抹陵攻略戦〜その三〜






━━抹陵城門前。魏軍
「まだ吾玄は現れていないのですか?」
寿春から増援軍を引き連れて参陣した満寵が、呆れたように言った。
「遅れてはならじと、必死で軍を叱咤して来たのですが」
涼軍が翻陽を発してから、既に8日が経過していた。
普通なら、侵攻軍と守備軍の間で激しい戦いが展開されている頃合いだ。
しかし、大雨による行軍の遅れと、涼軍が慎重に砦に接近したことによる時間的ロスのため、涼の戦場到着は遅れている。
そのため、守備側の抹陵軍と寿春軍が合流した今も、戦闘は発生していなかった。
「いや。現れておらん、というわけではない」
苦笑しながら、抹陵太守の夏侯惇が答えた。
「砦を放棄し、城門前で迎え撃つことにした。だから戦闘も発生していないだけの話だ。吾玄は間もなく現れる。それこそ形相を変えて、こちらへ向っている最中だろうよ」
「砦を放棄、でございますか。大胆ですな。吾玄も面食らったことでしょうが」
「わしの策ではない。魯粛……ああ、おぬしは初めてであったな。この者は魯粛。わしの軍師だ。砦放棄はこやつの策でな……魯粛、寿春の満寵だ」
「魯粛……殿? ああ、呉公配下だった、あの……」
やや戸惑った様子の満寵に対し、夏侯惇の背後に控えていた魯粛は、控え目な仕種で拱手した。
「魯子敬と申します。満寵将軍の御高名は、かねてから耳にいたしておりました」
「満伯寧と申す。それがしも貴公の名は聞いている。いずれ、戦場にて対峙するもの、と考えていたが……味方の軍師として相対するとはな」
「不満か?」
面白くなさそうに夏侯惇が問い掛けると、満寵は慌てた様子もなく、ゆっくりと首を振った。
「さようなことは……ただ、魯粛殿は魏公殿下の録を食むようになって、まだ日が浅い。その御仁に軍師職を務めさせるとは、ある意味、太守殿らしい大抜擢かと」
武将としての己の力量に自信を持っている満寵は、魏公の一族に対しても口さがない。魯粛の忠義への疑念を、満寵ははっきりと示した。
一方の魯粛は、何の反応も示さなかった。ただ泰然と、口を横に結んでいる。
「吾玄が11万の軍を率いてやってきている。部隊を任せられる者なら、一人でもほしいところだ。ましてや魯粛は、抹陵の地理や風土に通じ、軍略にも長じている得難い人物。使わぬ手はあるまい?」
眼帯を付けていない方の目を細め、夏侯惇は笑った。
「それに、魯粛は忠を知り、義を知り、そして孝を知る男だ。わしは全幅の信頼を置いておるぞ」
そう言って夏侯惇は、魯粛の方を見やった。
魯粛は、ビクリと体を動かし、夏侯惇を見つめ返した。
そして、はにかむ。
魏に降って以来、魯粛が初めて見せた笑顔だった。



━━砦より東の草原。第二軍
猛然と突っ走る吾玄隊に導かれるように、厳顔、雷銅の二部隊も東へと突進していく。
この三部隊の長に共通するのは、気が短いこと。
行軍の遅れは、吾玄らの神経をささくれ立てた。
思うままに軍を動かせない焦りと不満と苛立ちは、多くの兵を預かる身であればあるほど、余人には計り知れないほど大きい。
軍団長という立場を自覚しているだけに、厳顔や雷銅に比べれば、吾玄はかなり耐えていた(たとえ、蔡瑚や兵に怒鳴り散らす回数が日ごろより増えていたとしても)。
だが、最後には切れてしまったのも、致し方ないことだったのかもしれない。
さらに、無人となった砦の壁に書き殴られていた、「賊の大将吾四則。抹陵にて死す」の文字。
将の気持ちと感情は、兵たちにもすぐに伝わる。
「俺たちの大将がコケにされた」
“鬼の吾玄”の異名そのままに、すさまじい形相で馬を疾駆させる総大将の姿。
兵もまた、怒っている。
怒声を上げながら、14000の吾玄隊は、東へとひた走る。


