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早川城 城山公園 
 神奈川県綾瀬市早川にある自然公園。
 鎌倉時代のころの山城 早川城の跡地です。

 早川城は、鎌倉時代御家人渋谷氏の城と伝えられています。
 鎌倉時代、この地域から薩摩(現鹿児島県)の川内川下流域を統治するため、はるばる下向した一族がいました。
 それは、後に薩摩の雄となる渋谷5兄弟でした。
 渋谷5兄弟の一人早川実重が使っていたとされる早川城は、JR横浜駅から相模鉄道で西へ約40分程行った、海老名駅近く。今は新興住宅地に隣接するこんもりとした森の中にありました。
 城は、鎌倉時代以前からのものといわれますが、公園入り口の東側には空堀跡が今もしっかり残っていました。林をさらに中に進むと平坦地に出ますが、城があった当時はもっと小高い丘ではなかったかと想像させます。
 この森一帯では100軒を超える竪穴住居址が発見されたといいますから、古来からとても環境のいい場所だったのでしょう。 
 城には籠城した時の備えとして水が欠かせません。
ここ早川城には当時から湧水があったとみられ今も湧き出ていました。

 城郭には敵の攻撃を防御する様々な工夫がされていたようです。
 この一帯を統治していた渋谷光重の子実重は早川次郎実重と名のり、この早川城を拠点に一族を統率していました。
 渋谷氏は1247年のこの一帯で起きた宝治合戦で軍功があり、薩摩国川内川水系に領地を与えられました。
 その折、光重は、長男重直のみを相模に置き、二男以下の男子5兄弟(早川、吉岡、大谷、曾司、落合)を薩摩国に下向させました。下向した5兄弟の一族は後に薩摩で居を構えた土地の名を名乗り永代活躍することになります。

 渋谷氏の薩摩下向はこちらから
 5兄弟のうち早川次郎実重は現在の鹿児島県薩摩川内市東郷町の地頭となり、東郷氏を名のりました。

 東郷氏と言えば、東郷平八郎元帥
 明治の日露戦争で当時世界中が恐れるほどの戦闘力をもったロシアのバルチック艦隊を日本海海戦で滅ぼした時の連合艦隊司令長官です。
 平八郎氏は、江戸時代の末期今の鹿児島市で生まれ武士として育ち、薩英戦争も経験した薩摩の英雄です。
 その東郷平八郎氏のご先祖の地がここ早川ということです。
 公園内に平八郎氏自筆の記念碑を見つけ筆者は感激。下向の地薩摩川内市東郷にも平八郎氏自筆の記念碑があるからです。


  
東郷平八郎元帥のことはこちらから
 
写真を撮れなかった公園の周囲は住宅販売会社のHP写真を拝借・・お許しを
≪訪問後記≫
 2011年8月27日土曜日に東京で「東京薩摩川内会」という地元出身者の懇親会が開かれるというので、前日に鹿児島からやって来た。前々から気になっていた渋谷氏の出身地相模に行ってみたい。羽田空港に降りるなり横浜・海老名経由で綾瀬市城山公園へ
 城山は、周りの光景は、歴史は・・・・公園内の説明板を見ているとそこに親切そうな老人が近寄ってきて「説明板は写真に撮ればいいじゃないか。お茶でも飲みながらベンチで語ろうよ」東京弁だ
 甘えてご馳走になった。平日の昼間からキャンプムード。公園の周りは一戸建ての新興住宅地素晴らしい環境だなと思いながら話を進めていると、その場は住宅販売会社の住環境広告のための写真撮影が終わったばかり。
 写真素材の美味しい「野菜のおやつ」を頂きながら話し込んでいると、遠くに雷鳴が
 もっと周囲の観察や写真撮影をしたかったのですが、辺りが暗くなり早足に公園を回り帰途に、その後はゲリラ豪雨だったとか

 この城跡は、整備されてまだ数年、西方には未開の小高い丘も残っています。近隣の住宅地も最近まで畑だったそうです。
 その昔は、ここ相模もまだ未開の地。我が薩摩川内市の田舎の風景とあまり変わりはなかったのかも知れません。当時は地の果てとも思える遠い九州の薩摩に下向した5兄弟も「薩摩の風景にはあまり違和感はなかったかも知れないな」と想像しつつ城跡を発ちました