波紋〜その二〜
━━許昌。仮王宮
元涼州牧・馬騰が、玉座の呂砲と対面している。
静かな中にも明確な意志を示している馬騰に対し、呂砲は途方に暮れた顔をしている。
頭の中で言葉を組み合わせながら、呂砲はなだめるように語り掛けた。
「おぬしは確か、51歳であったと思うが」
「それがしなどの齢をお覚えいただけるとは、恐縮にございます」
「おぬしと同い年の馬参は、第三軍団長として、ますます意気盛んであるのだぞ」
「彼の御仁の軒昂なる意気は、まこと涼の誉れと存じます」
「はぐらかすでないわ。かつて涼州牧として覇を誇ったおぬしとは思えぬ」
「もはや牧などという分不相応な官職に縛られる身ではございませぬ」
「そうだ。今のおぬしは西涼の牧ではない。涼の、そして漢の忠臣のはずだ」
「承知しております」
「天はまだ乱れておる。おぬしの力を欲しておる……にもかかわらず、なぜ隠遁したいなどと申すか」
馬騰はこの日、公職の身から引退したい旨を呂砲に伝えに来ていた。
「殿下は十四州の半分から戦火を収め、さらには皇帝陛下を庇護されました。今後は涼の軍旗を掲げるのみで、賊は霧散し、民はこぞって糧食を差し出し、殿下をお迎えするでありましょう」
「そんな簡単なものか。魏に呉に燕。我らが陛下を庇護したからとて、安々と尻尾を振るタマではない。戦さはこれからも続くのだぞ」
「御意。戦さは終わってはおりませぬ。されど、終局へと向かいつつある、と存じます。これからは次の世代の者たちの仕事。老兵は去るのみにございます」
「馬参やら黄忠やら厳顔やら公孫讚やら張燕やらが怒るぞ。いずれもおぬしと同年か、あるいは年長。しかし、現役として頑張っている」
その言葉に、馬騰は詫びるように頭を下げた。
結局呂砲は、馬騰の引退を承諾した。
「超、鉄、岱の三人を何とぞよろしくお願いいたします」
愛する次男の死に打ちひしがれた男は、その言葉を最後に退出した。
「体を大事にな」
そう告げる呂砲の口調は、しらけた感情もあらわな投げやりなもの。
歴史の表舞台から退場していく男の背は、年齢以上に老けて見えた。
━━洛陽。長史府
漢朝復興宣言の布告文と、呂砲から長史に送られてきた手紙を読み返しながら、長史は暗然とした気持ちを禁じ得ないでいる。
漢朝復興宣言事体は、まだよい。
まだ刻が満ちていない。そう考えれば収まりもつく。
だが、布告文に遅れて届いた呂砲の手紙は、そんな長史の淡い期待を粉々に打ち砕くものだった。
「大涼宮などという不遜な名称を皇宮に付けるとは、余を大逆の徒に仕立て上げる所存か」
「即刻『大漢宮』と改めよ。そして、陛下をお迎えするにふさわしい居城として、金に糸目をつけず、さらなる拡張を進めよ」
「荘厳なる大漢宮の完成こそが、余の皇帝陛下への忠心を示すものと心得よ」
叱責の手紙だった。
(私の目指すところは、殿下のそれとは見当違いの方向を向いているのだろうか)
長史の悩みは、まさにそれだった。
新しい世をつくりたい。
その一心で呂砲を支え、あの郭図公則と張り合ってきた。
だが、呂砲の手紙は、そんな長史の努力と熱意を完全に否定するものだった。
呂砲に新しい世―涼王朝の世―をつくる気がないのであれば、自分が涼の長史として洛陽に留まる理由はない。
(確認しなければならん。殿下の御意志を)
しばし、その方法を模索していた長史は、大涼宮建設の責任者を呼び付けさせた。
