抹陵攻略戦〜その六〜






━━抹陵、城門前。涼第二軍と魏軍
旧劉璋勢力の武将にあって、一、二を争う有徳の人物と称された黄権。
常に筋を通し、礼節を崩さず、自分より一回り年下で同郷の吾玄に対しても、部下としての立場をわきまえる。
吾玄と袁奉の仲が悪化した時、必死になってその修復に尽くしたこの男は今、ボロボロの軍装姿のまま、部隊指揮に奔走していた。
黄権に残された兵は、わずかに1500。
それだけの部隊でもって、まだまだ力を有している魏抹陵軍と戦っていた。
だが、背後から曹純の部隊が迫っていると知った時、さすがに黄権も死を覚悟した。
玉砕や討死など黄権の性分ではないが、かといって逃げ出すわけにもいかなかい。
そもそも逃げられる状況でもなかった。
愛馬を失い、徒歩で槍を振るっていた黄権は、まなじりを釣り上げて自分の命を断つであろう魏軍部隊を見据え――そして、目を丸くした。
自分の部隊を蹂躪するはずだった曹純の虎豹騎隊は、あと一駆けでその槍を振るう位置まで接近しながら、急速に回頭していく。
(な……なんだ?)
助かった、という認識より、動揺の方が先に去来する。
そしてその動揺は、すぐに驚きへと変わった。
立ち尽くす黄権の目が捉えたのは、急速反転する曹純隊。
そして、その曹純隊に襲い掛からんとする吾玄隊――その数、3700。
「四則!」
吾玄が巴守備隊司令官となり、その下についてからというもの、黄権は常に部下として吾玄に接してきた。
無意識とはいえ、吾玄を字で呼んだのは十数年振り。
幼少の吾玄に読み書きを教えていた頃以来だった。


なかなか突破口を開けない戦闘だったが、ここで軍師直属部隊を殲滅すれば、戦局は大きく動くはず。
瀕死の黄権隊を目前にしていた曹純は、何としてもこれを殲滅するという気概に燃えていた。
そんな絶好の獲物だったにもかかわらず、曹純は一斉回頭を命じた。
黄権隊を放置することに、ほんの一片の迷いもなかった。
軍師直属部隊と軍団長直属部隊。
どちらがより価値の高い獲物であるかは言うまでもない。
黄権隊目掛けて加速のついていた虎豹騎隊は、曹純の指揮のもと、鮮やかな方向転換を果たした。
目指すは涼第二軍総大将直卒部隊・吾玄隊。
「吾玄の首だ!」
曹純は叫んだ。
「賊の首魁は目の前だ!……奮えっ!」
応、という虎豹騎隊騎馬兵の声が、曹純の気合を後押しする。


“老人”と呼ばれる年齢となり、ただでさえ短気だった性格には更なる磨きがかかってきた。
それでも、軍師直属部隊が壊滅することの意味ぐらいは、厳顔も十分に理解している。
だからこそ、可能な限り黄権隊を支援する布陣を取り、奮戦してきたのだ。
「うがぁぁぁぁ!」
口から唾を飛ばしながら、得意の槍を振るう厳顔。
年が年なだけに、連日の戦闘でさすがに体力も落ちてきていた。
それをカバーするのは、気力と、戦争好きな性(さが)。
それでも、できることとできないことはある。
曹純隊が黄権隊に襲い掛かろうとしていた時、厳顔は夏侯惇、呂蒙、萠リ良の三部隊の攻撃を一手に引き受けていた。
声にならない声を上げたのは、もはや黄権を守り切ることはできないということを、本能的に察したため。
ゆえに、突如曹純隊が大回頭した時は黄権以上に驚いたし、その回頭の理由を知った時は大いに喜んだ。
「四則っ!」
疲れきった体に、ふたたび活力が戻ってくる。
戦場特有の高揚感を厳顔は感じていた。
「それでこそ軍団長じゃ! やってやれ! 暴れ回れ!……夏侯惇如き、わしに任せておけぃ!」


夏侯惇の声も弾んでいる。
「吾玄!……出てきおったな!」
戦闘前にあれだけ策を巡らしたにもかかわらず、戦局ははかばかしくなかった。
既に五部隊を殲滅される一方で、まだ涼軍の一個部隊たりとも潰していない。
思い通りにならない戦闘に業を煮やしていたのは、吾玄も夏侯惇も同じだった。
しかし、夏侯惇が最大の攻撃目標としていた吾玄が出てきた。
吾玄の隊は、これまでの戦闘で著しく消耗している。
総大将の部隊を撃破できたなら、戦局は俄然こちらに傾く。
「進めっ!……押しつぶせ!」
夏侯惇は絶叫した。
「若造の首、挙げるのは今ぞ!……厳顔など放っておけ!」


