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ふるさと関連見聞録

薩摩藩それとも鹿児島藩

 江戸時代の歴史用語で「薩摩藩」・・・と聞いて違和感を持つことはありませんか。 


 藩は明治期の地域名

 歴史の解説書などで、「薩摩藩(鹿児島藩とも言う)」と書かれたものをよく見かけます。薩摩藩とか鹿児島藩という「藩」という言葉は、江戸時代には、一般には使われていなかったそうです。この言い方は、明治になってから使われた用語で、いわゆる、版籍奉還のあと公式に設定されたそうです。

 版籍奉還(はんせきほうかん)とは、明治2年(1869年)明治政府により行われた中央集権化事業のひとつで、諸大名から天皇に領地(版図)と領民(戸籍)を返還させたことを言います。その後、明治3年(1870年)には、藩制が布告され、このとき初めて公式に「藩」と言う区域名が誕生し、知事は時の領主が務めました。

そのため、版籍奉還だけでは、中央集権化が徹底しませんでした。そこで、政府は明治4年(1871年)には廃藩置県制度を発布して、藩を廃止して府県を置き、それまで各藩に置いていた知藩事(元領主)を東京に住まわせ、替わって政府が任命した知事(県令)を府県に住まわせました。

 藩制が敷かれた頃は、江戸末期の各大名の領土をそのまま藩としていたため、当初の府県は3府302県もありました。それぞれの領土が狭く飛び地があったりしたので、これを統合し、半年たらずで3府72県に統合され、更に順次整理され明治22年(1889年)には3府43県(北海道を除く)になりました。

 このように、「藩」という地域を区分する行政用語が正式に使われたのは、わずか2年ほどだったのですが、幕末の大名が統治していた地域をそのまま藩としたため、近代の歴史用語でも江戸時代の地方政治の区域を「藩」と呼ぶようになったようです。

 正式は鹿児島藩

 さて、では明治の藩名はどうして決まったのでしょうか。鹿児島の例でいえば、版籍奉還当時は、島津家が支配者で、一国一城の領主として、当時の薩摩国、大隅国、日向国の一部を支配していたわけですから、住民からすれば幕末からの行政区域は島津藩とした方が最もわかりやすい地域名ではなかったかと思われます。

 しかし、明治政府は、領主の名を藩の名称とはしませんでした。藩庁を領主の城の所在地名としたため、鹿児島は『鹿児島藩』となりました。一部の地域名を取った『薩摩藩』は通称名として使われるようになったようです。

 当時の領主である島津氏は、下向以来、鹿児島北西部の薩摩を拠点に鹿児島を含む南薩摩、そして、大隅、奄美、日向の一部(現:宮崎県諸県郡)へと次第に勢力を広げていきました。鹿児島に住む人は、現在の鹿児島県が旧薩摩国と大隅国及び奄美等であることは誰もが知っているところですが、県外の方々は、藩時代の島津領のすべて(現在の鹿児島県のほぼ全体)を「薩摩」と思っておられる方も多いようです。

  ***このホームページの管理者は、このホームページ中のすべてで通称名の「薩摩藩」を使っています。***

  ≪参考にさせていただいた資料≫
 
   ウィキペディア 「版籍奉還」
           「廃藩置県」

 ---- Furusato Satumasendai   2010.4.20 ----