蘇越という名の責任者はすぐに飛んできた。
工事の進捗状況について、蘇越は平伏したまま答えた。
「周辺の工事はほぼ完了しております。しかし、肝心の宮殿の方がなかなか」
「やはり、棟梁か?」
「御意。荘厳なる大宮殿ともなれば、それ相応の大木にあらざれば、その用をなしませぬ」
「他の当ては? その後、見つかっておらぬのか?」
「八方手を尽くして捜しておりますが、やはり、躍龍潭の神木に代わるものはないかと」
洛陽から三十里。躍龍潭。
そこには高さ十余丈に達する千古の梨の木が立っている。
その脇には、漢朝を祭る小さな祠があり、梨の木が「漢の神木」と呼ばれる所以となっている。
「ほかに当てがないのなら、仕方あるまい。躍龍潭の大木を使うぞ」
「し、しかし……二百年余にわたって漢朝を守護してきた神木なれば、切り倒そうものなら、その……」
「祟りがくる、と申すか?」
「……御意」
「安堵せい。おぬしらに一太刀目を任せるつもりはない。やんごとなき身分のお方が、最初の一伐をお加えなさる」
「は、はぁ……。やんごとなき身分のお方とは?」
「おぬしが知る必要はない」
漢朝の神木への第一伐を、呂砲にやらせる。
その時に示す呂砲の対応でもって、判断する。
下野するかどうかを。
「それとな」
恐れ入っている蘇越に、長史はさらに命令した。
「『大涼宮』の名称を『大漢宮』と改めよ。これは涼王殿下の御命令である。よいな」
「はっ。直ちに」
「それともうひとつ」
これが本題というように、長史は足を組み直す。
「大漢宮に改めるにあたって、宮殿を拡張する。造営計画を全般的に見直し、近日中に報告書を提出するように」
「ははっ……えっ?」
かしこまった蘇越は、長史の言葉の内容を反芻し、眼を剥いた。
「そ、その儀はしばらく! ここまで来て計画を見直せば、時間はもちろんですが、費用もとんでもないものとなってしまいます!」
「費用は心配ない。増税で対処する」
「増税! しかし、現行の計画でもかなりの額となっておりますが……」
「やむをえまい。皇帝陛下直々の御命令だ」
「こ……皇帝陛下の」
「今は乱世ゆえ、と涼王殿下はお諌めになったのだがな。皇上の命令とあれば、そう強くも反対はできぬ」
長史は蘇越に笑いかけた。
「民に過酷とわかっていても、皇帝陛下の御命令とあれば、喜んで受けなければならない。宮仕えの身とはつらいものだ。おぬしもそうは思わぬか?」
━━許昌。町費邸
町費隊の士長は、ニコニコ顔で恩寵の甲冑を高価な絹で磨いている。
町費が「もう十分にきれいですよ」と声をかけても、「陛下から賜った甲冑にございます。磨き足りるということはございません」と取り合おうとしない。
「それにしても、複雑な気分はいたしますぞ」
顔だけ町費の方を向いて、士長。
「この甲冑を羽織って戦場に立つ殿のお姿。ぜひ見てみたいものではございますが、殿は何かと無茶をなさいますからなあ。この美しき甲冑も、次の戦さが終わった折りには……」
士長のぼやきに、町費は苦笑した。
こと膂力に関して言えば、並みの武将に過ぎない町費だが、戦場では常に、「勇猛」と「無謀」の境界線を行ったり来たりしている。
洛陽解放戦における軍令違反はその典型的例だったし、明らかに自分より強い敵将への一騎打ち申し込みも、二度や三度の話ではない。