速い? 数が多い? 強い? それがどうした。
突進してくる曹純隊を前にしながら、吾玄が思ったことはそれだけだった。
関係ない。撃破する。
自分が率いているのは、儀杖用のお飾り部隊ではない。
敵の軍勢を倒すために存在する、戦闘部隊なのだ。
「全軍、構えっ…………『撹乱』!」
すれ違いざまの一撃。
どんな状況になっても――たとえ、熱くなっていたとしても――吾玄の「撹乱」の質が落ちることはない。
それは誇張でも何でもなく、永安防衛戦以来、吾玄が身を持って証明し続けてきた事実。
曹純隊の動きが止まる。
曹純が呪詛の声を上げる様が、吾玄には容易に想像できた。
だが、動きを封じられた曹純隊に打撃を与える余裕はなかった。
今度は、呉から魏に降った呂蒙の部隊がこちらへ向かってくる。
元孫策配下。
吾玄が戦意を抱くのに十分な理由だった。
「『撹乱』!」
素早い動きで中央と左右に展開した部隊が、一気に呂蒙隊をえぐる。
「呂蒙……混乱状態となっておりますぞっ!」
振り返りつつ、蔡瑚が叫んだ。
「もう十分です!」
蔡瑚は吾玄の隣りに馬を寄せ、泣きそうな顔で嘆願した。
「後退してください!……殿は軍師殿をお守りになられた!」
「言いたいことはわかっているつもりなのだがな」
二部隊を戦闘不能状態に陥れたにもかかわらず、吾玄の顔に喜色はない。
むしろ、まもなく自分の隊に降りかかるであろう未来を予測し、余計厳しい表情となっている。
「魏の連中に、我が隊を見逃す気はないらしい」
一瞬、蔡瑚は吾玄の言葉の意味がわからなかった。
意味を悟ったのは、土煙を上げた魏軍部隊が、こちらに接近してくるのに気付いた時だった。
吾玄が再び「撹乱」の陣形を作るより先に、あの部隊がこちらに攻撃を仕掛けてくるであろうことは、蔡瑚にもよくわかった。


曹純、呂蒙に続き、吾玄隊に襲い掛かったのは、魏軍師・魯粛の部隊。
「通常攻撃でいく!」
呉からの降将は叫んだ。
「吾玄隊は残り少ない!」
魯粛の攻撃で、約1000の兵が脱落した。
残り2600。
続いて、萠リ良の部隊が攻撃に加わった。
脱落700。残り1900。
そして、厳顔の必死の妨害を振り切った夏侯惇隊が動く。
「突撃」の陣形だ。


「備えよ!……方陣に組み直せ!」
命令する吾玄の声に、怯えの色はなかった。
ただ、「覚悟」の念は蔡瑚にも感じ取れた。
大きく息を吐いた蔡瑚は、黙って馬を吾玄の前に進めた。
「おい、副官……」
いぶかし気に声をかける吾玄。
蔡瑚はそんな上司に、緊張と笑みをないまぜにした顔を見せた。
「まず、それがしが先に死にます。殿はその後にお死にください……あの世への露払い、それがしが立派に果たしてみせましょう」
少なくともこの瞬間の蔡瑚は、郭図公則配下の細作ではなかった。
吾玄も笑った。
「任せよう」
緊張の色がまったくないところが、蔡瑚とは違っていた。
「おぬしの散り様、私がしっかり見届けてやる。安心して死ね」
安心して、死ね。
妙な台詞ではあったが、この時初めて、蔡瑚の顔から緊張が抜けた。
「はっ。安心して死にます」
蔡瑚もまた、純粋な笑顔になった。


