ふるさと薩摩川内
元村新田用水路
 樋脇町搭之原、倉野は、現在広大な水田地帯となっていますが、現在のような水田地帯となるには、江戸時代から様々な開発の歴史がありました。
 
盆地となっている樋脇平野は、広大な平地と台地があるものの、近隣に高い山がないため、水田の水が不足して米作りには困っていたようです。 日照りが続くと若宮八幡神社や稲穂神社では雨乞いの祭りをしたとの記録が残っています。
 このようなことから、江戸元禄15年(1702年)に薩摩藩は元村新田用水路事業を始めました。樋脇川上流の入来元村地区に堰をつくり、八幡水田と倉野水田まで、なんと延べ12qに及ぶ水路を引くという大工事を約2年で成し遂げ,現在も使われています。
現在の井堰は、昭和14年にコンクリートで再築されたものです。
さらに、改築された井堰は、電動で堰の開け閉めをしています。
水路の取水口は、この堰の左側、100m程上流にあります。
取水口から10mほど下流の開口部
ここからおよそ700mほどは、永遠とトンネルが続きます。
井堰下流右岸(写真右側)側の山裾をトンネルで掘り進み
ほぼ、700m行くと途中に5mほどの明かり部分が
またトンネルを抜けると入来町元村集落の水田に出ます。
元村の水田を潤しながら
また、100mぐらいのトンネルに入ります。
広大な水田を潤す水を供給するためには、相当の水が必要です。
稲作期になると井堰から幅1.5mほどのトンネルや溝を通って水がどんどん供給されます。

このあたりでは、水路は悠然と流れ何の違和感もありません。
途中、他の用水路の下をくぐり
また、トンネルを抜けて
山間部は岩や土の切り込みが続きます
そして、また、トンネルを
 平坦部では、現在改良が進み、ほとんどがコンクリートの溝に変わってきていますので、ひと目で先人の苦労を計り知ることはできません。
石組みのメガネ橋とのコラボレーションも
そして、また堀切を
途中には近代的な可動堰が
突然の洪水など大量の水が流れてくるときは、水路から溢れないようにここから川へ水を落とします。
岩下地区に来ると沿線の小さな山からの水も集め水量が増えてきます
そして、ここ岩下地区では倉野方面と八幡方面へと分岐します
こちらは、八幡方面
そしてまた、山裾を永遠と
住宅地の近くでは石積みになっているところも
この先で八幡北田間田地区の水田を潤します。
こちらは倉野地区へ向かう水路

倉野地区に到達すると、さらに東側の山裾と西側の山裾に分岐し田圃を潤しながら、余った水は近くの小川や最後は川内川に流れ込みます。

水路は、勾配が必要なため、このように低い川との立体交差が作られているところもあります。


小川の上を通る水路は、岩をくり抜いたU字の溝になっています。
倉野瀬戸のトンネル(約80m)、この地区は水源から8kmほどの場所ですがここまで来ても水が湧くように出てきます。

このトンネルは、凝灰岩の地層で江戸時代の手掘りの技術では大変な作業だったようです。
倉野地区では、沢山のトンネルが用水を繋いでいます。
 元村新田用水路が完成し、水が満遍なく供給されるようなると、稲がますます育つようになりました。水を自由に利用できるようになると、荒地の開墾や畑地の水田化も進められました。

 八幡北田間田地区には現在は、若宮八幡神社を一角とする市営住宅などがある小高い丘だけが残っていますが、水路工事が始まった当時はこの一帯に64戸の武家屋敷があったそうです。

 薩摩藩は日当たりのよいこの地に住んでいた武士を近隣の山手や丘陵地に移させて、新田を拡張しました。現在の庄内地区などの武家屋敷群は、そのころ造られたものだそうです。


 
この時代、薩摩藩の武士の数は異常に多く、地方の武士は、農業にも従事しており、塔之原の郷士も農業に従事したとの記録が残っています。

 こうして、塔之原、倉野地区は、大水田地帯として現在に引き継がれています。
難工事には数々の逸話も

 江戸時代、薩摩藩では水田開発が盛んに行われました。
 山手から低地に向けて水路を引く工事がほとんどですが、ここ樋脇では、ほぼ平坦な土地に水路を引くわけですから、丘にトンネルをくりぬく工事もありました。距離は短くても岩盤が続き全然前に進まない難工事のところもありました。そこで、元村用水の工事ではトンネルの掘削のとき出る岩石の粉一升を米一升と交換するという懸賞付きの事業もあったそうです。

 元村堰は当初、柴や竹を使って水をためる簡易なものでした。そのため堰は洪水のたびに流されることが常です。水路が完成してから150年ほど経過した、1850年頃今度は、丈夫な石堰を築く工事を始めました。大きな川を堰き止める工事は、洪水に遭うなどなかなか進みません。水神信仰の厚かったこの当時のこと、人柱をたてて工事の完成を見たそうです。