そういうわけで、戦さが終わった時の町費の甲冑は、その損傷度合いにおいて、「第一軍の切り込み隊長」廖衛とタメを張る。
「この甲冑には、賊徒を殲滅し、漢朝の威徳を世に知らしめるべし、という陛下のお気持ちが込められています。戦場で使ってこそ、陛下の御意志に応えるものでしょう」
町費の軽い反論に、士長は甲冑を磨く手を止め、頭を下げた。
「や、まことおっしゃる通りにございます。恩寵の甲冑に雌雄一対の剣! 次の戦さが楽しみでなりませんぞ!」
許昌の戦役での戦功で、いくらか借金も返済できた(完済には程遠かったが)。
それに、恐れ多くも皇帝陛下から声をかけていただき、甲冑まで賜った。
そしてさらに、涼王の漢朝復興宣言。これで、自分の上司が、さらにその上司に刃向かう理由もなくなった。
今の士長は、ここ最近になく幸せだった。
もっとも当の町費本人は、そこまで呑気にはなれなかった。
(漢朝復興宣言……本当なら嬉しいが、どうもうそ臭い)
呂砲が一度は皇帝の位への野心を抱いたであろうことに、町費は確信を持っている。
一度抱いた野望をそう簡単に捨てられるものだろうか、と考えた時、とても呂砲の宣言を手放しで信じる気にはなれなかった。
(廷臣殿と一度会っておくべきかもしれぬ)
幸せ一杯の士長と対称的に、町費の顔に安堵の色が浮かぶことはなかった。
━━許昌。皇宮
廖衛とやりあった廷臣と、先の戦いを機に涼に帰順した董承が、密談をかわしている。
「馬騰の引退? それが如何した?」
「車騎将軍は、彼の者を存じませぬや?」
「騎馬の扱いに優れているそうだな」
「さような些少なことにあらず。彼の者、周公旦に勝るとも劣らぬ忠義の士。事起こりし折りには、必ずや陛下の心強い味方となったであろう人物」
「事起こりし、とは……穏やかでないぞ」
「おっしゃる意味がわかりませんが」
「涼王は漢の復興を宣言したばかりではないか。平地に乱を起こすような言は、陛下の臣として慎むべきであろう」
「将軍。初めて陛下に謁を拝した時の曹操は、如何ような人物に見えましたか?」
廷臣の指摘に、董承は反論できなかった。
「呂砲がいつ心変わりをするか。いや、あの漢復興宣言ですら、己の野心を隠すための欺瞞とも思えます。凶事となる前に、あの者を除くべきです」
「しかし、涼王……いや呂砲を除いたとしても、また別の者が漢室の威光を脅かすだけではないのか」
弱音をはく董承だったが、廷臣はこれを一喝した。
「陛下の義兄ともあろうお方が、何故ゆえ他者を当てにされるのか! さような弱腰の姿勢が、今の漢室の危機を招いたのではございませんか!」
車騎将軍の身ではあったが、董承はこの熱い血をたぎらせる廷臣には、どうも口応えできない。
「まあ確かにな……以前わしは、曹操を退けるに、亡き韓公の力を借りようと考えたこともあったが……今思えば、劉備殿が曹操に取って代わるだけの話だったかもしれぬ」
「郭、李カクを除くに曹操。曹操を除くに劉備、そして呂砲。野望のみに凝り固まった者に逆臣を除いてもらうなど、家に盗人を招くようなもの。今我らが倣うべきは、己の知謀であの董卓を退けた、王司徒の忠義にございますぞ」
司徒・王允。
洛陽、そして長安で暴虐の限りを尽くした董卓を、搦め手でもって誅殺した人物。
その杓子定規な性格ゆえ、賊徒どもに刻み殺される羽目となったが、この際それは関係なかった。