その中にあって、何とか冷静を保っていた者は、副官の蔡瑚と軍察監の参露の二人。
もっとも、「冷静」とはいっても、あくまでも怒り心頭になっていない、というレベルの話であり、今の二人の感情を表すのにもっとも適当な表現は、「動揺」だった。
「いかん、我を忘れておられる!」
棹立ちになった馬を御しながら、参露が顔面を引き攣らせた。
「止めねば!……各個撃破されては洒落にならぬ!」
参露の脳裏に、業?で大敗した第三軍の惨状が浮かぶ。
業?の戦役では、突然暴発した軍団長馬参の突出により、6万もの兵が戦死するという大敗北を喫した。
このままでは、第二軍は第三軍と同じ轍を踏む。
「副官、おぬし何をしておるか!」
怒涛の勢いで走る吾玄隊の渦中にあって、呆然と周囲を見回している蔡瑚を、参露は思いっきり怒鳴りつけた。
「貴公、仮にも軍団長の副官であろうが! ボーッとしている場合か!」
大嫌いな男から叱責され、ようやく蔡瑚の眼の焦点が定まった。
「お、おぬしに言われずとも……」
キッとなる蔡瑚だったが、言葉が続かない。
細作として厳しい訓練を受けてきた蔡瑚は、槍や剣の扱いなら、そこらの校尉連中にも負けない自信がある。
それに目配りの効く性格から、吾玄の片腕として、軍の運営にも大きな貢献を為してきた。
しかし、用兵に関しては話は別だ。
訓練で非凡な部隊運用を見せる将も、異常な精神状態となる戦場では、まったくその力を発揮できないこともある。
最前線で戦う将に必要なのは、天賦の才と豪胆な性格。そして、これに経験が加わる。
天賦の才と性格は別として、初めて軍の一員として戦闘に臨む蔡瑚は、ここで自分は何を為すべきなのか、まったくわからなかった。
「しっかりせい!」
多少なりとも軍に加わった経験を持つ参露は、蔡瑚に比べればはるかに状況をわきまえている。
「軍団長殿の馬を止めるぞ!……貴公、それぐらいできるであろうな!」
「やかましい!」
怒鳴り返した蔡瑚は、愛馬の脇腹を強く蹴った。
軍団長の馬を止める。
今、自分が為すべきことを示された蔡瑚は、いつもの有能な副官の顔を取り戻した。
突然走り出した蔡瑚を、参露も慌てて追う。
「殿を両脇から止めれば良いのだな! それぐらいわかっておる!」
振り返った蔡瑚は、参露が言おうとしたことを逆に言い放った。
「……調子付きおって!」
舌打ちしつつ、参露も馬に気合を入れた。
重装備の吾玄に比べ、蔡瑚と参露は軽い甲冑を纏っている。
馬の行き足は、二人の方が速い。
懸命に馬を追い続け、二人はようやく吾玄の両側についた。
「殿!」
馬の鼻面を並べたところで、蔡瑚が吾玄を呼ばわる。
「殿、落ち着いてくださいませ! 我らは突出しております!」
「軍団長殿! いったいどういうおつもりか!」
反対側につけた参露も怒鳴る。
「仮にも軍団長という重職にありながら、この……ぬわっ!」
参露の言葉を制したのは、無言で吾玄が突き出した槍。
参露の目の前に急に飛び出し、そして引っ込んだ鋭い鉄の刃は、今度はそのまま蔡瑚の方に突き出される。
「と、殿!」
蔡瑚への槍は、正確にこの副官の顔を捉えていた。
寸でのところで顔を逸らして槍を交わした蔡瑚は、思わず馬の手綱を引く。
行き足が鈍った二人を残して、吾玄は再び駆けていく。
「まずい……」
危うく命を落としかけた事実よりも、近い将来、吾玄隊に訪れるであろう惨劇に、蔡瑚は慄然とした。
もはや、好き嫌いや体面にこだわっている場合ではなかった。
「軍察監!」
蔡瑚は、ある意味、魏や呉などの敵勢力よりも忌み嫌っている男の方を向いた。
「どうすればよい!……さっさと教えろ!」
忌み嫌っているのは、参露の方も同じこと。
しかし、参露も“事情”というものはわきまえている。
「隊をまとめろ! なるべくひとまとめに……特に軍団長殿の周りには強兵を配せ!」
「わかった! ほかには?!」
「ほかには…………たわけ! 少しは自分でも考えろ!」
「言われずとも考えておるわ! ええと……そうだ! 他の部隊にも連動を要請……いや、指令! 違う、指令じゃない、命令だ!…………伝令! 後方でのんびりしている部隊に、すぐ行軍に加わるよう命令しろ!」
それだけ伝えると、蔡瑚はもう参露の方を見ることなく、再び馬をけしかけた。
相手を見なかったのは、参露の方も同じだった。
こんな所で吾玄が戦死でもしてしまったら、話にならない。