夏侯惇隊は、まだ1万余りの兵を有していた。
厳顔を振り切るのに若干の時間と犠牲を要したが、突破してしまえば、涼軍総大将の首はもう目の前だった。
夏侯惇隊は熟練の兵ばかり。陣形の変更も手慣れたもの。
一方の吾玄隊も、練度の高い兵たちから成る。
夏侯惇の攻撃に備え、吾玄も素早く方陣を組み直す。
「さすがは吾玄だな……」
夏侯惇も素直に認めた。
自分が認めた敵手と戦い、これを打ち破る。
夏侯惇はそれを欲する。
吾玄隊、残り1900。
夏侯惇の「突撃」なら、一撃で殲滅することも不可能ではなかった。
戦局を変える。自分の手で。
自分でもよくわからない何かを叫びながら、馬を全力で走らせる。
実際のところ夏侯惇は、戦闘開始前から今現在に至るまで、「絶対に勝てる」と思ったことは一度もなかった。
挙兵から10年で中華の半分を席捲してきた涼軍の強さは、嫌になるほど伝え聞いている。
歴戦の将という自負はもちろんあるが、初めて戦う涼軍相手に盲目的に自らの勝利を確信するほど、夏侯惇は愚かではなかった。
しかし今、初めて夏侯惇は確信している。
(この戦さ……勝てるぞ!)
呉都・抹陵を陥とし、破竹の勢いで攻めてきた涼軍を撃退する、自分。
そんな未来が目前にあるという認識は、夏侯惇にとって嬉しいものだった。
ただ、夏侯惇にとっての至福の時間は、余りにも短かった。
異変を察知し、夏侯惇はハッと振り返った。
あり得ない方向から、あり得ない声が聞こえる。
あり得ない方向とは、後方。
あり得ない声とは、悲鳴と鬨の声。
別の部隊が夏侯惇隊に攻撃を加えていた。
目を血走らせながら、凝視する。
「袁」の旗印が見えた。
戦勝の栄光がスルリと自分の手から抜け落ちていく。
夏侯惇の心中に去来した想いは、それだった。


「封じたな?!」
袁奉が怒鳴りながら確認する。
「封じました!」
水兵隊長の応答も怒鳴り声だった。
袁奉はたった一撃で、夏侯惇隊を混乱状態に陥れることに成功した。
吾玄と同じく、戦法「撹乱」の使い手・袁奉。
下がりきっていた士気も、徐晃ら三部隊を撃破することでかなり上がっていた。
「このまま駆けよ!」
可能な限り多くの兵に聞こえるように、袁奉は叫んだ。
「北軍と合流する! 吾玄隊を支援するぞ!」


「袁奉隊!……袁奉隊が来ました!」
躍り上がる―という表現そのままに、蔡瑚。
「張任隊もいます!……その後ろには呉懿隊!……ああ、呉蘭隊もいる!……南軍は全部隊健在です!」
狂乱しながら蔡瑚が次々に部隊名を叫ぶが、吾玄はしばらく何も言えなかった。
(斬首の場に立たされた直後に特赦が降ったら、こんな気分になるのかな)
ボンヤリと思ったが、もちろんそんな想いに浸っていた時間は、ごくごくわずかだった。
「下がるぞ! 軍師にもそう伝えよ!」
将の顔を取り戻した吾玄は、すぐに命令した。
「このままでは南軍が自由に動けぬ……戦功は連中にくれてやれ!」
「御意ぃ!」
拱手しようとした蔡瑚だったが、そんな簡単な動作でさえ、まともにできていなかった。
今になって、手が震え始めていた。


南軍所属武将の呉蘭は、痛みに耐えながら愛馬をけしかけていた。
呉蘭の左腕の戦鞄は、血で赤く染まっている。
魏の連弩隊の攻撃で貫かれた傷だった。
とっくに矢は抜き、止血も施してはいたが、少しずつ意識が朦朧としてくるのはどうしようもない。
(まったく……なんだってもう……)
呉蘭は心中で悪態を吐いた。
矢傷は、徐晃隊殲滅後に受けたものだった。
徐晃という楯を失った連弩隊など、決して恐れるべき相手ではなかった。
それでも、無条件で敵がやられてくれるわけもない。
壊滅間際の連弩隊が放った一本の矢が命中したこと。そして、掃討の最中に負傷したという事実。
何とも腹立だしかった。
呉蘭がぼやく理由は、もうひとつある。
南軍に所属する四個部隊のうち、もっとも残兵が少ないのが、呉蘭の隊だった。
戦闘能力、布陣に関する資質、そして運。
これらの総合的な結果として、呉蘭隊は防波堤となっていた魏軍の集中攻撃を受けた。
現在、呉蘭に従う兵は4000余り。
とはいえ、特に気にすべき事態というわけでもなかった。
呉蘭の察するところではなかったが、軍団長の吾玄は1900、軍師の黄権に至っては1500にまでその軍兵を討ち減らされている。
それに比べれば、呉蘭隊はまだまだ十分に戦えるはずだった。


