翻陽攻略戦〜その三〜 
涼の戦闘は速戦。何を置いても機動力重視。
自他ともに認める戦さ下手な呂砲だが、これだけは頑として譲らない、絶対不変の戦術だ。
疾風戦術で速やかに敵に接近し、包囲し、一部隊ずつ袋叩きにしていく。
不利になったら、行軍の速さを利して戦場から離脱。かつ他の部隊が、素早い行軍でカバーする。
もちろん、速さだけでは戦さには勝てない。
大量殺傷戦法の「突撃」、「乱撃」。敵の動きを封じる「撹乱」、「奇襲」。
これらの戦法を十分に習得した武将を中心とした部隊編制で、序盤から優位に戦闘を進め、そのまま押し切る。
これが涼軍の戦闘のパターンだ。
「翻陽の戦い」でも、それは忠実に実行されていた。
大火事による少なからぬ損害、計略「埋伏」による混乱と、確かに先手を取られた第二軍だったが、すぐにそれを切り抜け、呉軍を押しまくっている。
だが、その勢いも弱まりつつある。
放たれた矢は、呉正規軍を貫くには十分な威力を持っていた。
しかし、孫策、周瑜、孫権、魯粛、黄蓋などから成る10万以上の増援軍は、「ついでに」打ち抜くには、余りにも分厚い壁だった。
雷銅が高順隊を殲滅し、吾玄が周泰隊を押し返した直後、覆い被さるように増援軍が押し寄せてきた。
その圧倒的な勢いに、吾玄は目を剥いた。
数を頼んで呉蘭隊を押し包んだ増援軍は、そのまま呉蘭隊を消し去ってしまっていた。
呉軍の方から歓声が上がる。
その歓声が第二軍を揶揄するものへと変わるまで、それほど時間はかからなかった。
揶揄の対象は吾玄。
特に、ついさっきまで青息吐息だった正規軍の許貢隊は、躍り上がるように吾玄を挑発している。
「ほう……わしを笑う、か」
肩で息をつきながら、吾玄。その目は血走っている。
「横陣に組み直せ! 『槍衾』だ!」
「車懸」と並ぶ最強戦法「槍衾」。
涼軍武将の中で、これを使いこなせるのは、関羽ぐらいのもの。
吾玄にしても、その習得度は決して高いわけではない。
しかし戦闘というものは、「勢い」や「気迫」が加味される余地を多分に含んでいる。
ズラリと並んだ吾玄隊は、低い姿勢から突き上げるように、明白な意志を持って許貢隊へと突進した。
第一陣が崩し、第二陣がかき乱し、第三陣が止めを刺す。
「許貢ぉー!」
最初から最後まで先頭にあった吾玄は、恐怖に顔を引き攣らせている許貢に向かって突進した。
「笑ってくれたのう……わしを笑ってくれたのう!」
増援軍から、歓声と嬌声が止んだ。
3000以上残っていたはずの許貢隊は、一瞬にしてこの世から消え失せていた。
「見たか、孫賊!」
返り血で顔を赤黒く染めた吾玄は、許貢の首を高々と掲げた。
「我こそは涼第二軍団長・吾四則なり! 死にたい者は遠慮なくかかってまいれ!」
夜になった。
敵味方とも、夜襲に備えて最低限の警戒を敷いているが、基本的に休戦状態だ。
戦闘が始まってから10日。いずれも疲労の色は隠せない。
粗末な天幕の中で、吾玄は横になっている。
疲れ切ってはいるが、なかなか寝付けない。
神経が極限まで昂ぶっているのだ。
これまでの戦闘で、呉蘭のほか、雷銅と呉懿の3部隊が全滅している。
孟達と黄権の部隊も、そろそろ限界に近い。
砦に突入した張任と厳顔隊は、砦の装備を利用して呉の攻撃を退けながら、敵に手痛い損害を与え続けている。
頭が下がるのは、袁奉だ。
森の中を縦横無尽に駆け巡りながら、圧倒的数の増援軍を切りきり舞いさせている。
袁奉隊の活躍がなかったら、とっくに第二軍は中央から分断され、敗北を余儀なくされていただろう。
先ほど、袁奉の伝令が状況を伝えてきた。
「袁奉隊、依然戦意旺盛。増援軍主力は我に任せ、軍団長はよろしく敵正規軍の殲滅にその武を発揮されんことを」
頼もしい。
孫策、孫権、そして周瑜という強力な敵部隊を、たった一人で押さえると言っているのだ。
袁奉は大言壮語を吐く男ではない。とはいえ、揺るぎ無い自信ゆえの言葉ではあるまい。
袁奉隊以外に増援軍主力に対峙できる部隊はない、というのが実状だった。
(明日まで待ってくれ)
少しずつ意識が薄れていくのを感じながら、吾玄は戦友に向かってつぶやいた。
(明日、私もそちらに加勢に行く。ともに……孫策の首を……)
袁奉がそれを望むかどうかは別として、吾玄はそう決めている。
第二軍はこれまでに、朱治、賀斉、高順、周泰、許貢、蘇飛の6部隊を殲滅させている。
いずれも翻陽の正規軍だ。
残る敵正規軍は、太史慈、韓当、潘濬の3部隊。
