疑問に思っている鉄道俗説

 鉄道趣味の1つに、「現在、どうしてそうなってしまったのだろう?」という“歴史追求”がある。 優秀な愛好者だと、これを“研究”の域まで高めた発表がなされている。 これらの“研究成果”は、鉄道友の会の会誌RailFanや商業出版されている鉄道趣味誌でも発表され、 常々、その活動に敬意を表すると共に、なるほどと感心させられている。 その中には、巷間、このような経緯で現状になっているとされている事柄の いくつかは歴史的に正しくないことを明らかにしているものも多い。 現状の日本の鉄道の問題点の認識や将来への展望を語るとき、 これらは正しく認識すべきものであろう。
 そんな中、趣味誌を読み続けているだけでも 本当だろうかと疑問に思える俗説がまだまだ残っている。 私にはとてもそこまでの行動力・調査力はないが、明らかになればよいなぁと 思っていることを以下に書き留めてみた。

動力分散式列車優先思想の始まりは昭和20-30年代?

 世界の鉄道で、電車や気動車など動力分散式列車が 国の基幹鉄道の大部分を占めるのは日本だけである。
 これに関して、島秀夫による第2次大戦後の80系電車→151系電車の推進と成功がしばしば 理由としてあげられる。確かに彼の卓抜した先見性と行動力に追うところが多いのは事実だろうが、 日本が動力分散式に移行するきっかけは、そこから始まったのだろうか?
 日本での幹線鉄道での電車運転は今から100年ほど前の甲武鉄道を始祖とする。 新宿から都心方向への延長を果たした同社が、常時混雑している市街電車(路面電車)の旅客に 着目し、飯田町−新宿間に導入したのが始まりだ。 このとき、同社は蒸気鉄道の本線に直接電車を走らせている。 他の国では市街電車と幹線鉄道とは別のシステムと捕らえられていたらしく、 同じ線路に走らせる発想がなかったらしいが、日本では、これが実施されたのである。
 実際に運行してみて直ぐにわかったのは、蒸気列車に比べて電車の方が加速性能がずっとよいことである。 このため、電車が汽車に追いついてしまうのでダイヤ作成で苦労したらしい。 結局、電車線と列車線とを分離した複々線化が最終的な解決策となる。
 同様の事例は、他にも発生している。京浜間、阪神間は現在の京急、阪神が都市間電車運転を 上記の甲武電車とほぼ同時期に開始している。これらの企業は京浜間や阪神間で電車運転をすることで 官鉄よりも高頻度高速運転をすることを企図して発足したことに注目すべきだろう。 つまり、当初から「汽車より電車」と考えていたわけである。
 実際に、これらの企業が好成績を収めると官鉄も対抗策として京浜線や京阪神間に 本線上を走行する電車列車を走らせ始める。 さらに、他の地区でも電鉄会社が企画され、その規模も次第に大規模になる。 その白眉は「東海電気鉄道」だろう。 東京−大阪間を高速電車で結ぼうというもので大正年間に会社として発足。 その一部区間が現在の名鉄名古屋本線となっていると言われる。 技術的実現性はともかく、この時期に既に動力分散式で長距離列車を運転する発想はあったわけだ。
 実際の運転面でも、大阪-和歌山間は戦前は電鉄線のみで連絡していたし、参宮急行による 大阪-伊勢間の運転も戦前から実現していた。 関東では、小田急や東武が50km近い距離を電車で運行している。 国鉄でも、当初は汽車だった横須賀線を電車運転に切り替えているし、 さらに、昭和15年の東京オリンピックをにらんで小田原方面への長距離電車を設計していた。
 これらは、米国でのインタアーバンの影響という見方もあるが、幹線鉄道を電車で 運行するという発想は、この辺りから既に始まっており、実績も十分でだったと言えるのでは なかろうか。つまり、80系湘南電車は成功すべくして成功したわけだ。
 これをさらに151系や全国展開にまで発想したのは島の独創とすべきだが、 今日の電車王国・気動車王国は、これらの歴史の上に発展したと見るべきではないだろうか。

電車が長距離に向かないのは乗り心地のせい?

 動力分散式列車の採用に昭和30年頃の国鉄首脳部が躊躇した最大の理由は 「電車は乗り心地が悪いからだ」というのがある。 また、電車乗務員と機関車乗務員との確執もあったと言われている。 確かに、これらは事実であろうが、それだけで切り替えに反対したのだろうか?
 今日では機関車列車も全行程を1両の機関車で牽引することがほとんどだが、かつてはそうではなかった。 特に蒸気機関車による長距離列車の場合、列車行程の途中で機関車交換が行われるのはよくあることだった。 動力車である機関車は摩耗や摩擦熱などのために客車より長距離走行に向かないのである。 となると、動力分散式ならば編成全体の交換となるため、乗客を乗せ替えなくてはいけなくなる。 この点、動力集中式ならば機関車のみを交換すればよく、乗客は直通できる。 このような事情を考えると、動力車の信頼性や耐久性が十分に高くなってからでないと、 長距離列車に動力分散式を採用するのはリスクが高すぎる。
 動力分散式列車が本格的に長距離用として採用されるのが躊躇われた本当の理由は、ここにあったのでは なかろうか。

町が汽車を嫌った?

 「明治の頃、汽車は恐ろしいもので人々に災害をもたらすだろうとして、多くの町は鉄道を 町はずれに通した。」という俗説がある。しかし、明治5年の鉄道創業時には 多くの町人が汽車見物に訪れたという記録があるし、東海道線が米原経由になってしまったため、 町の衰退を恐れた地元の出資によって鈴鹿越えの関西鉄道が発足したという事実もある。 逆に、京都・大阪・名古屋などほとんど全ての都市でも駅は当時の町はずれに建設されている。 東京ですら東京駅ができたのは後年で当初は新橋や上野、飯田町、両国に分散していた。 これら大都市では後年、駅の反対側に市街地が発展した結果として、駅が都心部になったわけで逆ではない。 市街地の立ち退きをしてまで鉄道が通せなかったのが1つの理由である。 (大阪では淀川すら渡らず、その手前に通過式に大阪駅を作っている。 現在の淀川は鉄道開業後、開削された人工河川である。) このような状況を考えると上記の俗説には疑問が湧く。
 明治期の日本の鉄道建設は民間資本による開業区間も多いが、基本は政府主導であり、 その目的は全国を有機的に連結することであった。すなわち、大都市といえども 終着駅とは考えずにその先への延長を前提に駅の位置や構造が考えられているのである。 この点で、民間資本が独自の判断で路線網を建設したヨーロッパ諸国とは事情が異なる。 このため、日本では幹線鉄道には頭端式の駅が極めて少ない。 (この制限がない大手民鉄の終着駅がほとんど全て頭端式であるのと対照的!) 全国網を考慮せずに建設された当初の横浜駅は頭端式であり、東海道線は暫時、ここで スイッチバックになっていたのを横浜駅を移転するという英断で通過式に改良されたのも この現れである。  さらに、地形についても着目すべきである。 日本は起伏に富んだ地形であるため都市間を平坦に結べない場合がしばしば発生する。 ところが、蒸気機関車は勾配に極めて弱い。 このため、全国網を優先すれば、高低差の都合で引き込めない沿線都市の駅は 必然的に町はずれとなってしまう。群馬県沼田駅がこの好例だろう。
 以上の事例を考えると、住民の反対で鉄道が町はずれになってしまった都市が それほど多数あるとは考えにくいのである。