厳顔隊と張任隊がすれ違う。
「張任! 遅いわ!」
叫ぶ厳顔。
張任は槍を振り上げることでそれに応えた。
「まったく彼奴は……前の翻陽戦にしろ此度にしろ、いつもおいしい場面になってから現れおる!」
張任が聞いたら口を尖らせそうなことを言う厳顔だが、悪意があるわけではない。
「攻勢に転じるぞ! 戦功を得るのは我らだ!」
顎全体を覆った自慢の白髭は、土や返り血で無残な態となっている。
けっこう髭の手入れは大変なのだ。魏賊、生かしてはおけん。
厳顔は呂蒙隊を標的とした。
現在残っている魏軍部隊の中で、もっとも消耗している部隊だ。
しかし、最初に呂蒙隊への攻撃を開始したのは、あまり俊敏な動きとはいえない呉蘭の部隊だった。
厳顔はカッとなった。
「たわけが!……腰が入っておらん!」
戦功を他部隊に取られまいという気概もあったし、遅れてやってきた南軍への反発もある。
緩慢な呉蘭隊に対する怒りもあった。
「全軍、進め! 小童に本当の戦い方というものを見せてやるのだ!」
熱い武将の命令は、すぐさま部隊に伝えられ、そして行動に移された。
厳顔隊と呂蒙隊、そして呉蘭隊の距離が急速に縮まる。
「『乱撃』じゃ! 突き崩せっ!」


南軍と合流したとはいえ、そのまま後方で下がり放しでいるつもりは、吾玄にはなかった。
合流により、戦局は一気に涼軍へと傾いているが、まだ「傾いた」だけ。
この流れを決定的なものとするためにも、吾玄は戦うべきだったし、戦わなければならなかった。
もちろん、魏軍の反撃を避けることは大前提として。
その前提を満たす敵部隊がいた。
南軍の乱入により、他の魏軍部隊から隔絶される形となっていた萠リ良隊だった。
本隊から切り離され、抹陵城へも容易に逃げ込めない状態となった萠リ良隊は、明らかに動揺している。カモだった。
「奴に『乱撃』を仕掛けるぞ!」
命令一下、吾玄隊は陣を替え、萠リ良隊へと突進する。
吾玄隊同様、萠リ良隊を標的に定めた部隊が接近していることに気付いたのは、あと少しで最初の一撃が届く、というところだった。
チラリと旗印を見る。
「雷」の文字。北軍所属の雷銅隊だ。
「乱撃」は、時に味方にも損害を与えることがある。
とはいえ、もはや命令を変えられる距離ではなかった。
「チッ……」
舌打ちした吾玄は、祈るような想いでそのまま「乱撃」に移る。
一撃目は快心の痛打となった。萠リ良隊が揺らぐ。
二撃目は……再び萠リ良隊を襲って“くれた”。
しかし、浅い。さしたる損害は与えられていない。
そして三撃目。
思わず吾玄が目をつぶったのは、懸念していた通りのことが起こったため。
すなわち吾玄隊の放った「乱撃」が、雷銅隊を襲ったのだ。
「馬鹿野郎! こっちは味方だ!」
雷銅隊の兵が叫んでいるのが聞こえる。
そっと目を開けた吾玄は、「とりあえず」安堵の息を吐いた。
雷銅隊への誤爆となった三撃目もまた、浅い当たりだった。
「乱撃」に関する自分の技量が低いことを悔やめばよいのか、それとも安堵すればよいのか、今の吾玄にはわからなかった。
すぐさま、雷銅がこちらへ駆けてくる。
「ぐ、軍団長!」
さすがに雷銅の顔は真っ赤になっていたが、たいした被害が出ていないことは確か。
そもそも、今の吾玄隊はわずか1900だったし、ましてや失敗した「乱撃」ともなれば、その攻撃力などたかが知れている。
「すまぬ、雷銅。私の誤りだ」
頭を下げる吾玄に、慌てたように雷銅は首を振った。
「い、いや、気になさらず。軍団長」
雷銅も困惑と安堵で、よくわからない表情になっている。
「たいした被害もありませんし、それがしが軍団長の隊に気付くのが遅れたのも一因……。気を取り直し、このまま萠リ良を攻め立てましょう」
「うむ……雷銅、助かる」
取るに足らない同士討ちだった。
そのはずだった。




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