ふるさと薩摩川内
秋月城跡と城下
 福岡県中央部の朝倉市(旧甘木市など)に位置する秋月城跡。
 鎌倉時代から安土桃山時代にかけてのこの地の豪族秋月氏が1203(建仁3)年に山城を築城したのが秋月のはじまりです。
 1587年に九州平定に進出してきた秀吉軍に破れます。秋月氏は秀吉の敵方(島津)に付いていたため敗戦後は日向高鍋(宮崎県)に3万石で移封され、江戸時代になると、福岡藩黒田家の分家5万石の城下町となりました。
 江戸期は、薩摩街道が通っており、北は小倉、南は鹿児島、西は長崎へと通じていました。当時は、千軒五千人いたといわれる城下町です。
 ここは、街道から秋月城に通じる杉の馬場への入口。野鳥川を渡って城下へ入ります。
野鳥川は、自然の堀の役目を果たしています。

 杉の馬場は江戸期以前は、杉並木の武道修業場でしたが、今は桜並木になり春には多くの観光客でにぎわうといいます。
城下の入口は、当時の高級武士、戸波半九郎
のお屋敷跡。今は秋月郷土館となっています。
 この小川を渡るといよいよ本城跡

 川は、城下の内堀の役目もありました。
本城前の堀にかかるこの通りは、瓦坂
路面には瓦を立てて敷いてあります。

ここを兵馬が頻繁に往来したといいます。
通路正面は城への入口でしたが現在は石を積んで閉鎖してあります。

石垣の内側には当時表御殿があり、現在は秋月中学校が置かれています。
城下の武家屋敷風民家▲ 
明治維新後、1876(明治9)年におきた士族の反乱、秋月の乱ののちは、城下の戸数・人口ともに半減したと言われます。今は、約300軒約1,000人程の山間の静かな町になっています。地域では、この歴史ある町を昔の雰囲気で守っておられ町全体が江戸期を偲ばせる落ち着いた街並みです。
城への長屋門   表御殿先の奥御殿の出入口でした▲
長屋門を入るとそこには、江戸期は武士の陣屋がありました。今は梅園として趣を残しています。▲
▲黒門   城の最も奥の門で城への通用門の役目をしていました。秋は紅葉とのコラボが美しいといいます。
街道筋と町屋
秋月の南西、野鳥川に架かる「秋月眼鏡橋」。江戸期晩年の1810(文化7)年に建造されました。
秋月城下には古薩摩街道がありました。北九州小倉から秋月を経由して九州南西部へ通じていました。
当時の秋月藩は、長崎警護の代番を命ぜられていました。長崎に赴いた人たちは、長崎の中島川に
架かる石橋を見て、ここ秋月にも石橋を架けたいと願っていたそうです。
そこで、秋月藩の家老宮崎織部が長崎の石工を招き架けられました。初めは長崎橋と呼ばれたそうです。
福岡県指定の有形文化財になっています。▲▼
町全体に昔の趣が残っています。 街道は次の宿場へ向けて北の古処山八丁峠を目指します。
町全体が和風に協力

観光客向けの土産屋さんや喫茶店も和風で