半田利弘のSF感想:コンタクト

 SFファンでない人に有名なSFである、カールセーガンの小説の映画版です。 IAU京都総会関連の特別試写会でみました。
 SF映画としては上等な部類に属すると思います。映画館に入場料を払う程度の 価値はあると思います。
 しかし、現役科学者が演出したら、こうなるとはとても思えないシーンもあるので、 ゼメキス監督の独断演出も多々あるものと思われます。 特に、「通常の天文学の研究は意味があるが、CETIは、その点で価値がない」と いうことをドラムリンの持論として展開する余り、観客に「通常の天文学研究など という無駄な経費を認めて何故CETIのように一般にも理解できる研究には、 お金が回され無いんだ?学会のボスが自己中心的すぎるからではないのか?」と いう誤った認識を与えがちな部分が問題です。
 もう1点は、大企業の寄付金でVLAの観測時間を独占できるという設定です。 現実には、このような共同利用されている大型観測施設は「お金」で貸している のではなく、観測内容を科学的に吟味することで観測時間の割り振りを決めている ため、どんなに大金を積まれても数年にわたって観測時間を1人が独占するという ことはできません。運営費は税金から支出されており、観測者には課金されません。 したがって、お金が十二分にあり、観測時間を独占したければ、自力で自分専用の 望遠鏡を建設するというのが実際的なやり方です。 この点、この映画では誤った印象を与えがちです。
 ストーリー的には、もっと手間がかかってしかるべき異星からの通信の解読 の部分がかなり単純化されています。これは映画という性格上、2時間30分が 限界に近い長さですから、この程度の端折りは、やむを得ないと思います。
 観測風景は、かなりリアルでした。米国が誇る現役の観測装置を撮影に使用している のもリアリティーを加えていますが、コンピュータ制御化している観測室内の 光景はよく描かれています。主人公は、ヘッドフォンで信号を聞いていますが、 映画でも、よく見ているとわかるように、これは「趣味」で聞いているだけのことで、 実際の信号は計算機に記録されています。実際の電波天文学では、音ではなく、 「絵」で信号をチェックしますが、それは細かい違いでしょう。この場合も、 本来の観測データは計算機にデジタル記録され、後でデジタル処理しています。
 主人公が孤児であることと地球人が孤独であることとを重ね合わせるストーリー展開 になっており、この辺りは泣けます。うまく演出されていると思いました。全体に 神学論争的になっているのは米国が「キリスト教国家」であることを再確認するのに は、よい証拠となります。日本映画だったら、「神の存在」を巡って、このような ストーリー展開はしないでしょう。原作でも、このような部分はなかったと 聞いています。
 映画の中での「日本」の位置づけが、「哲学的に重要な文化を軽視し、実益にのみ 走り、最後はおいしいところを持っていってしまう」的に描かれていたのは、 日本人としては面白くないところです。まあ、あながち否定できない部分もあり ますが、「バックトゥーザフューチャー2」でも、日本(フジツーさん)は 比較的悪役でしたから、ゼメキスが日本嫌いなのか、日本叩きが未だに米国では うけるのかのいずれかでしょう。米国人が持っている日本のイメージを色濃く 反映しているようです。北海道へ向かう艦船の内装や主人公の装束など、 そういう点で「笑えるシーン」がいくつかあります。
 全体のストーリーとして、科学的事実から見た最大の穴は、最後のシーンでの 「でっち上げ論」に主人公が反論できないことです。初受信した際に、電波源を 長時間観測するシーンがあります。米国のみならずオーストラリア(これが日本で ないのがくやしい!)でも、「天球上の同じ方向から電波が来ている」ことを 確認しているのですから、天体力学的に言って比較的容易に地球人起源でないことは 証明できてしまうのです。この反論が思い付かないようでは主人公は「天文学者とし ては失格」でしょう。
 このようにSF的には、スペキュレーティブでもないので、「SF映画史上に残る 傑作」とは言えません。まあ、原作のカールセーガン自身がSF作家ではないので、 その点は割り引いてあげないとかわいそうかも知れませんが。
 なお、特撮は大したことはありませんので、それを期待するとがっかりです。