━━抹陵山上。魏軍
乱世ともなれば、“数奇な運命”を享受する者は必ず出てくる。
魏軍の将・萠リ良もまたその一人だった。
萠リ良。字は子柔。荊州南郡の豪族だった。
孫策の父・孫堅に殺された荊州刺史・王叡の後任として、劉表が単騎で荊州入りすると、萠リ良は弟の萠リ越、そして有力豪族の蔡瑁とともに劉表を支えた。
ただ、その最初の段階で、萠リ良が活躍した余地は少ない。
萠リ良が献策した仁義による荊州統治は、兵を持たない劉表には魅力的とは映らなかった。
代わって劉表が採用したのは、各地の豪族の当主たちを謀殺し、その兵を吸収するという萠リ越の策。
荒っぽいと萠リ良には思われた弟の策は、実際問題として、名ばかりの刺史だった劉表を実力ある刺史へと成長させた。
萠リ良が活躍するのは、それからのこと。
特筆すべきは、荊州への侵攻を目論んだ長沙太守・孫堅を敗死させたことだ。
部将の呂公が孫堅の射殺に成功したのは、何よりもまず、萠リ良の確かな戦術眼と適切な部隊配置によるところが大きかった。
その後しばらく、荊州は対外的に安泰な時期を過ごす。
中原で曹操、袁紹、劉備、呂布らが覇権をかけて合争う中、袁紹寄りとはいえ、基本的に中立の立場を得ることに成功した荊州には、数知れぬ名士が流れ込んできた。
萠リ良は、文士の宋忠とともに彼らの保護に尽力し、それは「荊州学」として花開く。
繁雑な経書解釈を止め、経書の本義を平易に解明しようとするその試みは、「後(新)定五経章句」としてまとめられ、長く南の地に流布することになる。
「襄陽サロン」の形成に奔走していた萠リ良にとって、劉備の荊州出現は大きな分岐点となった。
西方の田舎町の永安で、呂砲なるゴロツキがわずか1万の兵で奇声を上げ始めて間もなく、中原の地を追われた劉備もまた、襄陽の隣り、上庸で旗揚げした。
旗揚げ後間もなく、劉備は劉表と会見する。
九つの都市を領有する荊州刺史・劉表と、痩せ細った都市ひとつを拠り所とする劉備。
この二人の間にどのような会話がもたれたのか、未だもって知る者はいないし、二人がともに故人となった今、それが明らかとなることはおそらくないだろう。
はっきりしていることは、劉備が荊州の全権を劉表から引き継ぎ、そのまま刺史を飛び越えて韓公へと上り詰めたこと。
そして、「対外不戦」を旨としていた荊州軍が、突如として好戦的集団へと変貌したこと。
自分が築き上げた襄陽サロンが、武辺者たちによって踏み荒されていく様に、萠リ良は呆然とするしかなかった。


