慎重だった。
「卿らの言うことはわかる」
興奮する董承とは対照的に、尚も皇帝は躊躇した。
「だが、袁譚、それに郭図公則が、曹操などのような立場にならぬと言えるのか? 曹操にせよ、呂砲にせよ、朕を奉じた当初は、比類なき忠臣であった。それが力をつけるに従い、振る舞いにも粗が見えるようになった。袁譚や郭図公則ならそうはならぬ、とは断じられまい」
「ご懸念はごもっともにございますが、その心配は無用です」
皇帝の煮え切らない態度にイライラし始めている自分を抑えながら、丁秦は言った。
「陛下のご懸念は、これまでの魏や涼のように、燕が漢を庇護するという前提に拠るものかと存じます。もちろん、この挙兵の初期段階において、我らが洛陽守備軍や燕の兵力に頼らざるを得ないことは事実です。しかし、そのような状態は、決して長くは続きません。なぜなら」
ここで丁秦は、一拍置いて、言った。
「大漢の国庫には、10万もの金があるからです。これだけの金があれば、兵や武具、軍馬などいくらでも揃えられます。董卓の洛陽入り以降、持つことができなかった漢の正規軍を、陛下はようやく手に入れることができるのです。そうなれば、燕や郭図公則の顔色を伺う必要など微塵もございませぬ。あの者たちの功を功と認めるは当然ですが、不必要に遠慮する必要はないのです」
「漢の…………正規軍」
ここでようやく、皇帝の声色が変わった。
漢が各勢力の傀儡のような存在と化した最大の原因は、自前の軍を持てなくなったことにつきる。
なぜ自前の軍が持てなくなったのかについては、朝廷の腐敗や官僚と宦官の対立、黄巾の乱、董卓の洛陽入り、そして董卓暗殺後の対応の拙さなど、様々なところにその理由を求められるし、朝廷にある者として、丁秦たちに反省すべき点も多い。
だが、今は過去を反省する時ではない。
力なき者に発言力と影響力が伴わないことは、時代を問わぬ普遍の現実であり、皇帝にせよ丁秦にせよ、これまでその現実を嫌になるほど実感してきた。
「力がほしい」
それこそが、皇帝や丁秦たちの望みだったが、思わぬところで、その「力」を持つ道が開かれた。
馬参による洛陽焼き討ちという大逆罪を清算する賠償として、涼が朝廷に支払った10万の金を使い、正真正銘の漢の軍を作る。
自前の軍があれば、これまで曹操や呂砲の庇護の下で細々と存在してきた漢も、堂々と「漢」の軍旗を掲げながら勢力拡大競争に参加できるようになる。
そうなれば、漢はもはや、誰かの傀儡だった過去とは完全な決別を果たせるばかりか、自らの力で中華を再統一し、漢の中興を果たす道すら出てくるのだ。
皇帝は、暫く無言だった。
息を潜めて待つ丁秦には、大袈裟な物言いでなしに、それが無限の時間のようにも思えた。
やがて、皇帝は丁秦に向かって、手を差し伸べた。
丁秦は恭しく、そして万感の思いとともに、勅書を皇帝に手渡した。
━━洛陽。太守府
帝都の警護を任務とする官職・執金吾。
普段からその装束は煌びやかだが、甲冑姿となっても、それは同じ。
「官に就くなら執金吾」と、若手将校たちが憧れるのも納得できるほど、その佇まいは人の目を引く。
だが、今、洛陽の大通りを軍馬で駆ける執金吾・黄忠は、その煌びやかな甲冑とはまったく別の面で、人々の注目を集めていた。
「おのれっ!…………おのれっ!!」
そう叫びながら軍馬をけしかける姿は、それだけで十分に異様だった。
途中で一人、不幸な兵を蹴り倒しつつ、黄忠が駆る馬は、太守府に到着した。
憤然と馬から降りた老将は、その豪奢な建物の中へズカズカと押し入っていく。
警護の兵たちは、一々誰何するようなことはしなかった。
洛陽守備軍の将たちが続々と太守府に到着する最中ゆえ、黄忠がやってくることは織り込み済みだった。
そうでなくても、この老将の気性の荒さは、猛将揃いの涼軍の中でも飛び抜けたものとして認識されている。
明らかに不機嫌、いや、怒り狂っていると見て取れる今、下手に声をかけたりしたら、怒鳴られるだけでは済むまい。
