金10万〜その二〜
━━許昌。軍師府
「ほう、これは!」
茶碗から立ち込める香りに、希代之は思わず声を上げた。
何とも香しい。だが、くどさもきつさも全くない。
こんな香りを発する茶など、生まれてこのかた飲んだことなどない。
胸を躍らせながら、ゆっくりと一口目をすする。
次の瞬間、希代之の表情は感心から感嘆へと変わった。
「柔らかい!」
「赤龍鱗です」
茶碗を持ったまま、客人は――少府は――微笑んだ。
「葉の形が龍の鱗に似ている、ということで、この名がついたと聞いています」
「なるほど、これが赤龍鱗でしたか……皇室御用達の茶として、代々の皇帝陛下に愛されてきたという……よくぞ」
茶の味に我を忘れかけた希代之は、「よくぞ残っていたもの」と言いかけ、慌ててその口を茶碗で封じた。
少府の来訪の目的はわかっているが、こちらから話を振る必要もない。
一方の少府は、いたずらを思い付いた子供のような笑顔を浮かべている。
「ただ残念ながら、これは模造品とでも言うべき茶。本物の赤龍鱗は、これよりもっと豊潤な味が楽しめるのですが」
「本物……と言われますと?」
「戦乱の中、代々茶産を続けてきた多くの職人たちも散り々りとなりましてな。今御賞味いただいている赤龍鱗は、新規に雇い入れた茶職人の手によるもの。試行錯誤を続け、ようやくここまで達しましたが、まだまだ改良の余地があるのです。ただ、そんな余地などは」
少府は言った。
「職人が努力すれば、何とでもなる話。しかし、如何に職人の腕が確かでも、それだけでは本物の赤龍鱗は作れません」
にこやかな表情で希代之の方を見ていた少府は、そう言って自らも手にしていた茶碗に目を落とした。
「この赤龍鱗には、根本的な何かが欠けているのです。おわかりですか?」
探るような少府の顔を見て、希代之は少府が意図する話の切り口を察した。
「つまり……この赤龍鱗は洛陽産ではない、と?」
「さすがですな」
自分の言いたいことを正確に口にした希代之に、少府は嬉しそうな笑顔を見せた。
「これは許昌産……皇宮近くに開いた茶畑で作らせたものです。苗や作業工程に違いはないが、根本的に異なっているものがある。すなわち、地質と風土の違いです」
茶碗を宅に置いた少府は、ゆっくりと立ち上がり、窓際へと歩み寄った。
「赤龍鱗は、陛下に一時の安らぎを楽しんでいただくため、洛陽で優秀な職人によって作られてきました。董卓が遷都を断行するまでの話ではありますが」
洛陽、そして董卓。
(来たな)
この二つの固有名詞が出てきたことで、希代之は心中で身構えた。
魏に代わる新たな朝廷の“庇護者”となった涼を、朝廷はある面、魏より軽く見ている節がある。
宦官の家の出とはいえ、魏公曹操は漢の名家・夏侯家の末裔。
そして曹操自身、漢の禄を食んでいた男だ。
一方、涼の盟主呂砲は、元は出自もわからぬ卑しい身分であり、その股肱にして涼の中枢を担う七同志にしても、名家に連なる者は誰一人としていない。
一時の混乱をはさんで四百年、この国を支配してきた階層の人間が、涼という成り上がり者の集団を仰ぎ見るはずがなかった。
しかし、権威を失い、その権威を回復するための軍も持たない朝廷にとって、100万を越える涼の軍事力は魅力だ。
その軍事力を意のままに操ることは、朝廷の威信を回復するための最短の手段だった。
洛陽を焼き払ったという馬参の過去は、朝廷からして見れば、到底放免できる話ではないが、それと同時に、涼軍を吸収するという企みへの第一歩として、楔を打ち込むにこれ以上ない口実にもなる。
この時の希代之がもっとも懸念していたことは、まさにそれだった。
(さあ、どう来る?)
