ふるさと薩摩川内 いつか暮らした懐かしいふるさと
薩摩川内は今も変わらないか あの海 あの山 あの川は
ふるさとの今を知りたい
新しくて古いまち 大小路
HOMEへ

 大小路という地名は、近代の区画整理後に名付けられたのではないかと思えるようなハイカラな地名ですが、これが意外と古い地名で、江戸時代の始めの頃には使われているようです。
 かつての大小路と呼ばれていた地域は、現在の大小路町、東大小路町、国分寺町、御陵下町の一部だそうです。国道3号が南北に通るまちですが、この国道が2002年にリニュアルされ、歩道は電線の地中化もされ、美しい通りになっています。
 川内名物の大綱引きが三年に一度は、この大小路の国道三号で開かれ、熱戦の場となります。この国道の一筋東側には、江戸期の薩摩藩の重要道、薩摩街道(出水筋)が通っています。
 大小路地域には、近郊に泰平寺、国分寺、新田神社、八坂神社、菅原神社など古来からの寺社の名所が多数あり、永年にわたり門前の町であったことを今も窺せます。
 安土桃山時代、あの豊臣秀吉が九州征伐のため薩摩まで攻め入り、島津を降しました。その際、豊臣秀吉と島津義久は大小路の泰平寺で和睦会議をしました。
大小路国道3号と家並み
泰平寺
 泰平寺は、国道3号の東側約200mほどのところにあり、そのとなりにある泰平寺公園の一角に左の像と右の石碑があります。
 安土桃山時代、九州平定のため薩摩まで攻め入った、豊臣秀吉がここ川内で島津と戦い、豊臣軍が勝利します。
 時の当主、島津義久は敗北を認め、秀吉が陣を張っていた泰平寺で和睦をします。その時、秀吉は、泰平寺にあった庭石で和睦のしるしを作ったといわれます。これが、右の写真です。左は、そのときの様子をイメージして像にしたもの。 なんとなく、雰囲気出てますよね。

 
豊臣秀吉と島津義久の和睦に尽くした人が、泰平寺の時の和尚、有印法印
 708年に創建されたとされる、泰平寺は、この一帯に墓地は勿論、畑など現在の何倍もの土地を所有していたといわれており、秀吉が薩摩の本営とした理由が窺えます。
 泰平寺の風景と寺に伝わる「塩大黒伝説」
 
木槌を触れば、何かご利益がありそうな。寺が伝説をもとに作ったものです。
     
塩大黒伝説
昔むかし、川内では塩がとても少なくなった年がありました。
 奉平寺でも、毎日朝から晩まで、寺をあげて塩さがしに走り回っていました。
 そんなある日、本堂を掃除していた小僧は、どっかりと座っている大黒さんを見ながら、うらめしそうにつぶやきました。
「大黒さんはいいね。塩が足りなくて皆が困ってるのに、のんびりとしていれて。だいたいあなたは、福を持ってくるのが仕事でしょう。
それがなんもせんで、ちょこんと座ってるだけやないか。そうじゃろ、なあ、なんか言うてみい。」
 でも相手は木彫りの大黒さんですので、いくら文句を言っても返事をするわけがありません。
 次の日、大変なことが起こりました。
 大黒さんの姿がどこにもないのです。
 お寺のみんなは、あちこちを探しましたが、やっぱりどこにもありません。
「もしかして、泥棒にでもとられたんじゃろか?」
「これだけ探しても見つからんのじゃ。そうかもしれんな」みんなはとうとう、探すのをあきらめてしまいました。
 ところが、それから間もなくのことです。川内の港に、塩をいっぱいつんだ船がやってきました。
 川内の人々は大喜びで迎えましたが、だれが船を頼んだのかわかりません。
 そこで船頭に聞いてみると、
「四、五日前に、川内に塩を届けてくれと言って、金をどっさり置いていった人がいました。変わった格好の客で、大きな袋をかついで、頭巾をかぶっていました」と、首をかしげて答えました。
 それを聞いた小僧は、びっくりしました。
「その格好は、寺の大黒さんにそっくりじゃ。」まさかうちの大黒さんが。
 あわてて寺にもどった小僧は、またまたびっくりです。
 なんと大黒さんが、ちゃんと元の場所に座っているのです。それだけではありません。大黒さんの足が砂でよごれており、おまけにその砂が本堂の縁側からずっと続いているのです。
 さらによく見ると、大黒さんのかついでいる大きな袋が、前よりも少し小さくなっているのです。
 小僧はその場にひれ伏すと、「大黒さん、この前はすみませんでした。そして沢山の塩を有難う」
と、手をあわせてあやまリ、大喜びしたそうです。