「執金吾様、御来居!」
中に向かってそう叫ぶことでもって、警護の兵たちは、自分の義務の遂行とした。
華キン、王塁、潘璋、袁胤。
太守府の執務室には、既に洛陽守備軍の主たる将や謀臣たちが揃っていた。
もちろん、洛陽守備軍の総司令官にして、帝都太守の男も。
その男に対し、黄忠は怒鳴り声をぶつけた。
「郭図公則―っ! 貴様、一体どういうつもりだっ?!」
普通の人間なら、それだけで竦み上がる怒声。
だが、当の相手は、すました顔で黄忠を見ると、いつもの冷めた声で迎えた。
「遅かったな、執金吾。おぬしが一番最後だ」
一人だけ椅子に座っていた郭図公則は、ゆっくりと立ち上がると、黄忠の胸に人差し指を突きつけた。
「将一人ひとりが、総大将の命令に迅速に応えられてこそ、軍は立ち行く。その年になって、まだ解さぬか?」
「おまえがわけのわからん命令を出し続けるからだっ!」
郭図公則の右手を荒々しく払い、黄忠は叫んだ。
「弘農への出撃準備の次は、北門と西門の警備! そして今度は、急ぎ太守府に集まれ、だと?! 人を顎で使うのも大概にせい!」
黄忠の言葉に、居並ぶ将の何人かが頷いた。
彼らが「今夜、弘農に向けて出撃する。大至急準備にかかれ」と命じられたのは、今日午前のこと。
部下たちを叱咤し、わずか半日の準備で出撃という無茶苦茶な命令に何とか目途を立てたところで、今度は洛陽の四門や主要通り、主要建物を厳重に警備せよ、という新しい命令が届けられた。
確かに洛陽の警備は、洛陽守備軍の最大の任務ではある。
しかし今、洛陽には、町費や公孫讚、董承、それに呂砲の部隊がいるではないか。
にもかかわらず、なぜ叛乱軍攻撃の任を与えられた上、なおも洛陽の警備を、しかも普段より厳重に行わなければならない?
「部隊は現状維持のまま、各部隊長は太守府に至急集合せよ」
さらに、そんな人を見下すような命令が届いたのは、守備軍の将たちが混乱しながらも、隷下の部隊を何とか警護任務に就かせた直後のこと。
今朝からの一連の郭図公則の命令は、たとえ短気な黄忠でなくても、頭にくるのも当然だった。
だが、やはり郭図公則は、涼しい顔をしていた。
「少しは落ち着け」
黄忠らの怒りの元凶たりながら、郭図公則はその自覚すらないような顔で、言った。
「皇上の勅使が参っている。非礼になるぞ」
「なに……?」
黄忠以下、洛陽守備軍将たちの動きが止まった。
勅使が来ている?
驚く彼らに一々説明する理由も認めぬかのように、郭図公則は進んで下座に就き、腰を折った。
わけがわからぬまま、慌てて黄忠たちも倣う。
それを確認したところで、執務室の中にいた郭図公則の主簿の抹丹が部屋から出て行った。
そして、すぐに戻ってくると、「勅使様、御成りにございます」と告げた。
平伏する郭図公則らの前に現れたのは、丁秦だった。
努めて無表情の丁秦は、懐に入れていた上質な紙を開くと、「卿らに皇帝陛下の勅を授ける」と宣言した。
郭図公則らは、反射的に床に額をつけた。
軽く頷いた丁秦は、厳かに皇帝の“意志”を言い伝えた。
「朕、洛陽太守に命ず。逆臣呂砲の首級を挙げ、天下に正義を示せ…………以上、皇帝陛下の勅である」
勅使の丁秦は、長居はしなかった。
ただ、「皇上は卿らの忠義に大いに期待されている」とだけ告げて、部屋から出て行った。
暫しの平伏の後、最初に立ち上がったのは郭図公則だった。
無言のまま、座に腰掛ける。
しかし、他の将たちは、動くことができなかった。
涼王を、殺せ。
突然下った皇帝の勅、そしてその内容に、誰も頭がついていかなかった。
「おぬしら。いつまでそうしているつもりだ?」
平伏したままの洛陽守備軍の将たちに、やや苛立った声で郭図公則が言った。
「早速だが、各々にやってもらうことがある。面を上げてもらえるなら、指示も出しやすい」
「た……太守殿、暫く!」
最初に声を発したのは、洛陽守備軍の軍政官を勤める王塁だった。
