皇軍涼
━━許昌・皇宮
呂砲が皇宮に参内したのは、第三軍が業βで大敗を喫して間もなくのころだった。
ちなみにそれは、曹操が声明を出す前のことであり、すなわちこの時点では、呂砲も皇帝も、馬参がかつて董卓の配下だったという話を知らない。
「此度の敗戦は、偏に臣の不明によるもの。陛下の御威光を十四州に知らしめるという大儀を果たせず、ただただ、陛下の御寛恕を請うのみにございます」
頭を床に押し付ける呂砲に対し、皇帝はいつもの柔和な笑みで応えた。
「戦さをいたせば、百戦百勝とはいくまい」
皇帝は、頭を上げるよう呂砲を促した。
「涼王の忠義に朕は満足している。今後も漢のために働いてくれ」
「ははっ! ありがたきお言葉!」
呂砲はさらに深く、頭を垂れた。
「忠臣」を演じる呂砲だったが、その様を胡散くさそうに見つめている男がいる。
以前、町費に「雌雄一対の剣」を手渡し、廖衛と大舌戦を繰り広げた廷臣だ。
廷臣の官位は、九卿のひとつ、少府だった。
九卿は、三公の下で各職種の実務を担当する最高職で、現代ならば各省庁の大臣に相当する。
そして少府は、皇室の財政を取り扱う大蔵大臣。
儀礼に関係する「太常」、近衛部門の「光禄勲」などに比べ、表に出やすい役職ではないが、金を握っているだけに、九卿の中でも大きな力を持っている。
さらにこの男の場合、漢室に対する熱烈な忠誠心を、公私にわたって惜しげもなく発揮していることから、皇宮における影響力は特に大きかった。
皇帝に恭しく接する呂砲。
だが、それが赤心からの振る舞いとは、少府は思っていない。
(いつその本性を発揮するのやら)
涼王の態度は、欺瞞。
少府はそう断じている。
その片鱗が見えたなら、たとえ皇帝の面前であっても―いや、皇帝の面前でこそ―呂砲の大逆の意志を糾弾するつもりでいる。
そんな少府が自分を睨んでいると知ってか知らずか、呂砲はあくまでも慎ましく言上を述べる。
「此度の敗戦は、魏賊がまだまだ力を有していることを示しております。ここは指揮系統を一本化し、賊にあたることが肝要、と愚行いたす所存にございます」
「指揮系統の一本化……? 涼王の命にそぐわぬ軍でもあるのか?」
首を傾げる皇帝に対し、呂砲はさらに畏まって見せる。
「今のところ、さような軍はございませぬ。なれど、制圧地の拡大に伴い、臣の義挙の真意を知り得ぬ兵や将が増えることも、そう遠くない将来ありえるのでは、と憂慮いたしております」
「ほう……」
皇帝は、とりあえず肯いた。
呂砲が言っていることは、常識としては理解できるが、ここからどのような話を導き出そうとしているのかがわからなかった。
「陛下の御威光を十四州に知らしめること。永安での義挙以来、臣はそのことのみを考え、戦って参りました。そして陛下の御徳によりまして、十四州の半分が漢朝の支配下に戻りました」
「それは、涼王の忠義によるところが大きい、と朕は考えている」
「もったいないお言葉にございます……なれど陛下、恥ずかしながら、臣の徳は薄く、大きくなり過ぎた軍を統御するは手に余る大事」
「さような弱気なことを申すな。漢土の半分から戦火を無くしたのは、涼王の力によるもの。その涼王でもできぬとあれば、いったいどうなるか」
「ははっ! 陛下のご寝襟を悩ませたもうこと、その罪、万死に値いたします。臣砲、謹んで陛下の御処置を待つものにございます」
「ハハハ……そう大きく取るな。今や涼王は、漢朝の棟梁である。涼王を除くなど、進んで漢朝を揺るがせるものだ」
「さような優しきお言葉を賜るとは、臣は最高の果報者にございます!」
少府は、目眩を感じた。
なんという恥知らずな、見え見えの演技だ。
(呂砲が陛下の処置を待つというのなら、すぐにでも斬首とすればよいものを)
喉まで出掛かった言葉を、何とか封じ込める。
(一刻も早く、呂砲が逆臣であることを、陛下に御理解いただかねば……)
少府は、涼が許昌を解放する以前から、涼の危険性を察していた数少ない廷臣だった。