泰平寺についての詳しいことは
こちらからどうぞ
薩摩街道
 大小路には、江戸時代の地方重要道路「薩摩街道(出水筋)」が通っていました。向田本町通り渡唐口から大小路太平橋上流の渡瀬口へ渡り、大小路、高城を経て西方、阿久根へと通じていました。大小路地区では、国道3号の東裏通りとなっていますが、御陵下地区では川内高校の校庭を通っていました。国道3号のような広い通りは、当時はありませんでした。
渡瀬口から向田渡唐口方面
   薩摩街道のことはこちらから
八坂神社
若葉町にある八坂神社
川内川河畔にあったそうですが、堤防工事で現在の場所に移されました。
その際、水神やえびす神も同時に移されました。
八坂神社隣の八坂公園では毎年7月に八坂神社の祇園祭りが開催されます。
                     
薩摩国府と国分寺
 国府とは国の政治をつかさどる役所のことですが、飛鳥、奈良、平安の時代の頃に築かれた律令政治とともに全国60ヶ所に置かれたそうです。
 鹿児島はもともと日向国に属していたそうですが、西暦702年に薩摩半島と北薩摩地方が薩摩の国として分離し、川内に国府が置かれました。さらに713年に大隅の国が分離し、国分市(現霧島市)に国府が置かれました。
 その頃、文字は一般にはほとんど普及しておらず、国府が置かれてからは、中央の文化がこの川内から地方に伝わって行ったとのことです。歴史と文化の都市のいわれがこの辺にも窺えます。
 国分寺は西暦741年聖武天皇によって国府の置かれている全国60数箇所に建立されたました。
国家の平安と国民の幸福を祈願して設置されたものですが、当時の仏教文化のシンボルとなるもので薩摩の国でも、国府の置かれたこの川内に国府に隣接して置かれていました。
薩摩国分寺塔跡の礎石
国分寺跡は発掘調査で、ほぼ全容が明らかにされ現在は史跡公園となっています
薩摩国分寺の詳しいことはこちらから  

    
菅原神社
国分寺町の国府があったとされる最も北側の一角に位置する菅原神社
今も静かに地域の皆さんを見守っています。
祀られている学問の神様となった菅原道真公は、京の都から大宰府に左遷され、その後大宰府で死亡したとされますが。死亡したと見せかけて、南九州で生き延びたとの伝説があり、湯田町や東郷町藤川にもその伝説の跡が見られます。
天神池
 永年、農業用水の溜池として活用されてきたこの池も水田が少なくなった今では役目を果たし、最近公園化され地域のいこいの場となっています。この池の左手の坂を登ると可愛山稜、中郷地区、向田地区を遠望できる小高い丘に達します。
 地元の方々は、配水地と呼んでいますが、近くに総合運動公園、中郷池などがあり、鳥のさえずりや景色を楽しみながらのんびりウォーキングする人も多く見かけます。
大実業家
 総合雑誌「改造」の出版者として知られる、山本実彦は明治の中ごろ現在の東大小路町に生まれました。小さい頃から秀才で地元の川内中学校に入学しますが、家が貧しく家計を思いやり中退して、後に大学の夜間部を経て、新聞記者となります。新聞記者として英国に派遣されるなどして、自由主義などに触れた実彦は、日本の封建思想を打破しようと衆議院選挙に立候補しましたが落選してしまいます。そのこともあり、出版物によりそれを実現しようと雑誌「改造社」を開設したそうです。
 実彦は、雑誌「改造」に寄せられた小説などの原稿を大切に保管していました。改造社に投稿していた文学者は時代の波に乗り、その後有名になった方ばかりですが、その原稿や手記が今は「川内まごころ文学館」で展示されています。
 また、改造社が発行した「日本文学全集」は当時一円均一で売られ「円本」と呼ばれるブームを作りました。また、現在のミニ文庫本のはしりとなる一冊十銭の「改造文庫」も売り出しました。
 実彦は、昭和5年には衆議院議員に当選し、川内川の改修等に尽力しました。また、外国の文化人を自費で日本に招くなど国際文化に多大な貢献をしています。与謝野鉄幹,晶子夫妻も川内に招待していますが、夫妻は川内を詠んだ詩も残しています。昭和27年67歳で亡くなりました。
新しい街並み
 東大小路と平佐地区が発展していくに従って、天大橋でつながっている、東大小路と中郷は、新しい街並みができてきました。


可愛小学校
写真の可愛小学校の正門の門柱となっているものは、写真右の第4代太平橋(明治33年から昭和25年まで)の親柱として使用されていたものだそうです。