「これは、一体如何なることで?! 涼王の首級などと…………突然…………これは一体…………!」
「聞いた通りだ。皇上は、呂砲の首を求めている」
郭図公則は意識的に、いつもの冷たい声で応える。
「納得できません! なぜゆえ涼王を害さねばならぬのです?! 涼王が漢の忠臣として、これまで数多くの功績を挙げてきたことは、天下にも広く伝わる事実! 忠臣を害するなど、正気の沙汰ではありませんぞ!」
「控えよ、王塁。おぬし、皇上の御意志を何と心得る。恐れ多くも、勅に異議を立てる所存か」
「欺瞞な物言いはやめられい! これは謀略…………いや、叛逆だ! 貴殿は涼七同志という顕職にあり、ましてや他の何者よりも涼王からの大恩を受けてきた身ではないか! それを仇で返すおつもりか!」
憤りで顔を真っ赤にする王塁を見て、郭図公則は秘かに舌打ちをした。
2年前、洛陽守備軍の構成員を選抜する際、郭図公則はその能力はもちろんのこと、いざ決行する段になって、この謀事に加わる素養があるかどうかを重要な条件とした。
王塁を選んだのは、元々この男が「漢朝への忠義が篤い」と評されていたためであり、勅さえ出れば必ずなびくだろうという目算に立ってのものだったが、どうやら今では、皇帝より呂砲の方にその忠義が傾いたものとみえる。
「私は確かに涼七同志の末席を汚す者である。だが、それ以前に、この国を統べる大漢の臣である。ひとたび、一天万乗の君からの御下命あれば、万難を排して従うが臣の取るべき道と心得ている」
郭図公則は胸を張り、王塁を見据えた。
「勅命を拒むは大逆。とは申せ、その罪を裁くはお上であり、私ではない。よって王塁。おぬしにはしばし、謹慎してもらう」
「何が大逆だ! 何が謹慎だ!」
王塁はわめいた。
「逆臣とは誰ぞや?! おぬしではないか! 裁かれるのは私ではなく、おぬしだ! 皆々様、今すぐこの大逆人を引っ捕え……わ……わ! な、何をするか! この無礼者めが!……」
王塁の糾弾は、音もなく執務室に入ってきた兵たちによって、強制的に終了させられた。
執務室から強引に退場させられる王塁にもはや一瞥をくれる意志もなく、郭図公則は残った洛陽守備軍幹部たちを見渡した。
「私は皇上の御意志にお応えすべく、粉骨砕身働くのみである。各々は勅に従うかどうか、今すぐ明らかにせよ。おぬしらが私を逆臣と見るなら、是非もなし。命は取らぬが、王塁同様、謹慎してもらう。そして、歴史が移りゆく様を傍観しておれ」
残った幹部の表情は、様々だった。
眉を寄せて何事が沈思しているのは、華キン。
不安そうに左右に目をやっているのは、袁胤。
ふてぶてしい目付きで郭図公則の視線を受けて止めているのは、藩璋。
そして、一切の感情を無くしたかのように、まったくの無表情でいるのが、黄忠。
郭図公則は超然と彼らの顔を見渡すが、実は脇に噴き出す嫌な汗を感じている。
自分の能力に自信を持っているとはいえ、すべてを一人でこなすことはできない。
王塁が舞台への“登壇”を拒んだ今、残る彼らが謀事に参加しないと、策の遂行は一気に困難なものとなる。
そんな郭図公則の不安を押しのけるように、侍中の華キンが最初に口を開いた。
「太守殿に伺いたいが、よろしいか?」
謀臣として郭図公則も一目を置いている華キンは、郭図公則が頷くと、佇まいを正してから尋ねた。
「太守殿はいつから、かような策を温めておられたのか?」
ある意味、この計画の根幹に繋がる、核心を付いた問い。
郭図公則は内心、顔をしかめながらも、表面上はニヤリと笑って見せた。
「勅を受けたから、動いた…………と言っても通じぬな」
「左様。洛陽の要地すべてに兵を配置させ、それが完了した頃合に勅が下る。これを偶然と考えるほど、私は暢気ではない。さらに言うと」
華キンは、欺瞞は一切許さぬ口調で続けた。
「洛陽守備軍を動かす契機となった、弘農の謀叛だが、これはまったくの虚報か、あるいは太守殿が弘農太守をそそのかしたものと推測するが如何?」
「虚報ではない。後者が正しい」