「だが涼は強いぞ。最盛期の魏より多い都市を押え、兵力も100万を超えている。これにどう対抗する?」
「涼そのものに対抗する必要などないのです。狙うは呂砲の首、ただひとつ」
「というと?」
「呂砲には子がおりませぬ。呂砲が死ねば、後継者のいない涼は、そのまま分裂します」
「おお、そうであった! 涼の大きさに目を奪われ、そんな初歩的なことも忘れておった」
「呂砲に次ぐ実力者の七同志にしろ、すべて同格の士。勝手に合争い、自滅するでしょう。その間に我らは兵を奪い、これを元に叛徒を成敗し、漢の威光を十四州に知らしめるのです」
「兵を奪う……うむ、今の我らには自由に使える兵がないからな」
「だからこそ、多くの兵を有する者を味方につけねばなりません。そしてそれは、我らが扱いやすくあるためにも、陛下のお膝元に近いところでなければならない……成都あたりの兵が呼応しても、短期的にはどうしようもありません」
「なるほど。陛下のお膝元に近く、かつ多くの兵を有している……上党にいる馬参はどうだ? 第三軍団長だ。兵も将も多い」
「あの者は呂砲に盲信する輩。漢に対し明らかに不忠。使えません」
「宛太守の馬超は? 馬騰の息子なら、期待もできよう」
「残念ながらその男、漢への忠義という素養は、親から受け継がなかったようです。また単なる匹夫にて、緻密な計には向きません」
廖衛との一件もあって、廷臣はいわゆる「武力型」武将に偏見を抱くようになっている。
「では、第一軍の町費と希代之はどうだ? 奴等に呂砲を誅殺させ、そのまま第一軍の兵を官軍に組み込めばよい。一石二鳥だ」
「彼の者たちに、呂砲を誅殺させることは考えております。ただ、そのまま官軍に編入するのは危険です」
「どういうことだ?」
「呂砲を殺した彼らを官軍として迎え入れれば、残る七同志は弔い合戦として、漢に宣戦するでしょう。下手を打てば、馬参や廖衛あたりが、陛下の身に危害を及ぼすこともありえます」
「そんなことを言ったら、何もできなくなると思うが?」
「あくまでも、呂砲を殺す兵と、陛下の兵は別であるべきなのです。我らの手管によって呂砲が死んだと知れてはなりません」
「つまり………希代之と町費は捨て駒ということか?」
さすがに董承は鼻白んだが、廷臣は目をそらすことなく言い放った。
「陛下の兵は、呂砲死後の混乱期に陛下をお守りし、かつ時期を見て涼や魏を討つべきもの。緒戦に失うわけにはまいりません」
「ま……まあ、第一軍のことは良いとして、だ」
咳払いをした董承は、難しそうな顔になる。
「馬参も馬超も希代之も町費も駄目となれば、いったい誰の兵を組み込むのだ? まさか、弘農の兵を当てにするとは申すまい?」
「弘農太守は陳蘭です。さすがにこの義挙の尖兵とするには、役不足でしょう」
「ではどうする? 状況が変わるまで待つとでも?」
「これ以上涼の勢力が大きくなっては、事を成すのも困難となりましょう。早ければ早いほどよろしい」
「しかし、御辺の言う条件に合致する者など………あ」
ここで董承は、ハッとしたように顔を上げた。
皇帝のお膝元に近く、多くの兵を有し、かつ有能。
難しい条件だが、適合する武将は、確かにいた。
ただ、強気一辺倒の廷臣も、さすがに迷いの色を見せている。
果たして、あの男を味方につけることができるだろうか?