希代之も茶碗を卓に置き、少府と正面から向き合った。
勤王の士を自認するものの、希代之は涼の筆頭軍師。
何より涼は、希代之の“作品”でもある(もちろん、共同製作者は他にもいるが)。
皇帝を敬う気持ちと、涼を朝廷の道具にすることとは、希代之にとってまったくの別問題だった。
「赤龍鱗の御苑は、遷都の際の大火で焼失したものと思われていました」
睨み付けるような希代之の視線の意味は、少府もわかっているようだった。
それでも、臆することなく話を続ける。
「しかし、一本だけ……たった一本だけ、赤龍鱗の苗木は残っていたのです」
少府は、話の本筋の周辺をゆっくりとなぞっていく。
「それを最初に見つけたのは誰か、おわかりか?」
眉をわずかに動かし、「続けろ」と促す希代之。
少府はうなずき、厳かに言った。
「それは、陛下です」
「……」
「王使徒亡き後、洛陽へお戻りになられた頃でした……焼け残った洛陽を我ら臣下とともにさまよっていた折り、偶然陛下が見つけられたのです」
ここで少府は、目を閉じ、口をつぐんだ。
生まれ故郷、洛陽を見回す皇帝。
そこにかつての帝都の面影はまったくなく、ただ焼け野原だけが広がっ
ている。
皇帝は悲嘆に暮れる。
董卓の専横に際し、何もできなかった自分を責め、そして漢の繁栄を築
いてきた、代々の先祖に懺悔する。
それ以外にできることといえば、絶望の念を抱くことだけ。
もはや、大漢も終わりなのか?
漢朝四百年の歴史は、自分の代で終止符が打たれるのか?
そんな想いが心の中を埋め尽くしかけたその時、皇帝は信じられないも
のを目にする。
それは、一本の苗木。
灰の中で弱々しく、しかし明確に“生”を主張している赤龍鱗。
「陛下は御目に涙をお浮かべになり、こう申されたのです」
ここで少府の声が詰まった。
「『これは朕なり』、と……」
小さく震えている少府の肩。
それが演技でないことは、希代之にもわかった。
董卓による遷都。そしてその配下である郭、李カクによる勢力争い。
黄巾の乱の鎮圧で取り戻されたかと思われた漢の威光は、かつてないほどに地に落ちた。
権威の欠片もない王朝にあった若き皇帝は、暴虐な権力者に振り回される自分の心をどのように支えていたのだろう。
そして、焼失したと思われていた赤龍鱗の苗木を見つけた時の感動は、如何ばかりだったか。
「これは朕なり」
その言葉が、皇帝の心すべてを表しているといっても過言ではなかった。
あれほどの大火に晒されながら、赤龍鱗の苗木も生きていたではないか。
自分も……いや、漢朝もきっと……。
「陛下は、漢朝の現状を赤龍鱗に見たのです。赤龍鱗の再生は、漢の再興に通じる、と」
そう語る少府の頬を、涙が伝わり落ちている。
「陛下は今でも、お袖を汚されながら赤龍鱗を慈しんでおられます。平安となった洛陽に、再び赤龍鱗の御苑を設けられることは、陛下のささやかなお望み」
耐えられなくなり、希代之は茶碗に目を落とした。
その中には、赤みがかかった液体が波紋を広げている。
それを見た瞬間、希代之は急いで目を強く閉じた。
そうでもしないと、自分も落涙を免れそうになかった。
「鎮軍将軍殿」
少府の声。
自分のことを「軍師」ではなく、「鎮軍将軍」と呼んでいる。
“涼の軍師”ではなく、“漢の鎮軍将軍”と。
「おわかりか、鎮軍将軍殿。私はそんな陛下のお姿を拝見し、決意したのです!」
気がつくと、少府は希代之のすぐ側まで寄ってきていた。
「赤龍鱗の茶畑を再生させることを……そして何より、陛下の大望を御成就させることを! しかし、まだまだ……まだまだ障害は山積しているのです!」
少府の口調は急に激しくなり、そして剣幕ともいうべき勢いとなった。
「し、少府殿、しばし落ち着きなされ……」
たじろぎつつも宥めようとする希代之だったが、少府はまったく聞く耳を持たなかった。
「貴殿は誠の忠節をお持ちの御仁だ! 私は貴殿の心を聞きたいのです!」