腹を据えた郭図公則は、あっさりと認めた。
この男を相手に下手に言い逃れをしても、かえって逆効果だ。
開き直って押し進めるしかない。
「いずれわかることだから、今のうちに付け加えておこう。此度の壮挙は、洛陽一都市のみにて決行するものではない。弘農は勅でもって、我が指揮下に置かれることとなる。長安も」
「長安?」
さすがに華キンも目を剥いた。
「副都にまで手を出していたと?」
「あと、私の命に従うかどうかは別として、いくつかの都市が涼の楔から離脱する可能性がある」
「…………具体的にどの都市のことを言われる?」
「襄陽。成都。武都。長沙」
「……………………」
「おお、そうだ。忘れるところであった。なお、この壮挙においては、燕が後ろ盾となることが決まっている」
「……………………」
華キンは額に手を当て、軽くよろめいた。
他の幹部たちも、程度の差こそあれ、似たような反応を示した。
「遠大なる策を目論んでおられるようだが」
何とか気を取り直した華キンは、再び質問に戻った。
「太守殿の最終的な目的は何でありましょうや? そのこと知らざれば、我らとしても身の振り方を決めかねますが」
執務室の中の空気が、ピンと張り詰めた。
策の目的。
郭図公則が何を意図して、このような大それた叛乱を決行しようとしているのか。
あまりに急激な事態の展開に、華キンですら混乱しかかっていたが、この質問を避けて通るわけにはいかない。
幹部たちの視線が、郭図公則に集中する。
「私が兵を挙げる理由は、二つある」
ここが正念場、と認識した郭図公則は、意識して背筋を伸ばし、ゆっくり幹部たちを見渡した。
「一つはやはり、漢朝の将来を危惧してのこと。確かに呂砲はこれまで、至尊の座への野望を明らかにしたことはないが、その言動の節々に、朝廷を軽んじるものが見受けられる。朝廷への敬意を抱かぬ者は、忠臣となりえぬばかりか、いったんきっかけがあれば、必ずや簒奪の挙に出る。それを未然に防止することが、第一の…………いや、表向きの理由だ」
華キンが苦笑を浮かべた。
もとより、郭図公則のような男が、「漢朝復興こそが我が本意」などと言ったとしても、信じることはありえなかったが、ここまで正直に告げられると、笑う以外にない。
「もうひとつの理由。まあこれが、我が真意というわけだが…………おっと、そういえば最初の問いにまだ答えていなかったな。私が涼王への叛旗を考えるようになったのは、三年ほど前からだ」
「ほう?」
華キンに代わって、部将の藩璋が皮肉っぽい声を上げた。
「勅という後ろ盾が出たにもかかわらず、“叛乱”であることをお認めになるので?」
「認める。一応表向きは、逆臣誅殺のための挙兵ということで通すが、おぬしらは私が漢の忠臣とは微塵も思うまい?」
対する郭図公則は、あっさり応えた。
「永安義挙から10年弱で、涼は中華の半分を領した。これだけ大きな勢力となった以上、残る半分を制圧するのに、もはや10年も必要とはせぬ。そう考えた時、思い至ったのだ。中華の騒乱を平定した後、私はどうなるのだろうか、と」
「ああ、あれですか。狡兎死して走狗煮られ、高鳥尽きて良弓しまわる……」
「もっと端的に言うなら、敵国破れ謀臣滅ぶ、だな」
郭図公則は自嘲気味に笑った。
「張良のように、隠者気取りで晩年を過ごす手もあるが、世捨て人となるには、私は俗人に過ぎる。何より私には、失いたくないものがある」
「現在の地位や名誉?」
「そんなものが大事なら、そもそもこのような博打は打たぬ。ひたすら涼王の側近として、尻尾を振っておれば足りる」
「では、何です?」
「謀臣として過ごす、時間だ。おぬしに置き換えるなら、将として実力を発揮できる時間、ということになるかな」
「…………」
「自分で言うのも何だが、私は謀臣としての自分の能力には自信を持っている。そして、謀臣として策を巡らす時にこそ、生きているという充実感を抱くことができる。だが、その能力を発揮できる時間が、残り10年もないと悟った時、考えたのだ。もっと長く、このような時間を過ごしていたい。そのためにはどうすれば良いか、と」