当時、皇帝を擁護していた曹操は、確かに皇帝を軽んじる部分があった。
それでも曹操は、長らく漢朝に仕えた家の出。
漢朝四百年の重みは肌で感じているはずだし、魏をそのまま漢朝に組み込むという道も取り得た、と少府は思っている。
しかし、呂砲は漢室とは縁もゆかりもない下賎の身。
「いずれ涼王は、漢朝に牙を向くに相違ありません」
少府は何度も皇帝にそう奏上した。
しかし、曹操という檻から解放されたばかりの皇帝は、この段階ではまだ、呂砲を「真の忠臣」と見なしていた。
皇帝の前で徹底的にへりくだる呂砲の態度は、皇帝の自尊心をくすぐるものだった。
「とはいえ、膨大な戦線を支え、膨大な数の将兵をひとつにまとめるのは、想像外の難事にございます」
呂砲は続けた。
「そこで、是非とも陛下の御威光でもって、軍をひとつに纏め上げたいと存じます」
「よい」
皇帝は肯いた。
「ほかならぬ涼王の頼みである。朕にできることなら、何でもしよう」
呂砲は再び、頭を床にこすりつけた。
呂砲が願い出たのは、皇帝の名において、涼の武将たちに爵位を授けることだった。
「これまで臣とその股肱たちは、陛下から頂戴した『涼』の号でもって、軍を進めて参りました」
「しかし中華の地は、涼王たる臣が席捲するには余りにも広大」
「また、巨大化した軍をまとめるにも、『涼』の号では重みに欠けます」
「そこで、是非陛下のお力をお授け頂きたく、伏してお願いいたす所存にございます」
「陛下より爵位を授かることができたなら、もはやそれは涼ではなく、漢の軍隊」
「皇軍とあいなれば、巨大化した軍もひとつにまとまり、そして将兵の士気も天を衝かんばかりに上がりましょう」
「さすれば、漢土の平定はなったも同然。ほどなく、騒乱鎮圧の報を陛下に奏上できるもの、と存じます」
皇帝は、呂砲の願いを受け入れた。
少府もまた、この場で反対意見を述べることはしなかった。
涼軍が、「漢」の軍旗を掲げる。
これは、軍の忠誠を呂砲から皇帝へと向けることに繋がる。
場合によっては、涼を漢に組み込む目処も立つかもしれない。
ただ、呂砲が無心した爵位の内容には、さすがに目を剥いた。
それは、呂砲の腹心たる七同志を、徹底的にえこひいきした内容だった。
三品官で洛陽太守の郭図公則は、四方将軍のひとつ、前将軍に任命された。
同じく三品官の町費が右将軍、袁奉が後将軍。
四方将軍は、中央軍の将軍、という意味合いが強く、実力重視で任命される。
これらはまだ、官位や実績の面からも許容できる範囲だった。
だが、他の七同志の爵位は、序列というものをまったく無視していた。
「なぜ廖衛が左将軍なのです?」
無心する爵位を書いた書面を読み上げる呂砲を、少府は絶叫で制した。
中断された呂砲は不機嫌そうな顔をしたが、かまわず少府は声を張り上げる。
「廖衛はまだ四品官のはず! 四品官の者を四方将軍に任ずるなど、前例がございませんぞ!」
「廖衛の勲功は、限りなく三品官に近い四品官」
素早く表情を消した呂砲は、平然と言い放った。
「ひとつかふたつの戦さをこなせば、すぐ三品官に昇進する。そのたびに陛下に将軍号を授与していただくというのも、多忙な陛下に無駄な負担を強いるものである」
「何を馬鹿な!……爵位の授与は、陛下の重要な御公務のひとつである! それを省いてあらかじめ上の将軍号を与えるなど、言語道断!」
「少府殿。皇宮から一歩外へ出れば、そこは騒乱の地なのだ」
叫ぶ少府に対し、呂砲は涼しい顔で言った。
「四百年に及ぶ漢室の歴史の中、育まれてきた伝統の重さ。それは十分に承知している。しかし、戦時において求められるのは、何よりも迅速さである。永安で義の兵を起こして、わずか十年。
たったそれだけの年月で我らが許昌に到達できたのは、偏にその迅速であるがゆえなのだ」
白々しい呂砲の態度に、少府は頭に血が上りかけた。
だが、皇帝がそれを制した。
「よい。涼王の申す通りでよい」