皇帝御用達の茶の残る茶碗を握り締めたまま、少府は叫んだ。
「希代之殿、聞かせてくだされ! 義も忠も踏みにじられた今の世において、如何に我らは進むべきなのか! 貴殿なら……貴殿なら妙案があるはずだ!」
とりあえず少府を座につかせた希代之は、気づかれぬようにそっと息を吐いた。
かなりの熱血、とは聞いていたが、ここまで熱い男とは思わなかった。
(なるほど、廖衛相手に一歩も引かぬわけだ)
七同志の中でも特に心根が熱い廖衛――皇宮で少府と罵り合いを展開した男――の顔を思い出す。
「少府殿の言は、一々もっともなことと理解しています」
希代之は言った。
「陛下を曹賊からお救いすることはできたものの、肝心の曹操はまだ生きておりますからな。しかし、まずは陛下に洛陽へ御還行いただくことが先決です。民を安んじ、その威光でもって軍を動かし、陛下に楯突く輩を成敗する……もちろん、その先鋒は涼軍が担いましょう」
そこまで言って、少府の顔をチラリと見る。
少府は失望とも軽蔑とも取れる表情をしている。
かまわず希代之は続けた。
「永安での義挙以来、我らは陛下への忠義ただひとつを胸に戦い続けてきました。陛下の覚えめでたく、呂砲様は涼王の位を賜い、我ら七同志もそれぞれに顕職を授かった。義挙から10年、我らの赤心は益々膨れ上がっています。この赤心をぶつければ、曹賊など物の数ではござらん」
「鎮軍将軍殿」
希代之の言葉を遮り、少府。
「どうも話が噛み合っておらぬようだ」
「そうでしょうか?」
「陛下の大望を御成就させること……その一点において、希代之殿に二心はないと存ずるが?」
「何をおっしゃりたいのだ、少府殿?」
少府の言葉に、希代之は憮然となった。
「『誠の忠節を持っている』などと持ち上げておきながら、急に私の忠義を疑い出すとは、一体どういう了見だ?」
「疑うのもやむをえまい?」
少府には悪びれる様子はなかった。
「希代之殿。今現在、漢を覆い尽くそうとしている危機を、貴殿はどのように認識しておられるのだ?」
「黄巾の騒乱があり、董卓の専横があり、そして今、群雄どもの割拠という事態がある。この群雄どもは、漢の威光というものをまったく省みず、ただ己の勢力の伸張のみに努める不埒な者たち。さような者たちが羽振りを利かせている現状こそ、漢を覆い尽くそうとしている危機である」
「その通り。ここまでは貴殿と私の認識は一致している。では、その危機を打開する手段については如何?」
「手段?」
「そう。手段です。陛下が再び全中華を統べるための手段……言葉を変えるなら、戦略とでも言いますかな」
「それならわかる」
「承りたい」
「幸いにして、我らは陛下の玉体を曹魏から解放することに成功した。繰り返しになるが、まずはなるべく早期、陛下に洛陽へお戻りいただくこと。漢室、漢都にありと中華全土に伝われば、各地に潜んでいる漢朝の復興を願う者たちも一斉に立ち上がる。そこへ我が涼の精兵が攻め込めば、賊軍を打ち破ることは難事ではない」
「陛下が洛陽へお帰りになる。それについても異論ない。だが、それ以降の弁はかなり怪しいものと受け止めるが?」
「なんと?」
「貴殿の言う精兵たち。これが業βで無残な敗北を喫したのは、いったいいつのことでしたかな?」
「二ヶ月前。だが、それが何だというのだ?」
「それが何だ、とは大きく出たものだな」
「戦さとは相手があるもの。人智を尽くしても、その目的を達せられないこともままある。貴殿がひとつの敗戦でもって征戦の大義をちゃかすのなら、今すぐお引き取りいただこう。時間の無駄だ」
「誤解のないように。私はちゃかしているのではない。貴殿のムシのいい見通しに喚起を促しているだけだ」
「ならば、聞きましょう。軍略家の意見はありがたい」
「軍略家ではないが申し上げよう。まずはごく近い将来への懸念について。今の第三軍に、業βを攻め落とす力がないことぐらい私にもわかるが?」