「ここで叛乱を起こせば、中華の統一はさらに先のこととなり、自分の能力を発揮できる機会も続く……そういうことですかな?」
「要約、感謝する」
「太守殿に対してこういう言い方も何ですが、実に馬鹿げた理由ですな」
「長安の郭嘉からは、『救いようのない愚か者』と言われたよ」
「魏公の元腹心の見立てならば、間違いなくそうなのでしょうな。しかし、わざわざ長安まで行かれたので?」
「このような隠密を要するやり取り、余人や書状で済ませられるものか」
「郭嘉は何と?」
「彼奴は余命幾ばくもない。騒乱とは無縁の長安で、名前だけの『軍師』として死に行くというのも、あれほどの男にしてみれば、実に物足りない最期だ。そのことは、彼奴も自覚していた。最期の一華を咲かせるべく、この壮挙に加わることを承諾した」
「壮挙ね。それがしには、暴挙としか思えませぬが」
「失敗したら、確かに暴挙だな」
「壮挙とする成算はおありか? それがしとしては、太守殿の妄想に付き合うよりは、ここで太守殿の首を挙げた方が確実に恩賞に繋がるように思えますな」
「それはかまわぬが、誰から恩賞を貰うつもりだ? 首だけとなった涼王に、支払い能力はないと思うが?」
「…………もう、首級を挙げたので?」
「先ほど、少府がここに到着した段階で、我が手の者を出した。もう間もなく、首が届くだろう」
「手の早いことだ。しかし、王司徒の董卓暗殺の例もある。事後、立ち行かなくなる謀事は、壮挙とは成りえませんぞ」
「だから、手を打った。まずは、勅。勅があれば、官軍としての名目が立ち、味方を募るのも容易となる。そして、おぬしらも知っての通り、これは果たせた」
「他には?」
「友軍。事を起こすだけなら、洛陽単独でもかまわぬが、この状態を維持・拡大させるには、味方がいる。それが長安、弘農、そして燕というわけだが、これも果たせた」
「まだありますか?」
「涼王の首」
「やはり、そうなりますな」
「事が明らかとなった後、おそらく馬参あたりが、怒りに任せて仇討ちの軍を起こすであろう。しかし、頭目たる呂砲が死ねば、涼は間違いなく分裂する。そうなれば、涼軍をそのまま引き継ぐことはできぬから、馬参もせいぜい数万を吸収できるかどうかだろう」
「第三軍が許昌の第一軍と組めば、かなりの強敵になると思いますが」
「希代之にも楔は打っている。うまくいけば、こちら側に取り込めるかもしれぬ」
「筆頭軍師が太守殿と手を結ぶなど、想像できませんな」
「私は五分五分だと思っているよ。確かに私と希代之の間に信頼関係があるとはいえぬが、あれはあれで、涼王への反発心を抱いている。そして、彼奴が抱く漢朝への忠義。これらが彼奴の決断にどう影響を及ぼすかだな」
「他人事のように言われますなあ。太守殿の言からは、余り切迫感が感じられませんが」
「第三軍はそもそも、業β攻めの傷が癒えていない状態だ。第一軍も、軍兵の半分は還行で洛陽に来ており、今の兵力では許昌の守備で手一杯。これらに多少の兵が付いても、洛陽守備軍に長安、そして燕の連合軍で相対すれば、撃退することはさほどの難事ではない。そして、一度撃退されたなら、もはや馬参も、仇討ちの軍を洛陽に向けることはできぬ。周りは洛陽軍だけでなく、魏や燕、そして敵か味方かもわからぬ涼の残党で埋め尽くされているからな」
「第二軍はどうです? あそこの七同志、吾玄や袁奉もなかなかの戦さ巧者と聞いておりますが」
「第二軍は洛陽から離れ過ぎているのに加え、今は吾玄と袁奉が軍を二分して対立している。ここまで遠征することはできまい。むしろ私の挙兵を契機に、吾玄も独立の道を選べばいいと期待しているところだ」
「吾玄までもが叛旗を掲げるのですか?」
「いや。これは私の願望であって、根拠はない」