しかし、少府の神経を逆なでする呂砲の上奏は、それに留まらなかった。
「第二軍団長、吾四則……安南将軍」
呂砲の読み上げた言葉に、少府は我が耳を疑った。
四安将軍のひとつ、安南将軍。
いくつかの州の刺史を統率する方面軍司令官たる四征将軍と、防衛軍司令官たる四鎮将軍を補佐する立場だ。
四征、四鎮の各将軍号が二品官に授けられるのに対し、四安将軍は三品官の将軍号であり、同じ三品官たる四方将軍よりも、格上と位置づけられる。
しかし、吾玄は四品官。
さらに三品官への昇進が間もない廖衛と異なり、約一年間、対外侵攻をしていなかった吾玄は、当面昇進はないはずだった。
「第二軍の副将は、袁奉である」
当然食って掛かる少府に対し、呂砲はまたしてもすました顔で答えた。
「そして、袁奉は後将軍。軍団長が副将より下の将軍号とあっては、軍団の運営にも齟齬を生じるであろう」
常識から遥かにかけ離れた上奏だったが、またも皇帝の鶴の一声で収まった。
「筆頭軍師・希代英傑……鎮軍将軍」
希代之は四品官だが、鎮軍将軍は三品官の将軍号。
「いや、実はな」
またも絶叫する少府に、呂砲は照れ笑いを浮かべた。
「最初は太尉に、と考えたのだ……だが、いくらなんでもそこまでは、と思い直すことにした」
「太尉」と聞いて、少府は卒倒しそうになった。
政治を扱う司徒、土木行政の司空とともに、三公と称せられる太尉は、軍事を司る。
中央行政組織に常設される役職の最高位であり、名門中の名門でなければ絶対に任命されることはない。
「涼の軍事部門を統括しているのは、希代之である。涼軍が皇軍となる以上、希代之が太尉となることが、組織としてもっとも適していると考えた。だが、いくらなんでもそれは、なあ」
呂砲は無邪気な表情を浮かべたが、少府にはそれが、邪悪な笑みにしか見えなかった。
皇帝は、呂砲の奏上をそのまま嘉した。
この中には、二品官の韓遂を衛将軍に、三品官の馬超と張任を、それぞれ虎牙将軍と輔呉将軍にすることが含まれていたが、少府から見れば、それは付け足しに過ぎなかった。
なにしろ呂砲は、洛陽で涼の行財政を司っている長史を、大司農に任命することまで求めたのだから。
九卿のひとつの大司農は、国家財政を任される極めて重要な役職だ。
少府にしてみれば、出自もわからぬ男が自分と同格の九卿になった、というだけの問題ではない。
皇室財政を担当する少府と何かとぶつかりやすい職務に、呂砲の腹心が就くのだ。
この段階で、少府は呂砲の意図をようやく察した。
(呂砲は……漢を乗っ取ろうとしている!)
涼を漢に組み込むことを考えていた少府にとって、とんでもないしっぺ返しだった。
だが皇帝は、その人事すらも認めた。
曹操から解放されたばかりの皇帝には、呂砲が頼り甲斐のある忠臣と映った。
それは、郭・李カクから解放された時、曹操に抱いたものと同じ感情だった。
そのことに気付くには、皇帝の心は余りにも澄みきっており、そして、目は曇っていた。
「第三軍団長・馬叔遠……征東将軍」
馬参に関する上奏は、これまでの中では、もっとも分をわきまえたもの、と少府には映った。
七同志の中で最高位の二品官である馬参。
その官位からすれば、位三公に次ぐとされる驃騎将軍に任命することも可能だった。
「陛下の国舅たる董承殿は、車騎将軍にございます」
呂砲は皇帝におもねった。
「馬参は勇猛の将ではございますが、業βで敗れ、陛下の御宸襟を悩ませた咎もございます。如何に我が股肱とはいえ、さような者が陛下の国舅より上の将軍位とは、あまりにも恐れ多いことにございますゆえ」
プライドをくすぐられた皇帝は、気持ち良さそうに笑った。
曹操が馬参の正体をばらす声明を出したのは、呂砲が皇帝に謁見した三日後のこと。
少府は、この三日遅れの声明を呪ったが、すぐに思い直した。
(これは……使えるな)
皇帝の無節操振りを嘆いていた少府だったが、呂砲に対する戦意が、急速に盛り上がるのを感じた。