ほどなく起こった孫策の紫桑侵攻は、呉軍の圧倒的勝利に終わった。
荊州に執着する理由を失った萠リ良は、あっさりと孫策に降り、孫策もまた、父を殺した萠リ良を許した。
江夏の戦役で、孫策は萠リ良の直接の上官だった黄祖を斬首としている。
それでもって父の仇討ちは終わった、と孫策は判断していたのかもしれない。
「揚州に名士を集めよ。襄陽のように、な」
天下を見据えるようになった孫策は、呉をただの武力集団で終わらせるつもりはなかった。
しかし、「呉文官・萠リ良」の運命は短かった。
民政を上げるため、萠リ良が派遣されたのは、魏領に接する最前線都市・寿春。
当時の寿春太守は、元袁術配下の紀霊だった。
この男、袁術が孫策に降伏を決した際、断固として反対した経緯を持つ。
そんな男を重要都市の太守に据えたのは、孫策なりの度量だったのかもしれないが、自分の夢と野望を打ち砕いた者の度量に応える義務は、少なくとも紀霊にはなかった。
萠リ良が寿春に派遣されて間もなく、紀霊は寿春ごと、曹操方に寝返った。
縛り上げられた萠リ良は、選択を迫られた。
魏か呉か。
萠リ良は、乾いた笑いを見せた。
自分の人生を、なかなか面白いもの、と受け止めた。
だから今、魏方の一将として、山上で涼軍の到来を待ち構えている。


「間もなく、吾玄が現れるはずです」
斥候の報告に、萠リ良は鷹揚に肯いた。
萠リ良隊の近くには、同じく寿春から増援としてやってきた曹真や紀霊の隊も、ジッと息を潜めて待機している。
「一撃目は必ず勝つな」
布陣を見渡し、萠リ良は一人つぶやく。
吾玄は、脇目も振らずにこちらへ突き進んでいるという。
前方に斥候を出すなどという、心の余裕も実際面での配慮もあるわけがない。
埋伏している紀霊隊の攻撃は、確実に吾玄の出鼻を挫くだろう。
そして、吾玄隊の動きが止まったところで、こいつをたっぷりとお見舞いしてやる。
萠リ良は、槍を置いて指令を待っている兵たちを見やった。
彼らの最大の武器は、槍ではない。岩石だ。
いずれも、一つ当りの大きさが人間の目方以上のものばかり。
そんな巨大な岩石が、効果的に雪崩落ちるルートを見極める目、そして多数の岩石をそろえ、ギリギリの高さまで積み上げる技術。
この両方において、萠リ良は隔絶した才能を持っている。
ただ待つ、という緊張感と閉塞感を、物見の兵の報告が吹き飛ばした。
「吾玄隊、現れました!」
迫り来る吾玄隊の姿は、萠リ良の目でも確認できた。
一瞬、背筋に寒いものが走る。
平地の先に見えた吾玄隊、その数14000。
見えたと思うや否や、そのままものすごい勢いで山を駆け上がってくる。
「許さぬ」「殺す」といった、涼兵の物騒な怒声も聞こえてくる。
「速いな……これが涼の“疾風”戦術か」
一瞬でも怯んだ自分を叱るように、萠リ良はことさら落ち着いた声を出した。
「さあ、紀霊殿……うまくやってくれよ」
萠リ良の静かな声に乗った願望は、ほどなく現実となった。
ワッという喚声とともに、潜んでいた紀霊隊が、側面から吾玄隊に襲い掛かった。
思いもよらぬ方向から突然の攻撃を受け、神速ともいえる吾玄隊の足は止まった。
「曹真隊も攻撃開始!……あれは厳顔の部隊です!」
再び物見の兵の声。
吾玄の後を追走していた厳顔隊が、紀霊と同じく伏兵に徹していた曹真隊の奇襲攻撃を受けている。
さらにその後ろに控えていたもうひとつの涼軍部隊は、吾玄隊や厳顔隊との追突を避けようと、慌てて進路を右に転じようとしていた。
しかし、勢いがつき過ぎている。
「雷」の軍旗を掲げた涼軍部隊は、吾玄、厳顔の両部隊に雪崩れ込むような形となり、ろくに指揮もとれない状況となっている。
「理想的だ」
その有り様を見て、萠リ良の声は弾んだ。
突出してきた涼の三部隊は、いずれも萠リ良が配した落石陣地の攻撃範囲内だった。
「落とせ!」
短い、しかしはっきりとした命令で、岩石を支えていた戸板の綱が叩き切られた。