「そうは言われるが、揚州の事情にもお詳しいですな。まさかとは思いますが、その第二軍の分裂とやらも、太守殿の仕業で?」
「細作を動かした」
「…………何のために?」
「私の邪魔をさせないために」
飄々と己の謀略を白状する郭図公則に、藩璋は大きな溜め息をつき、宙を見上げた。
呆れるほどに念入りな根回しを知るにつけ、藩璋は郭図公則につくか離れるか、揺れているようだった。
その損得を計算するかのように、藩璋は目を閉じた。
「挙兵に至る太守殿のお考え、そして策の概要はわかりました。しかし、まだ釈然としませんな」
再び華キンが口を開いた。
「ただ謀臣として生きていきたいというだけなら、私としてはお付き合いしかねる。明確な展望もない御仁を、上司と仰ぐことなどできませんからな。そこでお伺いするが、太守殿は今後、どの勢力に属し、その伸張に貢献したいとお考えなのでしょうや?」
「申し訳ないが、実はまだ、決めかねている」
郭図公則は苦笑気味に言った。
「『漢』の旗を掲げ、涼の国是たる漢朝復興の志を乗っ取るか。あるいは燕公を押し立て、新しい世を打ち立てるか…………まあ私はまだ、皇上はもちろん、燕公とも面識がない。会ってから決めるというのでは駄目か?」
「選択肢はそれだけですかな?」
「ん? まだ他にもあるか?」
「自ら覇者となり、天下に号令するという道…………如何です?」
「…………」
華キンの指摘に、今度は郭図公則の方が黙り込んだ。
これほど様々な手を打ってきた郭図公則ではあったが、自分が勢力の盟主になるという選択肢は、毛ほども考えたことがなかった。
「考えていない」
暫しの沈黙の後、郭図公則ははっきりと言った。
「私が望むのは、謀臣としての地位だ。君主になりたいとは思わぬし、そもそも自分はその器ではないと思っている」
対する華キンは、皮肉っぽく尋ねる。
「しかし、皇上に燕公、そのいずれも仕えるに値せぬとわかったなら、その後はどうするおつもりで?」
「どちらかの下には、つく。これは間違いない」
郭図公則は応えた。
「私は別に、涼王に不満があったから、この挙に出たわけではないし、天下に号令したいわけでもない。繰り返しになるが、今の乱世を継続させ、一日でも長く、謀臣として生きていきたいだけだ。だから、漢と燕、私を高く買ってくれる方に肩入れすることになると思う」
「なるほど。良くわかりました」
頷いた華キンは、一歩前に出ると、恭しく腰を折った。
「侍中・華キン、太守殿に従うことをお誓いいたします」
華キンの言葉に少し驚いたように、郭図公則は目を見開いた。
「おぬしが共鳴しそうなことを口にした覚えはないのだが」
対する華キンは、ニヤリと笑って見せた。
「太守殿が総帥の座を志向しているのなら、とてもこんな暴挙には加われません。しかし、太守殿が己の器を自覚しているとなれば、私としては由、です。少なくとも、確実に失敗する策ではない」
「褒められているのか、貶されているのか、よくわからんな」
「褒めているのですよ。ああ、そうだ。事が成就したら、相応の恩賞と官位をいただけるのでしょうな」
「それは約束する」
「期待しましょう」
「藩璋。おぬしは如何する?」
華キンを篭絡した郭図公則は、損得勘定中の藩璋の方を向いた。
呼びかけられた藩璋は、郭図公則の腹の底を探るような目つきになって、言った。
「前金をいただきたいものですな。恩賞の」
「おぬしが金に目がないことは知っているが、そこまで明け透けに言うか」
「払っていただけるので? いただけないので?」
「いくら欲しい?」
「金1000」
「そこに飾ってある龍の方壷でも持っていけ」
「これはまた、おどろおどろしい壷ですなあ。金は頂けないので?」
「挙兵となれば、金はいくらあっても足りぬからな。その壷なら、市場に出せば金1000以上の価値がある。自分で換金しろ」
「よろしいでしょう。後は、働きに応じた恩賞。そして三品官の俸給もお願いしたい」
「わかった」
「おっと、忘れるところだった。涼王の所有せし駿馬・日静を賜りたく」
