戦国時代末期から江戸時代初期にかけて、各地の大名は国力を高めるため米の増産、農地開拓をして米の増産に取り組みました。この後、食糧が増産されたことなどで人口は増加しましたが、かえって食糧が不足し、主食とする米の益々の増産が必要とされたといいます。 新田開発施策 新田開発の背景には、測量技術の向上があるといいます。大量の水を必要とする水田の場合は、自然の降雨のみによる供給は不可能であり、灌漑用水の整備が欠かせません。しかし平坦地、あるいは緩やかな傾斜地では用水路の掘削は不可能であり、戦国時代以前は一定以上の傾斜地でないと水田の開拓は不可能でした。 また、江戸幕府では、商人に利益保証を行うことなどで投資を行わせ新田開発を奨励する政策を行っていたため、急速に新田開発が進んだと言われています。 薩摩川内での新田開発 水の豊富な川内川水系、日照りが続いても水の枯れることはない川内川ですが、大きな川から水を揚げる技術のない時代ですので、やはり高いところから低地に水を引く用水事業が盛んに行われました。 高江広潟・長崎堤防 川内川下流の河口に近い高江一帯は、江戸時代の始め頃は、広い入江状の低水地で潮が入り米のとれない潟でした。「親がやろとて行かれよか 高江三千石火の地獄」という言い伝えがあるほどの広いだけで不毛な水田地帯だったといいます。 時の薩摩藩2代藩主島津光久は、広くて水が豊富なこの地を何とか良質の水田にしようと、1679年豊富な土木経験をもつ小野仙右衛門を工事責任者として高江に派遣し、新田の開拓を始めました。 工事は入り江の広い潟を堤防で仕切り、広い田園を整備することでした。海に近く、川内川上流から流れて来る大量の水と、海から川を遡る潮の合流地点にあるこの地での築堤は非常に難しく、築いては流され、築いては流されの繰り返しで、起工から7年経過しても完成を見ませんでした。 仙右衛門は難工事の完成を願って堤防の下手にある岩に『心』の文字を彫リ、仲間と工事の早期完成を願いました。 そして起工から8年、ついに完成を見ました。上下流の水の抵抗を考慮して、長崎堤防は七つのこぎりの歯形に作られています。この築堤技術は今でも河川関係者に高く評価されているといいます。 次のような伝説も残っています。仙右衛門はある夜「堤防工事に娘を人柱にたてよ。そして、その流れに沿って築堤せよ。」とのお告げの夢をみます。 仙右衛門は、愛娘「袈裟姫」を人柱に立て、その帯の流れのとおり、七曲りのノコギリ状の堤防を築き工事が完成しました。 長崎堤防が完成すると、川内川から潮が遡上することはなくなりましたが、低水地であることには変わりがなく、高江の山手で大雨が降ると低地の新田地帯に一斉に流れ込み、川内川への排水が容易でないため、水田は何日も浸水することが多く、農家は冠水の被害に長年苦労していました。 このような洪水を何とかしようと再び薩摩藩が立ち上がったのが、1848年の人工による八間川の開削工事でした。これによって、低水地高江新田に流れ込んでいたふたつの川の水のほとんどを八間川に流れるようにしたのです。長崎堤防工事から170年ぐらい後のことです。この八間川への導水により、また、近年は排水機場が整備されたこともあり、広潟が冠水することはなくなりました。 元村新田用水路 |