これについては、自信をもって断言することはできなかった。
「洛陽太守………郭図公則か」
董承はうなり声を上げた。
━━許昌。廖衛邸
呂砲の漢朝復興宣言以来、廖衛は出仕もせずに、毎日酒ばかり飲んでいた。
副官の廖影が洛陽へ出張中のため、堕落した上司を諌めるのは、もっぱら主簿の仕事となっている。
「殿、お過ごしすぎにございますぞ」
だらしなく卓上の酒壷に手を伸ばす廖衛を、廖衛より二回りも小柄な主簿が一喝した。
叱られた廖衛はジロリと主簿を睨んだが、何も言わずに酒を煽る。
「そんなにあれが気に入らぬのなら、蔵にでも片付けておけばよろしいでしょう」
主簿が顔を向けた方向には、立派な甲冑が無残な態で転がっている。
皇帝との謁見から帰ってきた廖衛は、怒声とともに恩寵の甲冑を放り投げ、以来そのまま放っておいている。
「殿の皇帝への忠義云々とは関係のない品。着用する必要もありません。それに」
ふてくされたように杯を弄んでいる廖衛に、主簿は粘り強く声を掛け続ける。
「甲冑を賜ったのは、殿と軍師殿、町費将軍の御三方のみ。例の洛陽太守殿より箔が付いた、とお考えになれば良いのです。軍団長選挙にも追い風となりましょう」
軍団長選挙、という言葉に、ようやく廖衛は人間並の反応を示した。
もっとも、反応したというだけで、前向きな空気は一切帯びていなかったが。
「軍団長など、いまさら興味もクソもないわ」
廖衛の声は、鯨飲の結果、だいぶしゃがれてしまっている。
「いいか。そもそもわしが、軍団長になろうと思ったのはだなあ」
アルコール漬けで完全に座った目で、廖衛は主簿に絡み始めた。
「殿下を郭図公則からお守りするためだったのだぞ」
廖衛にとって最大の恩人は、少年時代、戦乱で死にかけていた自分を救ってくれた馬参。
次いで、自分を四品官にまで出世させてくれた呂砲。
その恩人たる呂砲を傀儡に押し立て、自己の権限を強めようと図っている者がいる。
途方もない規模の細作団を作り上げ、その情報網を基盤に確固たる地位を築いた男、洛陽太守・郭図公則。
いずれこの男は、涼の災いとなる。廖衛はそう信じている。
しかし、手強い相手だ。
武辺一本槍の廖衛があの男と張り合うには、己の力量にプラスした何かが必要だった。
その「プラスした何か」こそが、軍団長の地位だった。
七同志の諸将は、官位にこそ差はあれ、基本的に同格。
これは挙兵以来変わらない、呂砲軍の不文律。
しかし、軍団長という職務についている者は、明らかに他の七同志の上をいく特権を与えられている。
すなわち、攻略軍を意のままに扱うことができる、という特権だ(これには「仮節」の権も付随してくる)。
いわば軍団長とは、七同志の中でも限られた「超・七同志」なのであり、同格のはずの七同志にあって、「格上」と称せられるべき存在なのだ。
幸いなことに、廖衛が父とも崇める馬参も、軍団長の職にある。
郭図公則が何か仕出かそうとした折りには、軍団長の権限を持って、馬参とともにその野望を潰す。
その上で、呂砲が神聖不可侵たる皇帝の位に就けば、もはや郭図公則も好き勝手はできまい。
しかし、呂砲の漢朝復興宣言は、そんな廖衛の考えを根底から覆してしまっていた。
「わしは殿下の臣。異議を申し立てる気もないし、殿下の決定には従う所存だ。しかし!」
廖衛は主簿を、からむべき相手とみなしたようだ。
「あの漢朝復興宣言! これに託された殿下のお考えがわかるか?!」
「漢朝の忠臣として、その復興の尽力する、という意味にございましょう?」
「違うわ! 自らは皇帝の位には就かない、という意思表示なのだ!」
表裏一体で同じ意味とは思ったが、火に油を注ぐだけなので、主簿は黙ってかしこまった。
「殿下が至玉の存在となれば、あの郭図公則がどのような謀議を図ろうが、もはや手出しはできぬ! それなのに……ああそれとだ! ゲフッゲフッ」
せき込みながら、なおも廖衛の憤怒の叫びは続く。