「ああ、あの稀代の種牡馬な。涼王は洛陽に連れてきていたのか?」
「あの見事な青鹿毛は、多数の駿馬の中にあっても一際目を引きますから、すぐにわかりました。是非、それがしに頂きたい。日静の子は高くで売れる」
「許す。勝手に奪って、馬商いに精を出せ。まだ要求はあるか?」
「後は…………思いついたら、またお願いしてもよろしいか?」
「おぬしが私の命令通りに動くのなら」
「動きましょう。涼王の下にいるよりも、太守殿の下にいる方が、金になりそうだ」
守銭奴との交渉を成立させた郭図公則は、今度は部屋の隅の方で小さくなっていた袁胤に声をかけた。
「袁胤。おぬしは?」
話を振られた袁胤は、驚いたように飛び上がった。
この男、抜け抜けと皇帝の座に就いた叔父と異なり、かなり気が小さい。
それでも、几帳面な性格ゆえ、兵站面の仕事を安心して任せられる面を郭図公則は買っていた。
「わ……私は……」
落ち着かない表情で目をキョロキョロさせた袁胤は、チラリと黄忠の方を見た。
「執金吾殿の御判断をお伺いして、それから決したいと思います」
「……ということだが」
侮蔑の表情をかろうじて隠して、郭図公則は黄忠に呼びかけた。
「黄執金吾。おぬしはどうする?」
全員の目が一斉に、入室時以外は一貫して無言を通している老将軍の方へ向けられた。
膂力、そして兵の統率力において、黄忠は抜きん出たものを持っている。
この老人が加わるかどうかが、挙兵の成否に大きな影響を及ぼすことは、ここにいるすべての者が認識していた。
そして、腕を組んだまま仁王立ちしている黄忠は、なかなか口を開かなかった。
そんな黄忠に、郭図公則は返事を促すようなことはしなかった。
ただ、念を送っている。
加われ、と。
長きに渡って、今回の策の準備を張り巡らしてきた郭図公則だったが、これまで黄忠に媚びへつらったことは一度もなかった。
この誇り高い老将に、そのような手は逆効果だと思っていた。
だから郭図公則は、黄忠に対しては常に本音で接してきた。
衝突することも度々だったが、それでもその対応は変えなかった。
そして今、これまでの郭図公則の判断が正しかったのかどうか、答えが出る。
「郭図公則」
組んでいた腕を崩し、黄忠は見事な白髯をさすり、言った。
「赤壁の役の折、馬超の軍船で開かれた軍議を覚えているか?」
ようやく口を開いた黄忠に、郭図公則はいつもの冷たい声で応えた。
「私とおぬしが言い争いになった軍議のことなら、覚えている」
黄忠もまた、友好的とは程遠い口調で続けた。
「あの時は、何と傲慢不遜な者と驚いたものだ」
「私は、何と聞き分けの悪い老人だと呆れていたよ」
「その後もわしとおぬしは、度々衝突してきた」
「根本的なところで、そりが合わぬのかもしれんな」
「この洛陽守備軍は、此度の挙兵を前提として編成したものだな?」
「そうだ」
「ならば、なぜわしを将として選んだ? こんな馬鹿げた企みに、わしが乗るとでも思ったのか?」
「乗るかどうかは、その時になってみなければわからない。二年前は、そう割り切った」
「ここで自分の素っ首が刎ねられるかもしれぬ、ということも覚悟の上だったのか?」
「そこまでは考えていなかったな」
「先を見通す術に長けたおぬしとは思えぬ言葉だ」
「強い軍とするには、要となるべき将が必要となる。それだけのことだ」
「フン。阿れば、わしがなびくとでも思ったか」
「私はこれまで、おぬしに対しては常に本音で物事を言ってきたつもりだ。私の言を追従と取るかどうかは、おぬしの器の問題だろうよ」
突き放すような言い方に、黄忠は再び沈黙した。
そして、郭図公則の言葉を吟味するように、じっと目を閉じている。
そんな黄忠に、郭図公則は初めて、訴えるような声で言った。
「此度の策は、強い軍なくしては絶対に成功せぬ。私は、この策を失敗させたいとは思っていない。そして、涼に名を連ねる将たちを見回した時、私にはおぬし以外の将を見出すことができなかった。だから、おぬしを洛陽守備軍に迎えた。つまり」