「町費、廖衛の二将を上党へ派遣した。いずれも勇猛の将だ。必ずや第三軍を再編させ、期待に応えてくれるだろう」
「町費……そして廖衛、か」
廖衛の名を口にする時、少府は同時に鼻を鳴らした。
「再度攻めるのだから、増派は当然のことだ。だが、数を揃えただけでは業βは陥とせませんぞ」
「承知している。先の敗戦も、数に劣っていたことが理由のすべてではない」
「承知しているのなら、お聞かせいただきたいものだな。難攻不落の業βを攻め落とす策を」
「それは軍機に属すること。申し上げられぬ」
「少府である私に対しても?」
「誰に対しても、です。ましてや貴殿は、涼軍に何の責任も持たぬ立場でありましょう。そもそも、軍師が簡単に軍機を口外するようでは、成り立つ策も成り立たなくなる。どこに目と耳があるか、知れたものではないのですぞ」
業βでの第三軍の敗北をつぶさに研究した希代之は、業β攻略のための策を既に考案していた。
しかし、まだ呂砲には奏上していない。
馬参の過去を廻って動揺する領内を鎮めることに精一杯だったから、ということも確かだった。
だがそれ以上に、勝利か全滅かの二者択一を迫るような策を、自分がいない戦場で用いることに躊躇していた、という面の方が強かった。
(綱渡りのようなものだからな)
不満そうな顔をする少府にかまわず、希代之は心中でつぶやく。
(啄木鳥戦法は……)
「まあ、具体的な策の中身についてはよろしい。貴殿のことだ。必勝の策であろうこと、私は疑っていない」
少府は言った。
「だが、如何に優れた策であっても、それを用いる人間によっては簡単に破綻する。それは留意すべきと存ずるが?」
「無論のこと。馬参殿、町費殿、そして廖衛殿。いずれも歴戦の将だ。策を違えるようなことは……」
「やはり、貴殿はわかっておられぬようだ。はっきり言わせていただこう」
希代之の言葉を遮り、少府は決め付けた。
「朝廷は、第三軍の次なる業β攻めが、再び失敗に終わるであろうと予測している。いや、単なる侵攻失敗よりも、さらに質の悪い未来が訪れることを憂いている」
「な……!」
さすがに希代之は気色ばみ、椅子を蹴倒して立ち上がった。
「その言葉、今すぐ取り消していただこう! いったい何を根拠に、我が策を愚弄するのだ!」
一方の少府は、先ほどの熱血振りとは打って変わった落ち着いた態度で、希代之を見上げている。
「鎮軍将軍殿、落ち着かれよ。策の中身も知らぬ私が……いや朝廷が、貴殿の策をどうして批評できるというのだ?」
言葉に窮した希代之は、振り上げた拳の落とし所を探しあぐねた。
言われるまでもないことに、言われて初めて気付く。
いつもの希代之ではなかった。
どうにもやりにくい。
自他ともに認める涼の知恵袋たる自分が、宮廷の中以外何もしらない廷臣に舌戦で押されている。
その理由は、希代之にもわかっている。
希代之にとって、漢の皇帝は神聖不可侵の存在。
そして、今目の前にいる男は、その漢皇帝を支え続けてきた人間。
皇帝と廷臣たちは別、と頭ではわかっていても、どうしても少府の背後に漢朝の影を感じないわけにはいかなかった。
同時に、馬参の件もある。
少府は、希代之の漢帝への忠義を確認した上で、業β攻めの最高司令官にして七同志の長老的存在、そして洛陽を焼き払った大逆人である馬参の処罰を推し進めようとしている。
そんな少府の戦術ぐらいは読めていたが、実際問題として、希代之はその先を行く弁舌を発揮できないでいる。
それは、漢朝の威光を代表する男を前にしている現状に加え、つい先ほど呂砲が発した言葉が、希代之の頭の隅に残っていたため。
―おぬし、以前こう申したな。もしもわしが朝廷をないがしろにしたら、刺し違えてでも阻止する覚悟、と
―そこまでたんかを切って、陛下への忠義を示したおぬしが、漢都を焼き払った男の罪を問うべきではない、と言う
―おぬしは馬参を……漢都を灰にした男を本当に許せるのか?
