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ふるさと関連見聞録 島津の参勤交代 furusato-satumasendai
 
 多くの家来を従えての参勤交代行列は江戸に近い藩からでも大変な事業だったことでしょう。全国で最も遠い場所にある薩摩藩の参勤交代はどんなものだったのでしょうか。

 

 参勤交代

 参勤交代とは、各地の大名に一年交代で江戸に参勤させること及び夫人や嫡子の江戸在住を義務付けるものです。この参勤交代の制度が徹底されたのは、徳川幕府3代将軍徳川家光の時,寛永12年(1635年)に「武家諸法度」の改正により明文化されたそうです。

 参勤は鎌倉時代や戦国、豊臣の時代から大名の自由意思で行われていたようです。武家諸法度の改正後は、将軍への大名の忠誠と家族を人質に取ることにより大名の謀反を抑える制度として義務ずけられました。このことにより江戸期には戦争がなく安定した時代であったともいえます。

 このことにより,大名たちは江戸と領国の二重生活を余儀なくされ,江戸での出費や旅費の工面に悩まされ続けたといいます。薩摩藩主の島津氏がはじめて江戸に参勤したのは慶長12何(1607年)のことで、このときは島津家久が1180人あまりの藩士を従えて江戸にのぼり,2代将軍秀忠に拝謁し,江戸芝に宅地をあたえられました。その後,島津氏も頻繁に参勤するようになり,桜田・高輪・田町などにも藩邸が設けられたといいます。

 鹿児島からの経路

 島津氏の参勤交代は、鹿児島・江戸間およそ1700km,大名のなかでもっとも遠方からの参勤でした。江戸前期のころは薩摩半島西岸(川内・阿久根・出水)または日向細島(宮崎児日向市)と大坂のあいだは海路を利用し、大坂と江戸のあいだは東海道または中山道を利用していたようです。中期以降は海路はあまり使われなくなり、薩摩街道(西海道)・山陽道を往復していました。

 所用日数は40日から60日前後。参勤についやす経費は、享保5年(1720年)の例によると,大判4枚,新小判650枚,新一分金1200切,銀141貫,四宝銀698貫,銭6568貫文,米380石など現在のお金で約5億円という莫大なものであったそうです。

 江戸時代には参勤交代の制度などにより江戸と地方を結ぶ交通網は著しく整備されたといいますが,島津氏の領国薩摩ほかは日本の最南端に位置するため,領内を通過する大名もなく,また藩が他国人の出入りをきびしく制限していたため,宿場や街道の整備はよそよりたち遅れていたといいます。
                      
 他藩へつうじる主要街道としては出水筋・大口筋・高岡筋の三つがありました。薩摩藩では主要街道を「筋」と呼んでいましたが、出水筋は伊集院・向田(川内)・出水を経て肥後国水俣へと至り,小倉筋・西目筋とhttp://www.geocities.jp/rk_staff/image/map/sannkinn-map.gifもよばれました。海路を利用するころは、出水筋では殿様は御座船で川内川を河口の京泊まで下り、ここから海船に乗り換えて瀬戸内海を大阪に出るコースをとっており、これは経費節減策でもありました。
 大口筋は加治木・横川・大口を経て水俣へ至ります。高岡筋は福山・都城を経て日向国佐土原へと至り,日向筋・東目筋ともよばれました。このほか,加久藤(宮崎県えびの市)から肥後国人吉へ至る街道や,都城から飲肥(おび・宮崎県日南市) へ,志布志から串間へ抜ける街道もありました。
 江戸幕府は参勤交代に費用をかけることを奨励したわけではないそうですが、むしろ大名がその名声を誇示するため多くの家来を率いて行列をしたといわれています。

(内閣文庫蔵「元禄国絵図」より)。 


 《参考にさせていただいた史料等》 
 出典:『鹿児島県の歴史』 山川出版社 p176~p177
 殆んどコピーさせていただきました。

------ Furusato Satumasendai 2010.4.27
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