不本意そうに、そして少し照れたように、郭図公則。
「私はおぬしを必要としている。そういうことだ」
ピクリ、と黄忠の肩が揺れた。
白髪と白髯の間から見える黄忠の耳が、みるみるうちに赤くなった。
「それで?」
やがて、大きな溜息をひとつ吐いてから、黄忠は言った。
「わしは何をすればいい?」
この瞬間、“涼の洛陽守備軍”は、“洛陽軍”へと変わった。
「既に我が洛陽軍は、洛陽の要所を押さえている。これから、我らの側につくかどうか定かならぬ者、そして排除しなければならぬ者の身柄を押さえる」
にわかに室温が上昇した感のある執務室で、郭図公則は興奮を抑えながら、言った。
「すなわち、大史農、右将軍(町費)、武威将軍(公孫讚)。そして、涼王だ」
━━洛陽。公孫讚邸
遅い刻限ではあったが、公孫讚はまだ、起きていた。
数十人の武装集団が突入してきたのは、公孫讚が部隊に関する報告を受けている最中だった。
手塩にかけて育ててきた自分の副官が、わけもわからぬ内に武装兵たちに滅多切りにされる。
公孫讚には、それが現実のものとは思えなかった。
「洛陽守備軍改め洛陽軍部将・潘璋と申す」
そう名乗る首領と思しき男が、公孫讚の机の上に剣を放り投げた。
「高名なる貴殿が、名もなき雑兵に切り殺されたとあっては、余りに気の毒。一騎打ちをするには狭すぎる部屋だが、それがしがお相手仕る。剣を取られよ」
「な…………な…………」
突然の展開に、公孫讚は泡を食ったようによろめきつつも、何とか己の足で立ち上がった。
「なんだ一体! わしを涼第一軍の公孫讚と知っての狼藉か!」
「貴殿の素性は知っている。あともうひとつ、知っていることがある」
そう言いながら、潘璋は自分の剣をゆっくり抜いた。
「聞くに貴殿、許田にて不遜な振る舞いがあったそうだな。為に少府が、この壮挙への貴殿の参入を望まなかったらしい。気の毒だが、身から出た錆と諦めてもらおう」
そう言うなり襲い掛かってくる潘璋に、公孫讚は慌てて机の剣を取った。
公孫讚とて、幾多の戦場を渡り歩いてきた男。
老いたりとはいえ、膂力には自信がある。
しかし、甲冑をまとった潘璋に対し、公孫讚は平服だった。
装備の違いが公孫讚をして、剣を操る一手を及び腰なものとさせた。
最初から殺意に溢れている潘璋にしてみれば、そんな相手を切り伏せるのに、困難はなかった。
「公孫讚配下の将校は全て捕らえろ。抵抗したら、殺しても構わん」
大の字になって倒れている公孫讚の首を切りながら、潘璋は部下たちに命じた。
「そして、この首。太守府に持っていけ。わしは暫く外すからな」
どちらへ?という部下の問いに、潘璋は「厩舎に行って、お宝を分捕ってくる」と答えた。
皇帝を司る中華の首都だけあって、夜であっても洛陽にはおびただしい火が灯されている。
そんな明るい洛陽の大通りは、今やものすごい数の軍兵が走り回り、将校たちの怒声が響く異様な光景となっていた。
「戒厳令、発令―!」
将校の叫び声が聞こえる。
「民どもは皆、家に戻れ! 従わぬ者は斬るっ!」
騒がしいことだ、と潘璋は笑った。
兵はもちろん、将校たちもまた、自分たちが何のために慌ただしく走り回っているのか、その理由を知らない。
夜が明けた頃になって初めて、自分たちがもはや、“涼の軍”ではなくなったことを知るのだ。
当たり前と思っていたこれまでの後ろ盾が、まったく異なるものへと変わる。
それを知った時の将校たちの衝撃を想像すると、潘璋はおかしくてならなかった。
(まあ、それにしても)
愛馬を厩舎の方へ走らせながら、潘璋は思った。
(叛乱とは何と、心騒がす楽しいものであることか! 莫大な恩賞に加え、稀代の名種牡馬・日静までも手に入れることができるのだから!)
潘璋は、口元に浮かぶ笑みを抑えることができなかった。
【死亡】公孫讚(以後は後方都市にて飼い殺し)
/郭図公則 |
|
![]() 丁 秦 |
・ ・抹丹 |