―陛下の御威光に泥を塗った者を、本心から許してやれるのか?
希代之は、漢皇帝を崇拝している。
希代之は、呂砲が洛陽焼き打ちの犯人だったなら、即刻亡き者とする覚悟を持っている。
希代之は、洛陽焼き打ちの真犯人たる馬参の命を助けようとしている。
漢皇帝への崇拝の念と、上司たる呂砲への義理、そして同僚たる馬参への敬意。
これらの感情が、整合性とはまったく無縁の態で頭の中を渦巻いていることを、希代之は自覚し始めていた。
「我々が懸念しているのは、先ほど言った、人。実際に策を用いる人間のことだ」
希代之の混乱を見透かしたかのように、少府は冷徹に言った。
「町費は良い。廖衛も……まあ、今はまだ良い。だが、馬叔遠。あの者はよろしくないな……鎮軍将軍殿。まさかとは思うが、貴殿にその懸念はないのかな?」
むしろ穏やかな少府の口調だったが、希代之の額に汗が噴き出た。
「馬叔遠なる者、元は極悪人・董卓の配下にして、洛陽を焼き払った張本人」
少府は、曹操の布告文を諳んじて読み上げた。
「恐ろしい話ですな……そんな極悪人が天の裁きを受けることなく生き永らえていたばかりか、今や10万を越える軍勢を率いる地位にあるとは」
「…………」
「貴殿は上党に増援兵を送ると申されたが、とんでもないことです。奴も今の自分の立場ぐらい承知しているはずだ。斬首の刑を恐れ、そのまま軍勢を率いて漢に仇なすこと、火を見るより明らか」
「…………」
「それよりも鎮軍将軍殿、よろしいのか? 聞けばまだ涼王殿は、馬参を召喚する使者を発しておられぬというではないか。急ぎ身柄を確保せねば、国外へ逃げ出す恐れもありますぞ」
「…………」
「斬首の場は……まあ、洛陽が一番良いのだが、陛下のおわすこの地で為すことになりましょうな。洛陽の民には首から下をやれば良い。今、洛陽や長安で起こっている騒動も、それで静まる」
「し……しばし、少府殿!」
具体的な斬首の内容が出るに及び、さすがに希代之は反応した。
「過去は過去! 今は今! 馬参殿の殿下への忠誠心は紛れもなく本物です! その馬参殿が、今さら漢へ弓引くことなどありえない!……斬首の儀はしばらく!」
希代之の必死の嘆願に、少府は唇を歪めた。
「なるほど、涼王殿に対する忠誠は本物ですか。では、陛下に対する忠誠は欺瞞、ということですかな?」
「そうではない! 殿下は陛下への忠義を明らかにしておられる! 馬参殿が殿下の御意向を無視することはない! そう言っているのだ!」
詭弁、とは自分でも思っている。
だが、今の希代之には、そう主張するしか手はなかった。
「鎮軍将軍殿。貴殿はかつて、陛下への忠義について、涼王殿に強く迫った、と聞いております。私は、貴殿の陛下に対する忠節に強く胸を打たれた一人なのです」
一方の少府は、むしろ哀れむように言った。
「ところがその貴殿は、あろうことか洛陽を焼き払い、陛下を苦しめた者がいるというのに、涼しい顔をしておられる……これはどういうことです? 馬参のみならず、貴殿の陛下への忠節もまた、欺瞞であったということですかな? だとしたら、誠に無念なこと……陛下もさぞやお哀しみになることでしょうな」
少府の皮肉に、さすがに希代之も声を荒げた。
「暴虐なる曹操の下で陛下が苦しんでおられる間、貴殿は何をしていた!」
希代之は少府の顔に指を突きつけた。
それが虚勢であることは、希代之自身が知っている。
「その忠節とやらを行動に表すこともなく、貴殿はただ目の前の現状を嘆いていただけではなかったのか! 私は先の許昌戦役で、曹賊の手から陛下をお救いした! その私に、そのような言葉を投げかける資格が貴殿にあるというのか!」