━━抹陵山上。第二軍
戦さは嫌いだ。
多くの兵が死に、さらに多くの民が苦しむ。
良いことなど何一つない。
しかし、戦場で刃を振り回している時の自分は、必ずしも嫌いというわけではない。
そんな矛盾する感情を整合させる願望も意志も、吾玄は持ち合わせていなかった。
戦さを忌み嫌う自分と、戦場で己の命を燃焼させている自分。
いずれもまやかしのない、正直な自分であり、無理に解釈することにいったい何の意味があるというのか。
今はただ、武人としての自分を力の及ぶ限り発揮するのみ。
「武人」と「軍団長」は同義ではない。
吾玄隊は今、突出した状態で魏軍の包囲攻撃を受けつつある。
軍団長として考えるなら、すぐにでも吾玄は部隊を後退させるべきだった。
しかし吾玄は、混乱した部隊には見向きもせず、余人に真似できない槍さばきで、向かってくる魏軍兵士を切り伏せていく。
落石攻撃で大混乱となった吾玄隊に、紀霊や曹真、そして萠リ良の各部隊が襲い掛かってくる。
遠目には、さらに「魏」の軍旗が見える。間もなく完全に包囲されてしまうかもしれない。
それでも、吾玄隊は潰走には至っていない。
部隊を指揮することはなくても、吾玄は健在。
自ら槍を取り、魏兵をなぎ倒している。
その姿が、潰走一歩手前の吾玄隊を支えていた。


そんな吾玄が馬から投げ出される様を見て、蔡瑚の顔から血の気が引いた。
だが、吾玄はすぐに立ち上がると、愛馬の足をへし折った魏兵の頭を、引き抜いた大剣で叩き割る。
「殿!」
すぐさま駆け寄った蔡瑚は、馬から飛び降りた。
「この馬を!」
吾玄は躊躇しなかった。
返事もせずに手綱をひったくると、興奮している蔡瑚の馬に鮮やかに飛び乗り、再び戦闘の渦中へと突っ込んでいく。
残された蔡瑚は、自分の方に向かってきた魏の騎馬武者に懐剣を投げつけた。
懐剣を首に受けた騎馬武者は、無念の絶叫とともに馬から転がり落ちた。
蔡瑚は騎馬武者の首には見向きもせず、その馬に素早くまたがり、吾玄を追う。
もはや蔡瑚には、吾玄に自制を求める気などさらさらなかった。
ひたすら力の及ぶ限り奮戦し、後続部隊の支援を待つ。
生き残るには、それが最善の方法だった。
ただ、今の蔡瑚は、吾玄だけを護衛していればいいという状況ではなかった。
念のために振り返ってみると、案の定、懸念すべき事態が発生していた。
吾玄には他にも数名の護衛がついているし、何より一騎当千の吾玄なら、そう簡単にやられることはない。
だが、あの男は……。
蔡瑚は舌打ちすると、馬首を返した。


それなりに剣が使えるとはいえ、参露は将でも、兵でも、そして細作でもない。
ましてや、今の吾玄のように、屈強な兵たちが護衛についているわけでもない。
しかし、軍察監の甲冑は、少なくとも一般の兵のそれよりははるかにきらびやかだ。
当然、恩賞がほしくてたまらない敵兵の格好の標的となる。
多くの魏兵の攻撃を受け、参露も馬を失った。
落馬の衝撃で槍をも失い、急いで剣を抜きさったが、槍と剣では間合いに差があり過ぎる。
五人の魏兵に取り囲まれた参露は、さすがに死を覚悟した。
無念、と口走る。
結局、希代之の指令を何一つ成し遂げぬまま、戦場の土となるのか。
そんな参露を救ったのは、蔡瑚だった。