第二軍の猛撃によって、そのどれもが相当な損害を被っている。
この3部隊を叩きのめせば、戦闘は勝ちだ。
それぐらいのことは、もちろん吾玄も承知している。
だが、頭ではわかっていても、心で理解を拒んでいるもう一人の吾玄がいる。
もう一人の吾玄。
斐妹を失ってからというもの、その人格は日に日に強くなっている。
「もう一人の吾玄」は、心の中で叫び続けている。
「孫呉の将兵を一人残らず殺し尽くせ」
「それが適わぬのなら、孫策だ。やつを八つ裂きにするのだ」
「孫策さえ殺せば、残りは烏合の衆。揚州制覇などたやすい」
「呉を滅するは、孫策を斬った後でもよい」
今、さほど離れていない距離に、その孫策がいる。
袁奉の足止めにあい、北戦場で動きを封じられている。
「孫策隊を壊滅させるのだ……さすれば、敵は戦意を失い、ほどなく退却する……孫策を殺すのだ……」
まだ、孫策隊は1万4000もの兵を有している。
対する吾玄隊はわずかに4000余り。
袁奉隊にしても、8000を切っている。
吾玄隊と袁奉隊が協力すれば、孫策隊を潰すことは決して不可能ではなかった。
しかし、それが達成したころには、張任隊も厳顔隊もまともな形では残っていないだろう。
そんな未来図は承知していた。
だが、少なくとも吾玄の心の中では、それとこれとは別だった。
すぐ近くに孫策がいる。
やつを殺せば、すべては解決する。
ならば、自分が取るべき手段はひとつ。
引っかかるものを感じつつも、自分にそう言い聞かせながら、まどろむ。
そのまどろみが途絶えたのは、天幕の外の兵たちの騒ぎ声だった。
「何事か?」
天幕から顔を出した吾玄は、護衛兵に尋ねた。
護衛兵は背筋を伸ばし、怪しい老人を捕らえたと報告した。
「老人? 近くに住む百姓ではないのか?」
「はっ。陣中を徘徊していた者にございますが、道士を自称しております」
「……呉の埋伏か」
「これより、取り調べを行うところにございます」
「ふん、おもしろい。わし直々に尋問してやろう。連れて参れ」
「はっ」
吾玄の口元に、残虐な笑みが浮かび上がった。
孫策を殺す前の生け贄だ。
明日、軍の先頭にその首を掲げるとしよう。
呆けたような顔をしていた老人は、吾玄の存在に気付くと、ハッとしたように振り向いた。
「ほう、貴方様でございましたか」
吾玄が口を開く前に、妙に納得したように老人は言った。
眉をひそめた吾玄は、何も言わずに胡床に腰を下ろし、老人を見据えた。
「気からして、ここらへんと当たりを付けておりましたが……いやはや、軍団長様が根元とは思いませなんだ」
ここは戦場だ。
ましてや、局地的には勝っているとはいえ、全体的に涼軍は劣勢を強いられている。
馴れ馴れしい老人の口調は、そんな極限状態にある吾玄の神経を逆なでするのに十分だった。
「言い残すことがあるのなら、聞いてやる」
抜いた剣を老人の首筋に当て、吾玄は冷たく言った。
「言い残すこと……でございますか?」
しわだらけの老人に、表情の変化は伺えない。
しかし、苦笑していることはその口調でわかる。
「修養の浅さが悔やまれますな。どうやら私は、将軍を怒らせてしまったようで」
「年寄りを斬ることは、決して本意ではないのだ。呉の間諜であってもな」
老人の態度にさらに殺意を募らせながらも、吾玄は平静を装った。
「自分は呉の手の者ではない……と申しても、無駄のようでございますな」
老人の口調は飄々としている。
一方の吾玄は、わずかに眉を釣り上げた。
「苦しまぬよう死なせてやる。その首は晒し物として使わせてもらうが、死んでしまえば別に関係はあるまい……さっさと申せ」
「さようですな……」
軽く顎をつまんだ老人は、軽く肯いた。
「私が言い残したいことは別にございません。ただ、かの者はあるようですな。その声を申し上げましょう」
老人は曲がっていた腰を伸ばし、言った。
「『申し訳ございません』と言っております。なんとも哀しい響きです」
「いまさら命乞いか?」
「私ではございません。あと『どうか以前の四則様にお戻りください』とも。将軍に呼びかけておりますゆえ、気にかけてやれば、かの女も喜びましょう」
女。その言葉に、吾玄は電撃を打たれたように硬直した。
「漢朝の崩れ行く様を見るなど、なかなか面白き人生にございました。最後は名将と名高い吾玄将軍に首落とされるとなれば、あの世へ行っても自慢ができますな」
「おい老人!」
「はい」
「今……女、と申したな?」
「申しました」