「これは笑止! 涼第一の知者である貴殿が、論点のすり替えを計るとは失望いたしましたぞ」
少府は、希代之の抵抗を嘲笑った。
「単刀直入に申し上げよう。私が尋ねているのは、洛陽を焼き払い、陛下を苦しめた馬参の大罪についてである。これについての釈明、そして貴殿の考えをお聞きしているのです」
希代之が言いよどむのを見た少府は、調子に乗って脱線した。
「それに許昌で我らが嘆いていただけとは、益々笑止千万。我々は韓公・劉備殿と計画を練り、打倒曹操の準備を進めていたのだ。それを打ち壊したのは誰です? 他ならぬ涼軍ではないか! まさか忘れたわけではありますまい?」
押されっぱなしだった希代之だが、それでも少府の言うように、“涼第一の知者”であることに変わりはなかった。
やや混乱状態にあるとはいえ、相手の論理の矛盾点を突くことぐらい、希代之には造作もない。
「劉備と共に曹操を誅殺する計画があったことは、車騎将軍殿(董承)から聞いている。だが、我らがその計画を打ち壊したというのは、貴殿の誤解であろう」
ようやく反撃の機会を得た希代之は、ここぞとばかりにまくしたてた。
「車騎将軍から諮られた後、劉備はさっさと拠点を捨てて上庸へ落ち延び、そのまま劉表の勢力を引き継いだ。ここから曹操と対抗するのかと思いきや、何をとち狂ったかあの偽善者、曹操と同盟などを結び、己の安泰を図っていたのだぞ」
自らの失言に気付いた少府が顔をしかめている。
希代之の反撃は続く。
「よろしいか。恐れ多くも陛下を虐げる逆臣と、劉備は同盟を結んだのだ。曹操に対抗する力を貯えるため、という言い訳は通用せぬ。荊州という豊かな地を無傷で手に入れた以上、劉備が成すべきことは、速やかに曹操討伐の軍を挙げることだったはず。そうは思われぬのか?」
「いや……それは、まあ……」
「陛下がご寝襟を悩ませたもう折りに、己の保身に励む者など、皇叔を名乗るもおこがましい。我らが劉備を滅ぼしたのは、車騎将軍との盟を破った逆臣を、車騎将軍に代わって成敗したもの、と御理解いただきたい」
しかし、「一気呵成の反撃」は、ここで終わった。
利のない話題になってしまったことを察した少府が、素早く話を切り替えたのだ。
「……まあ、劉備の話は蛇足でしたな」
咳払いをして、少府。
「確かに貴殿の言う通り、廷臣の中にも不埒な輩がいることは事実でしょう。ですが糾そうとしていないという指摘は違う。現に、私はこうして貴殿の前にいるではありませんか」
少府が非を認めた以上、劉備の話はここで収めるしかない。
再び少府が攻撃する側に、そして希代之が防戦する側に、それぞれ回った。
「しかし、馬参の件については少々誤解があるようですな。私とて、好んで馬将軍を罰したいと言っているわけではない。ただ、物事には筋道があると申しているのです。よくお考えいただきたい。帝都の焼き打ちなど、決してあってはならない大罪。馬参将軍が極刑に伏されるに、何ら不思議はないはず」
「しかし、馬参殿は董卓の命令に従っただけ。さらに言えば、当時の董卓に逆らうことは誰にもできなかった。後に董卓を誅殺した王司徒にしても、洛陽焼き打ちはもちろん、遷都すら止めることができなかったではありませんか。馬参殿はその後、涼軍の将として、漢朝復興の戦いを続けてきた人物です。それなのになぜ、馬参殿だけが糾弾されなければならないのです?」
希代之の必死の反論は、少府の感銘を呼ぶことはなかった。
むしろ少府は、はっきりと軽蔑の色をその白い顔に浮かべた。
「……鎮軍将軍殿」
「……何です?」
「重ねての問いになるが、貴殿の陛下への忠節は、真のものなのか?」
「な……」