「郭図公則以上にむかつくのが、あの廷臣だ! 曹賊から皇帝を解放したのは、やつら文官ではない。涼軍だぞ! にもかかわらず、人を人とも思わぬあの態度! 見ておれ、いつかケチョンケチョンに……」
折りよくそこへ、近衛軍関係の業務のために洛陽へ行っていた廖影が帰ってきたため、主簿は酔漢の相手から解放された。
「廖影、ただいま戻りました……ってこの酒壷の山はいったい?」
そこかしこに転がっている酒壷に呆れ返る廖影だったが、廖衛はそれにもかまわず、頼りになる副官にすがりついた。
「おおおお、廖影! よく帰ってきた! わしの話を聞いてくれ!」
廖衛はたった今主簿に話したことを、廖影に繰り返し訴えた。
「殿下のお考えでありますか」
廖衛のグチが一向に終わりそうになかったため、話が漢朝復興宣言に及んだところで、廖影はさりげなく合口を入れた。
「洛陽でそれを匂わすものを見ましたぞ。例の大涼宮ですが、表札を張り替えておりました」
「「表札を? どういうことだ?」
「はい。『大漢宮』となっておりました。自分は漢の忠臣であるという、殿下のお考えの表われかと」
不幸なことに、廖影は上司の現在の壊れっぷりについて、十分に把握していなかった。
廖影は、火に油を注いでしまったのだ。
直接酒壷を煽り、それを壁に叩き付けた廖衛は、散々悪態を吐き、暴れまわった挙げ句、大の字になっていびきを掻き始めた。
寝る子は重いというが、人一倍体の大きい廖衛を、人一倍小柄な主簿とともに抱え上げるのは、廖影といえどもかなり骨が折れた。
(士は己を知る者の為に死す。それがしが仕えるのは、漢でも涼でもなく、廖衛様のみ)
「副官殿! ちゃんと抱えてくだされ! 私が潰されます!」
主簿が泣きそうな声でそう訴えていたが、廖影は聞いていなかった。
(今後状況がどのように転ぶのか、わしにはまったく読めんし……洛陽太守様とのつながり、これまで以上に築くべきか)
もし廖衛が知ったら、怒鳴り声だけではすまないようなことを考える。
しかし廖影には、郭図公則が君側の奸であるとは思えなかった。
━━洛陽。太守府
「あの布告には少々驚きましたが」
細作頭の言葉に、郭図公則は苦笑した。
「私の読みもたいしたことはないな。中華の半分を領有した殿下だ。誰はばかることなく己の覇道に邁進するものと思っていたが」
「しかし、あれは本心でございましょうか?」
「とりあえず、希代之や町費をいなすための措置とは思うが……断定はできんな」
郭図公則は、手に持っていた上質の紙を卓上に放り投げた。
漢室復興を宣言する、呂砲の布告の写しだった。
「できれば殿下には、己の覇道を宣言してほしかったところでございます」
「そうなれば、確実に追い風となった」
「それの埋め合わせ、というものでもございませぬが、支援隊の者より献策がございます」
「支援隊? ああ、占いで人を殺せるとかほざいていた奴だな。まだ生かしていたのか?」
「変装の技も有しておりますゆえ、いずれ閣下のお役に立つものと思い……」
「よい。で、何と?」
「許昌の役で戦死した孔融に変装し、霊魂に扮して夜な夜な街を徘徊してみたい、と」
「なんだと? 何を狙った策だ?」
「それは閣下にお考えいただきたい、と申しておりましたが」
再び郭図公則は苦笑した。
郭図公則の細作団も大所帯となり、このような図々しい者まで名を連ねるようになっている。
「涼王が真の忠臣なら、孔子の末裔を切るはずがない、という噂を撒き散らせ。そうすれば、孔融の霊魂とやらも意味をなそう。今回の布告を喜んだ者が動揺するかもしれぬ」
「御意。さらに、城下を不安におののかせることも可能かと」
洛陽太守の郭図公則ではあるが、細作頭の言葉にあっさりうなずく。
今、そして今後。
洛陽城下が平穏であることは、彼の計画を遂行するに適当なものではなかった。
「なお、第二軍関係でございますが」
細作頭は、第二軍に潜り込ませている草からの報告書を郭図公則に手渡した。