「わしをたぶらかす腹積もりか!」
「は?」
「呉の間者め、わしを動揺させようという算段か! 死してもなお、斐妹をこき使うか!」
「斐妹……でございますか?」
「しらばっくれるな! 呉賊!」
「言っても詮無きこととは存じますが、私は根無し草の道士。呉とは関係ありませぬ」
「貴様……なおも……!」
「揚州方面にて、極めて大なる陰の気を感じました。それを確かめんと参った次第」
「陰の気……だと?」
「はい。陰の気にもいろいろございます。憎しみ、怒り、妬み、悲哀……。吾玄将軍の気は、哀しき怒り、とでも申しましょうか」
「哀しき……怒り……」
「その女子、余程心残りと見えますな。死してなお、将軍の身を案じておるとは」
「お……おぬし……斐妹の声が聞こえると申すか? 斐妹の姿が見えると申すか?」
「将軍の申す女人かは存じませんが、女子の姿は見えます」
「斐妹はどこにいる!」
「将軍の真正面に立っております」
懐かしさ、愛おしさ、切なさ。
吾玄の胸中に去来した想いはそれら。
恐怖に類する感情はなかった。
斐妹が、ここにいる。自分を見つめている。
その女のために、1年間呉征伐を引き伸ばした。
生涯寄り添うため、軍団長という地位を捨てることすら考えた。
そんなかけがいのない斐妹が、今、ここにいる。
しかし、吾玄には何も見えない。そして聞こえない。
「斐……妹? 本当に……斐妹……か?」
かがり火が、激しく火花を上げた。
「将軍。その女子の言をお聞き入れになるべきです」
身動き一つしない吾玄に、道士は告げた。
「さもないと、このような姿でさまよい続けるなど、あまりに不憫……」
そこまで言って、道士は慌てて口を塞いだ。しかし、遅かった。
「不憫、だと?」
キッとなって吾玄は道士を睨み付けた。
「不憫とはどういうことだ?! 斐妹は……斐妹は今、どんな姿をしているというのだ!」
これまでとは別人のように口篭もった道士は、下を向いた。
そんな道士の肩を、吾玄は荒々しく揺さ振る。
「言え! 斐妹は今……どんな姿を……言わぬか!」
道士は、それでもしばらくは黙っていた。
口を開いたのは、諦観の念に苛まれたため。
「かの女人は……」
道士は、つぶやくように言った。
「全裸です…両手両足の爪がすべてありません…髪の毛が根元から引き千切られ…体中に殴られた痕と火傷の痕があります。そして……そして、右目がございません」
「かくも見事に陰の気が消えるとは……」
吾玄の陣を後にして、道士はつぶやいた。
「ま……これであの女子も、思い残すことはなかろうて」
夜が明けようとしている。
天幕から這い出してきた袁奉は、大きく伸びを打った。
昨夜は夜襲がなかったとはいえ、もちろん熟睡はしていない。
敵部隊は、指呼の間にあるのだ。
疲労が完全には抜けていないが、こればかりは仕方がない。
問題は、この状態があと何日続くか……いや、疲労困ぱいとなる前に、部隊が全滅する方が先かもしれない。
「袁奉将軍、おはようございます」
水兵隊長が現れた。
「ちょうど今、軍団長からの伝令が参りました」
「袁奉将軍にはご苦労なれど、引き続き呉増援軍の戦線突破を阻止されたい。自分は孟達、黄権と連動し、敵正規軍の殲滅に当たる」
伝令が伝えた言葉は、それだけだった。
水兵隊長が、首を傾げる。
事情を知らない水兵隊長には、わざわざ伝令を立てて伝えるべき内容とは思えなかった。
「承知した」
一方の袁奉は、満足そうな笑みを浮かべている。
「軍団長に伝えよ。一歩たりとも、孫賊の侵入は許さぬ、とな」
感情に任せて孫策隊に突入するようなことはしない―吾玄はそう言っているのだ。
ならば自分の為すべきことはひとつ。
張任や厳顔が敵正規軍を殲滅しやすいように、呉増援軍を徹底的に足止めすることだ。
袁奉は、怪訝そうな表情の水兵隊長に、晴れやかな笑みを見せた。
「韓当隊を叩く」
配下の兵を前に、吾玄は告げた。
「敵正規軍を打ち払う。我らの全力、その一点に振り絞るぞ」
元の自分に戻ることによって、斐妹は安らかな眠りにつくことができる。
ならば、どんな怒りであろうとも封印しよう。
それが斐妹のため。
自分が愛した女のため。
吾玄隊は前進を開始した。
先頭で騎馬にまたがる吾玄。
その口元は、真横に結ばれている。
11日目、涼軍5万2000に対し、呉軍は10万8000。呉正規軍の数は3部隊9000余り。
出征時、1万4000を数えた吾玄隊は、今では戦闘に臨める者4400、となっている。