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金王八幡宮  (東京都渋谷区渋谷3  2010.6) iti      z                 u位置図一途
 東京渋谷のJR山手線渋谷駅から東へ坂を10分ほど登ったところにある『金王八幡宮』は、1092年(平安時代)にこの地の戦いで勝利した源義家が、この勝利は「河崎土佐守基家」(後の渋谷氏)の信奉する八幡神の加護であるとして、源義家の勧請でこの地に城を構えていた基家により創建されたとあります。 
 基家の子「河崎重家」は、のちに堀河天皇より『渋谷』の名を賜って「渋谷土佐守重家」となり、その後、地域一帯のことも渋谷と呼ぶようになったとの一説があるようです。
 神社がおかれていた渋谷城は、戦国時代に北条軍により焼き払われてしまいますが、神社はその後も残り、江戸時代、徳川家光の乳母である春日局は、家光の将軍就任を金王八幡宮に祈り、その願いが叶ったそうです。
 春日局と家光の守役であった青山忠俊は、1612年お礼として社殿を寄進しました。その後たびたび修理をされましたが、江戸時代初期の建築様式を今にとどめている貴重な建物です。社殿と門は、渋谷区の有形文化財に指定されています。
 茅輪(チノワ) ▲
 神話の時代、素戔鳴尊(スサノオノミコト)が旅の途中土民の蘇民将来に一夜の宿を求められた。蘇民将来は、貧しい身であったが快く尊をお泊めしたそうです。
 年を経て再び訪れた尊に「もし、天下に悪疫が流行した際にはチガヤを持って輪を作りこれを腰につけておけばそれを免れるであろう」と教えられた。
この故事に基づいて茅輪を作りこれをくぐれば災厄を免れるという信仰が生じたといい、今に伝わっています。
 金王丸影堂
 渋谷土佐守重家には、はじめ子がなく、夫婦そろって八幡宮に祈願を続ける中、金剛夜叉明王が妻の体内に宿るとの霊夢を見せ立派な子が生まれたので、金剛夜叉明王の上下の二字を戴いて「渋谷金王丸常光」と名付けたといわれます。

 金王丸は17歳の時、源義朝に従って保元の乱に参加して大功を建てました。平治の乱に敗れた義朝は、東国へ下る途中尾張国野間の長田忠宗の館に立ち寄ったところを長田の謀叛によって敢え無く最期を遂げられました。

 義朝の死後、金王丸は「土佐坊昌俊」と名乗って義朝の霊を弔っておりました。その後、源頼朝とも交わりがあり、頼朝に従って義経の暗殺計画を実行しますが失敗し、義経に討たれてしまいます。このように金王丸は、鎌倉幕府創立にも貢献しています。(諸説あり)
 金王桜
 境内にあるこの桜は、長州緋桜の一種といわれ、花弁は5〜7枚で、雄しべが花弁化したものも交じっていて、一枝に一重と八重の花が入り混じって咲く、とても珍しい桜です。
 この桜については、さまざまな伝承があり「金王神社社記」によると、源頼朝の父義朝に仕えた渋谷金王丸の名を後世に残そうとして、頼朝が鎌倉亀ケ谷の館からこの地に移植されたものとされています。
 砦の石  (写真右)

 このあたりの高台一帯は、平安時代末期から渋谷一族の居館跡で、東には鎌倉街道(現八幡通り)、西に渋谷川が流れ北東には低い谷の地形があって館を囲んでいるうえ、かつては数か所に湧泉があるという好条件を備えていたといいます。

 そこにあった館、つまり渋谷城は戦国時代の真っただ中の1524年、北条氏と上杉氏の合戦の時、渋谷氏が高輪原で北条氏と交戦中、北条の一軍により襲われ焼き払われてしまったそうです。

 写真右は、その当時の砦の石垣に使われていたもので神社の一角に残されています。

相模渋谷氏は薩摩に下向した渋谷5兄弟のルーツ


 平安時代末期のころ渋谷氏は、桓武平氏良文流秩父氏の一族(現在の埼玉県秩父地方を治めていた。)で、秩父重綱の弟基家が武蔵国橘樹郡河崎(現在の神奈川県川崎市及び横浜市の一部)に住んで河崎冠者と称し、相模国高座郡渋谷庄(現在の神奈川県綾瀬市、大和市一帯)を与えられ、その孫重国のとき「渋谷庄司重国」を称したのに始まります。庄司とは、荘官のことで領地の治安を任されていました。
 
 重国は、石橋山の合戦では、頼朝征伐軍のなかにありましたが後に頼朝に服属しています。重国の長男光重は渋谷上庄(現神奈川県綾瀬市、大和市)、美作河合郷(現岡山県東部)などを相伝しました。また、後に渋谷一族は江戸谷盛七郷(渋谷、代々木、赤坂、飯倉、麻布、一ツ木、今井等)も所領としています。

 光重は、宝治元年の合戦でも恩賞があり、薩摩の川内川下流域(現鹿児島県)の・東郷・祁答院・鶴田・入来院・高城の地頭職を得て、1248年長男重直を除く二男以下の兄弟5人をそれぞれの地に下向させました。

 兄弟は、後年下向先の地名を名字として統治することになります。
渋谷氏は、桓武平氏良文流秩父氏の一族。秩父重綱の弟基家が武蔵国橘樹郡河崎に住んで河崎冠者と称し、相模国高座郡渋谷庄を与えられ、その孫重国のとき渋谷庄司を称したの