「おぬし、下がれ!」
あっという間に五人の魏兵を切り伏せた蔡瑚は、返り血で顔をどす黒くしたまま怒鳴った。
「邪魔だ! 迷惑だ! さっさと下がれ!」
吾玄を守らなければならないはずなのに、自分の正体を暴き出そうとしている参露を救わねばならない自分の境遇に、蔡瑚は半分呆れ果てている。
参露が死ねば、そう遠くない将来、希代之と郭図公則の対立が、破滅的な結末でもって終了となる恐れがある。
もちろん、破滅するのは郭図公則。
そんな未来を避けるためにも、この執念深い軍察監を死なせるわけにはいかなかった。
「誰が助けてくれと言った!」
売り言葉に買い言葉。
泥だらけになって立ち上がった参露は、剣を蔡瑚に突き付けて怒鳴り返した。
「貴様の助けなど無用! これを恩に着ると思ったら大間違いだぞ!」
「いいや! 恩としてありがたく受け止めろ!」
チラリと吾玄の方を見ながら、蔡瑚は叫ぶ。
「おぬしがいると、殿の護衛に集中できぬ! 殿の御身を思う気持ちがほんの一片でもあるのなら、すぐに下がれ!……頼むから下がってくれ!」
ほとんど哀願に近い絶叫に、参露の表情が変わった。
「……それがしがいると、おぬしが軍団長殿の護衛を全うできぬ、ということか?」
「そういうことだ! わかったのなら下がれ!」
一瞬無念そうな表情を浮かべる参露。
すぐにそれを打ち消し、また強気な態度を取り戻した。
「わかった。下がってやる……下がるついでだ、後続の部隊への指令はないか? それがしが伝令を務めてやる!」
「伝令?……ああ、そうだな」
意外にあっさりと参露が同意したことに驚きつつ、蔡瑚は頭の中を急いで回転させた。
「伝えることはひとつだ。可及速やかに戦闘に参加しろ、とな。軍団長命令と心得よ!」
対する参露の返事は短かった。
「軍団長の御命令、しかと承った」
本来なら為すべき拱手も取らず、参露は踵を返した。
そして、主を失ってさまよっている馬に飛び乗ると、勢いよく走り去っていく。
その様を確認した蔡瑚は、すぐに吾玄の姿を探し、そして見つけた。
百人近い魏の歩兵隊の中を、数十騎で駆け巡っている。
蔡瑚は、馬の脇腹を強く蹴った。


袁奉ら涼の後続部隊が現れたところで、魏軍は潮が引くように後退していった。
ようやく駆けつけた袁奉は、戦場に残った友軍の姿を見て唖然とした。
もっとも被害が少ない雷銅隊でさえ、3000もの兵を失っていたし、厳顔隊は約5000が脱落し、未だ混乱状態からも脱却していない始末。
最大の損害を受けていたのは、総大将部隊たる吾玄隊だった。
部隊14000の内、実に7000もの兵が戦死、または負傷していた。
これだけの損害を受けたにもかかわらず、一方的に先手を取られた戦闘とあって、たいした戦果も上がっていない。
抹陵戦役最初の戦闘は、明らかに涼軍の負けだった。
しかし、吾玄隊が掲げている総大将旗は、悠然とたなびいている。
戦闘は始まったばかり―そう告げるかのようにはためく軍旗は、吾玄隊の戦意がまだまだ豊富であることを示していた。
「軍団長として賞賛すべきかどうか、迷うところではあるが……」
袁奉は苦笑した。
「さすがは四則殿、というのは間違いではない」
吾玄隊から、数騎の騎馬兵がこちらに走ってくる。
伝令のようだった。



━━抹陵城門前。魏軍
「涼賊の出鼻を挫くことに成功した。曹真、紀霊、そして萠リ良。おぬしらの働き、実に見事」
後退してきた武将らに、夏侯惇は賛辞を贈る。
「しかし、戦闘は始まったばかりだ。かなりの損害を与えたとはいえ、連中はまだまだ力を残している」
緒戦の大勝にも関わらず、夏侯惇の口調は重く、静かだ。
これから起こる平地戦が凄まじいものになるであろうことを、夏侯惇は理解している。
「城門前にて、涼軍に決戦を挑む」
居並ぶ将軍たちを見渡しながら、夏侯惇は言った。
「平地戦を得意とするのが、やつらだけではないということ……吾玄に思い知らせる。頼むぞ」
将軍たちが、軍議の場から散開する。
その内の一人が振り向き、ことさら朗らかに言った。
「惇兄。我が虎豹騎の力、ご照覧あれ!」
曹純だった。


涼侵攻軍9部隊111500
魏正規軍7部隊
84000
魏増援軍5部隊
52000
   計12部隊136000






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