「吾玄将軍と袁奉将軍への離間の計が、予想以上の進展を見せているようです」
不和は吾・袁両将軍のみに留まらず
第二軍は、ふたつの軍が敵同士として睨み合うかの如し
「十分だ」
満足そうに郭図公則。
「これで第二軍は障害とはなるまい。うまく事が運べば、どちらかの支持を受けられるかもしれぬ」
「御意。呉の女細作の件で、吾玄将軍と軍師殿とは微妙な間柄ですし。ただ、問題がひとつ」
そう言いながら、細作頭は顔をしかめる。
「報告書にもあります通り、呉巨を動かすため、草は閣下の名を出したとの由。呉巨の軍令違反は、やがて殿下にも報告として上がるとは存じますが、このままでは閣下も騒動に巻き込まれる恐れがあるかと」
騒動を起こした張本人のくせに、そんな自覚を一切漂わせずに、細作頭。
一方の郭図公則は、気にした様子もなく手を振った。
「いざとなれば、私自ら許昌へ赴き、殿下に釈明する。呉巨の弁ごとき心配するに値せぬ……で、次の報告は?」
「近々、涼全域を対象に増税が行われる予定です。かなり大規模なものとなる見通しにございます」
「涼全域に? 殿下はいったい何をなされるおつもりだ?」
郭図公則は首を傾げた。
今の涼で、早急に収入が必要な部署はないはずだった。
「いえ、涼王府ではなく、長史府が主管です。名目は、大涼宮の建設費用」
細作頭の返事に、郭図公則は再び疑問の声を上げた。
「それはおかしい。大涼宮は間もなく完成する。予算も足りていたはずだぞ」
「はい。しかし、手の者に調べさせたところ、名目及び使徒ともに、大涼宮造営用の税であると確認が取れております」
「ということは、増築だな。それもかなり大掛かりな」
「御意。完成目前での増築というのも、附に落ちませぬが」
郭図公則は顎をつまんで考え込んだ。
完成間近の増築など、普通では考えられない。
予算も余計にかかるし、何より民の不満も無視できないものとなる。
にもかかわらず、このタイミングで増築とは、長史はいったい何を意図しているのだ?
ここで郭図公則の脳裏に浮かんだのは、大涼宮の入り口に掲げられていた巨大な表札だった。
「そういえば、大涼宮は大漢宮と改められたのだったな?」
「はい。殿下からの叱責があり、長史殿もいやいやながらその表札を張り替えたとか」
三度郭図公則は、眉を寄せた。
斜陽の王朝の名を冠した大宮殿。それを大幅に増築する。民の怨嗟は当然出てくる。
たった今得られた情報と、長史の人となりを頭の中で絡み合わせてみる。
やがて、パズルの解答は完成し、郭図公則は手を叩いて笑った。
「長史め、食えぬ輩だ。民の怨嗟を、こともあろうに皇帝に押し付ける気だぞ」
民の怨嗟を皇帝に押し付ける。
その言葉で、細作頭も郭図公則のいわんとするところを察した。
「なるほど………いやはや。洛陽事件の時の対応といい、抜け目のない御仁ですな」
長史が編成を進めている細作団は、まだまだ恐れるべき存在ではないが、情報収集とは別の面で、長史は意外な手を打ってくる。
感心しながらも、細作頭はさらにその上をいくべく、郭図公則に献策した。
「しかしこの件は……閣下の計画でも使えるのではございませんか?」
郭図公則もそのことは考えていたのだろう。すぐに肯く。
「増税を布告してからだな。私から長史に……いや、殿下に直接問い質せば、効果も上がろう」
そこまで言って、郭図公則は急に黙り込んだ。
完成したはずのパズルだったが、新たなピースが頭に浮かび上がってきたのだ。
漢朝復興宣言直後、皇帝に民の怨嗟を向けるべく増税する。
果たしてこれは、長史の独断か?
あくまでも長史は、呂砲の意を受けたに過ぎないのではないか?
やがて、郭図公則は「ああ。これで合点がいった」と小さくつぶやいた。
「殿下の漢朝復興宣言な………あれはまやかしだ」
「は? 何と申されました?」
驚いて問い返す細作頭だったが、郭図公則の口調は自分自身に言い聞かせるものだった。
「間違いない。殿下は、漢朝を潰すおつもりだ」