「漢都が焼き払われたのですぞ。それは恐れ多くも、玉体を焼くことと同義ではござらぬか? 陛下への忠義を誓う貴殿が、本当にそのことに思い至らないとは私には信じられぬ」
「そ、それは……」
痛いところを衝かれ、希代之は目を伏せた
そんな様を見た少府は、大袈裟にため息を吐いた。
そして、茶碗に残った薄赤色の液体をグイッと飲み干す。
実はこの段階まで、希代之は少府の目的を見誤っていた。
馬参を守るため、弁舌を尽くしてきた希代之だったが、少府にしてみれば、馬参の過去など前振りのひとつに過ぎなかった。
「涼王殿は先日、漢王朝の復興を宣言されたわけですが……」
何気ない口調で、少府はまた話題を変えた。
「涼王殿を主とする貴殿の前で言うのは心苦しいことですが、かつて曹操が、まったく同じことを表明したという事実は、もちろん御存知ですな?」
ハッと顔を上げた希代之は、少府の顔を見て愕然とした。
今、初めて、希代之は少府の標的を知った。
少府が真に弾劾しようとしていたのは、馬参ではない。
涼王・呂砲だった。
「曹操が陛下に対し、どのような態度を取ってきたかも御存知でしょう」
少府が続ける。
「我ら廷臣は、そんな曹操に強い憤りを抱きつつ、事を起こす機会を伺っておりました。その曹操は、確かに涼軍によって取り除かれました。しかし、今度はその涼軍の盟主たる人物が、曹操に代わって漢朝の庇護者を気取っている。かつての曹操と、現在の涼王殿の振る舞い……似ているとは思いませんか?」
「私は、殿下と何年も苦楽を共にしてきた」
己の迂闊を呪いつつ、反論する希代之だが、その言葉に力はない。
「殿下を信頼しているし、まさか殿下が曹賊のような真似をするとは米粒ほども思っていない」
希代之自身もまた、呂砲の皇帝への忠義に疑問を感じていた男。
言葉に身があるはずもなかった。
すっかり弱々しくなった希代之に、少府は畳み掛ける。
「涼王殿と曹操が違うなど、どうして言い切れるのです?」
むしろ少府は、慰めるような口調になっていた。
「勿論杞憂であってほしいと思っています。涼王殿が真に陛下の忠臣であるなら、大変喜ばしいことであります。ただ、私は過去の苦い経験からも、そして陛下の側に控える者としての義務からも、涼王殿の言葉を鵜呑みにすることはできないのです。それはおわかりいただきたい」
「しかし……しかし、私は……」
「お聞きください、鎮軍将軍殿。万一の為に備えは必要なのです。私達はお互いの立場は違います。ですが、陛下に対する忠節に違いはないはずです。どうか漢の復興のため、そして陛下のため、その力をお貸し下さい」
希代之は答えない。
少府も口を閉じた。
希代之が絞るように声を発したのは、しばらく立ってからだった。
「……わかった……負けたよ」
ついに白旗を上げた希代之は、完全に打ちひしがれている。
「貴殿がそこまで言うのだ。話だけは聞こう……で、私にいったい何をしろというのだ?」
その返答を聞くに及び、少府は気付かれぬようほくそえんだ。
「何も。別に何かをしてほしくて、こうして訪問したのではありません」
「何も……?」
「さよう。何もなさらないで結構」
「……どういうことだ?」
「近々、私は陛下の使者として、涼王殿と対面する」
「……」
「その場で私は、涼王殿の陛下への忠義を確かめるつもりです。そこで邪魔をしないでいただければ、それでよろしい」
「馬参殿の処罰を問うて……その返答で確かめる、と?」
「そういうことです」
少府は希代之の肩を叩き、笑いかけた。
「希代之殿。これからも漢の鎮軍将軍として、涼筆頭軍師の役目に精励されよ。陛下もそれをお望みだ」
希代之は横を向いた。
自分の意志とは無関係に、他者の力で別の人間に変えられてしまったような気がする。
吐き気がした。