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仙巌園  (鹿児島市吉野町磯)市 2010.5.4)

 仙巌園(せんがんえん)は鹿児島市吉野町磯にある薩摩藩主島津氏の別邸跡です。
 別名磯庭園と言われ邸宅より、むしろ庭園の方が有名です。敷地の面積はおよそ約5ha。江戸期1658年(万治元年)に第19代当主であった島津光久によって造園され、その後も歴代当主による改築が重ねられて来ました。庭園の東南に桜島と鹿児島湾があり、庭園内の山と池に見立てた借景は、実に素晴らしい。1958年には国指定の名勝となりました。

 幕末には第28代当主島津斉彬がこの敷地の一部を使ってヨーロッパ式製鉄所やガラス工場を建設するなどの近代化事業を起こしました。1857年(安政4年)には、園内の石灯籠にガス管をつないで点火させ灯火として用いたことから、日本のガス灯発祥の一つとして挙げられる場所にもなっています。

錫門

 写真下の錫門は、字のごとく屋根を錫で葺いてある朱色の漆塗りの門です。1848年に庭園を拡張するまでは、仙巌園の正門として使用されていたそうです。(写真左及び上が拡張後の正門)

 この門は、19代当主島津光久(第2代薩摩藩主)の時に建てられたと伝えられますが、錫瓦葺きの屋根はわが国唯一のものといいます。当時、錫は薩摩藩の特産品でした。

 仙巌園では、5月になると「島津家五月幟」を立てて端午の節句をお祝いします。
 この端午の節句幟は、第30代島津忠重の随筆『炉辺南国記』の記載をもとに平成2年に復元されたもので、雄大な桜島を望む御殿下の庭に全長10mの幟が姿を現します。

 幟は全部で7本。島津家の家紋である十文字を配したものが2本、桐紋2本、昇り竜、降り竜各1本と吹流しが1本といいます。

 1888年(明治21年)に鹿児島城が焼失したため、この別邸が島津忠義公爵一家の住まいとなっていました。その後に跡を継いだ島津忠重は薩摩藩出身の新政府高官らによって東京市に移住させられたため、仙巌園は住人不在となった時期もあったそうです。
 1948(昭和24年)に華族制度が廃止になると鹿児島市の管理下に置かれたそうですが、1952年(昭和32年)には島津家に返還され、今は庭園として解放されています。
江南竹林

 江南竹林とは中国南部産の毛竹の別称で、日本に伝えられた後に「孟宗竹」と呼ばれるようになったそうです。
 ここに庭園を築いた21代当主島津吉貴が1736年(元文元年)に中国から琉球を通じて2株を取り寄せ移植したのが日本における孟宗竹の始まり。この磯山から全国に広がっていったといいます。
 
この庭園では春の曲水の宴が継がれています
秀成荘・徒然庵

 秀成荘(広間)と徒然庵(小間)は、昭和62年に建てられた大小二つの茶室です。

 江戸末期1851年(嘉永4年)に藩主島津斉彬は、庭園の西隣接地に「集成館」という工場群を築き、軍備の強化・産業の育成を図りました。 斉彬の後を継いだ忠義は、1892年(明治25年)に集成館の一部を庭園の東の隣接地のこの場に移し、「就成所」と名付けました。

 就成所では鉱山機械の製造、銃剣、陶器の製造がおこなわれたそうです。また、仙巌園の電力を供給する水力発電所もありました。

 秀成荘の名は、この就成所にちなんでつけられたそうです。